「去華就実」と郷土の先覚者たち

第3回 天野為之と早稲田実業学校


戊辰詔書(ぼしんしょうしょ)に記された「華を去り実に就く」という言葉は、誠実に生きることの大切さを訴えるものだったので、多くの教育者に支持され、学校で学生・生徒たちに語り伝えられた。早稲田実業学校もそのひとつである。同校は「去華就実」を校是としており、「去華就実のこの校風を高くぞ持するわが健児」と校歌にもうたっている。この言葉を同校の教育理念と定めたのは、早稲田大学の2代目学長で、早稲田実業学校の創設に尽力した天野為之である。

天野為之の胸像
(小笠原記念館所蔵)

天野為之は、安政6年(1859年)、唐津藩の藩医であった天野松庵の長男として、江戸麻布桜田の唐津藩主小笠原邸で生まれた。幼くして父を亡くしたので、明治2年(1868年)、母と共に唐津に帰って来た。翌々年、唐津藩洋学寮が開設されると、そこに入学した。11歳であった。唐津藩洋学寮は「耐恒寮(たいこうりょう)」と呼ばれ、唐津城の御殿を改造して作られていた。そこに高橋是清(たかはしこれきよ。後に内閣総理大臣となる)という型破りの若い英語教師がいた。まだ18-9歳だが、たいへんな大酒飲みで豪放極まりない男だった。天野ら少年たちは、この英語教師から強烈な影響を受ける。明治初頭の激動期に、高橋是清が唐津で過ごした日々、そしてそこで育った少年たちについては、追って紹介するが、ここでは天野の足跡を追う。

高橋は翌年、東京に戻った。天野もそれを追うように明治6年(1872年)、上京して東京開成学校に入学する。ここで加藤高明、高田早苗、坪内逍遥らと交わる。東京大学に進んでからはフェノロサから英国流の経済学を熱心に学び、その研究に励む。いっぽう、小野梓、大隈重信らの唱える自由民権思想に深く共鳴し、大学卒業を待って大隈の率いる改進党に入党して政治運動に加わる。明治15年(1882年)、大隈が東京専門学校(1902年、早稲田大学と改名)を設立するにあたり、それに積極的に参加し、自ら専任講師となって経済学を教える。当時の早稲田には、内外の学生の評判となった「早稲田三博士の名講義」というのがあったという。高田早苗の憲法学、天野為之の経済学、そして坪内逍遥の文学である。


早稲田大学での講義を基礎に、明治19年(1885年)、天野は28歳の若さで名著「経済原論」を刊行する。これは日本人によって考えられ、日本語で書かれた最初の経済原論であり、日本における自由主義経済理論研究の出発点として、わが国の経済学史に残る業績とされている。明治初期にも、外国の教科書の翻訳や紹介をした経済学書はあったが、天野の「経済原論」は、それらとは違う次元の作品であり、輸入学問の域を脱した最初の達成とされている。

天野為之の著作
(小笠原記念館所蔵)

写真は、「経済原論」より後に発刊された天野の著作である。右側の赤い表紙のものは明治24年刊「高等経済原論」、左の青い表紙の本は明治43年の「経済策論」である。


経済学者としての天野は、英国古典派経済学から新古典派への橋渡しをしたジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)の影響を受けており、わが国におけるミル経済学研究の先駆者でもある。協同組合論の研究業績もあり、わが国の生活協同組合や農業協同組合の運動に学問的な影響を与えている。

しかし、このころの天野の活躍は、学者としての枠をはるかに超えるものだった。自由民権思想の普及のために各地に演説に出かけ、普通選挙の実施など、市民的権利の拡張のために奔走した。ついに明治23年(1889年)、わが国最初の衆議院議員選挙が実施されると、唐津地方で立候補し、当選した。この選挙においては、当時の品川弥二郎内務大臣の指示で激しい選挙干渉が行われた。反政府勢力の重要人物であった大隈、天野の出身地である佐賀県と、板垣退助の出身地である高知県では特にその選挙妨害がひどかった。佐賀県では死者4名を数えた。天野は二期目の選挙では落選し、それ以後、議員活動を再開する姿勢は見せなかった。


天野にはジャーナリストとしての一面もある。東洋経済新報社の経済評論誌「東洋経済新報」は、明治29年(1895年)、町田忠治を初代主幹として発刊されたが、天野は早稲田大学教授のまま二代目主幹に就任し、この雑誌の自由主義的な編集方針を確立した。また自身、明治36年(1902年)には、「経済学綱要」をこの出版社から刊行した。

天野は明治32年(1898年)、法学博士の学位を受け、大正4年(1915年)、大隈の後を継いで早稲田大学の二代目学長となる。このかん、明治35年(1901年)には早稲田実業学校を開校し、ここでも二代目校長を務めた。

激動の明治期を生きた天野は、学者、政治家、思想運動家、ジャーナリストと、様々な顔を持ち、幅広い分野でめざましい活躍をしたが、生涯の後半は青少年教育に没頭した。早稲田実業学校の校長として学校の運営にあたるかたわら、70歳を超えても、自ら少年たちに英語や経済学を教え、昭和13年(1938年)、80歳でその生涯を終えた。


爵位や金銭的な贅沢を求めず、思想、学問、そして教育に生涯を捧げた天野の生き方は、彼が早稲田実業学校の校是と定めた「去華就実」そのものだったと言えるだろう。いろんな分野で活躍したが、大隈重信や町田忠治という、「華」のあるスターと共に、彼らを助けて事業を興し、スターの後を継いで二代目指導者となることが多かった。いっぱんに評論雑誌の寿命は短く、刊行を続けること自体、容易でないのだが、「東洋経済新報」は我国を代表する長寿雑誌として今に続いているし、早稲田大学と早稲田実業学校のその後の発展については説明するまでもない。いずれの成功も、中興の祖としての天野の存在なくしてはかなわなかったことだろう。唐津の生んだ誠実と気骨の人として、今の若い世代に記憶してほしい人物である。

天野為之の書
(小笠原記念館所蔵)

本文中の写真はすべて小笠原記念館所蔵のものである。小笠原記念館は唐津市西寺町の近松寺境内にある。天野為之の墓と頌徳碑は東京都立多磨霊園9区1種9側1番にある。


参考文献:

  • 山崎猛夫著 「天野為之 日本経済学の大先達」
  • 「郷土史誌 末盧国」(松浦史談会編、芸文堂)所収