「去華就実」と郷土の先覚者たち

第4回 大隈重信と致遠館


前回に引き続いて、早稲田に関連する話題です。早稲田大学を創立したのが大隈重信(おおくましげのぶ)であることは、ひろく知られている。大隈は唐津の隣藩、佐賀藩の出身である。唐津の宮島醤油とは格別深い関係はなさそうなものだが、実は致遠館という学校を通じて結ばれた不思議な縁がある。それを語る前に、今回は大隈重信について、その生涯の概略を紹介しよう。

大隈重信

(1)少年時代

大隈重信は天保9年(1838年)、佐賀城下の会所小路で、大隈信保の長男として生まれた。父信保は長崎港警備のための砲台指揮官であった。当時の佐賀藩は長崎を管轄しており、オランダ貿易を通じて得た富と蘭学の知識を生かして、わが国初の反射型溶鉱炉を作るなど、徳川末期の日本において技術立藩を進める先進藩だった。信保は大砲の弾道計算や火薬の調合ができたと言われ、当時の下級武士としては高度な技術的知識をもつ人だった。

大隈は19歳にして蘭学寮に転じ、医学、兵学、砲術、築城術等を学ぶ。次いで政治、外交、経済を学び、24歳になる頃には蘭学寮の教官となる。いっぽう、米国艦隊のペリー提督が日本に寄港したのは大隈が15歳の時であり、日本はいよいよ開国の時代に入ろうとしていた。時代の趨勢に敏感だった佐賀藩主鍋島直正は、新しい学問と知識を学ばせるために、藩内で秀才の誉れ高かった副島種臣と大隈重信を長崎に派遣し、宣教師フルベッキの門をたたかせる。

大隈重信旧宅
(佐賀市大隈重信旧宅・記念館)

(2)長崎時代

フルベッキ(G. H. F. Verbeck)はオランダ生まれだが、22歳で渡米し、ニューヨーク州オーバーンの神学校に学び、卒業後、宣教師として長崎にやって来た。国籍はオランダともアメリカとも言われ、はっきりしないが、フルベッキ(英語読みだと、バーベック)の思想にはアメリカ文化の影響が強い。今に残る「フルベッキ書簡」には、こう記されている。「一年以上前に(来日直後)、私には二人の、とても優秀な生徒、つまり副島と大隈がいたが、彼らは私と一緒に新約聖書の大部分とアメリカ合衆国憲法のすべてを読んだ」。つまり、フルベッキは二人の秀才に英語を教えるにあたり、これらの原典を読ませることによって、キリスト教と近代民主主義の精神を同時に教えようとした。

大隈はキリスト教については、それを「尊重」する気にはなったが、信徒とはならなかった。いっぽう、人間の基本的人権と議会制民主主義の理想をうたった合衆国憲法からは、生涯を貫く決定的な影響を受ける。民主主義者大隈の思想的バックボーンは、この時期に形成されたと言ってよいだろう。「アメリカ合衆国独立宣言」(原文)を大隈は額に仕立てて、死ぬまで自室に掲げていたという。

副島種臣は当時すでに30歳代で、漢学者として、また書家として、全国に名声の伝わる大家であったが、10歳年下の大隈と共に、文字通り辞書と首っ引きで真剣に英語の勉強に励んだという。後年、明治政府において、数多の対外交渉においてこの二人が果した役割の大きさを思うと、この時期の長崎における英学修養の意味の大きさがしのばれる。大隈らはまた、長崎での修業時代に、後藤象二郎、坂本竜馬、岩崎弥太郎らと親交を持つ。

副島種臣

副島と大隈の長崎での就学が実り多いことを確かめた鍋島直正は、慶応元年(1865年)、長崎の地に佐賀藩校英学塾「致遠館(ちえんかん)」を開設し、フルベッキを校長に任命した。副島と大隈はフルベッキに学びながら、教頭格(学頭助)として教壇にも立った。大隈は学校の運営と学生の教育に熱中する。致遠館は佐賀藩の藩校でありながら、他藩にもひろく門戸を開いたので、フルベッキと大隈の声望を慕って、日本中から学生が集まった。

近隣藩は言うまでもなく、幕府役人だった勝海舟(かつかいしゅう)はその子、子鹿(ころく)を、公家の岩倉具視(いわくらともみ)はその子、具定(ともさだ)、具経(ともつね)を入学させた。タカジアスターゼの発見など、医学と生化学に大きな足跡を残した高峰譲吉(たかみねじょうきち)も生徒となった。高峰は、若き日に致遠館で大隈から直接、英学の教育を受けたことを、生涯、誇りとしていたという。こうして致遠館は、幕末から明治にかけて、現代史を彩る数々の俊才を育てることとなる。

鍋島直正

(3)初期明治政府の大隈

徳川幕府が倒れて明治政府が樹立されると、大隈は上京し、参議(天皇の側近として政治をつかさどる職)として政治にあたる。明治初期の中央政府において大隈はいろんな施策に携わったが、特に圧巻は、明治5年(1872年)の活躍である。この前年より、岩倉具視、大久保利通、伊藤博文らが米欧視察の長旅に出ていた。政府の他の実力者たちの外遊中、大隈は留守政府を任されていた。大きな派閥を持たず、他の実力者たちの権力闘争に悩んでいた大隈にとって、留守政府は絶好の活躍の場であった。

明治5年の一年間に実施された施策を列挙すると、藩札の廃止による貨幣の統一、土地制度改革、税制改革、陸軍・海軍の設立、義務教育制の実施、新橋・横浜間鉄道の敷設、人身売買禁止令、太陽暦の採用、国立第一銀行の設立、徴兵制公布など…。このほか、留守政府が行ったことを挙げると、四民平等制の実施、僧侶の肉食と妻帯の許可、銭湯における混浴の禁止、断髪令、郵便制度の改革、電信の開始、ガス灯の設置などがある。世に「文明開化」と呼ばれる出来事の主要部分が、まさにこの一年余のあいだに留守政府によって実施されたことが分かる。一人の力で政治が行える訳ではないが、政府の中心にいた大隈の実行力は驚くべきものである。

ところで、明治政府は歴史に残る数々の業績をあげるが、その一方で、「藩閥政治」と言われるように、薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)という二大藩閥勢力の激しい権力抗争の場でもあった。その中にあって、副島と大隈は、薩摩閥、長州閥のいずれにも深くは加担せず、ほとんど超然たる立場を貫いた。少数勢力の悲哀と見ることもできる。しかし逆にいえば、彼らは個人として存在意義がある故をもって活躍した。これは、この二人が格別に有能であったからに違いないが、佐賀藩の特質にも起因している。

佐賀藩には「一藩主義」という伝統があった。藩主と藩官僚の責務は藩政の充実に尽きるのであって、藩の権勢が豊かであるからといって、他藩に対して支配的な立場をとるべきではないという考えである。これは19世紀の米国が採用していたモンロー主義に通じるもので、政治的孤立主義と言うべきものである。こうした考えは、血気盛んな若者にはなかなか理解しがたいものである。大隈は若い頃、藩主鍋島直正に対して、今こそ倒幕運動のリーダーとして立ち上がるよう、繰り返し進言する。これに応えず一藩主義を守る直正に対して大隈は失望し、脱藩したりする。大隈のこうした言動に、直正は終始、寛大であった。こうした佐賀藩の政治姿勢のおかげで、副島、大隈という、明治政府における異色の知識人政治家が誕生したとも言える。


(4)在野の大隈と、首相としての大隈

大隈の真骨頂が発揮されるのはしかし、政治の中枢にいた時よりは、むしろ野にあった時である。薩長の権力抗争のあおりで明治14年(1881年)に参議を追われると、大隈は、かねての議会制民主主義の理想を実現すべく、立憲改進党を結成してその党首となる。板垣退助の自由党と並んで、わが国最初の政党である。

次いで翌年、東京専門学校(後の早稲田大学)を開校し、学長となる。こうして大隈は、藩閥政治に明け暮れる政府を鋭く批判する野党党首として、また民衆の立場に立つ教育者・知識人として、明治から大正にかけて、民衆の支持を集める。

大隈が民間人として行った文化事業は多岐に渡っている。陸軍白瀬中尉による初の南極派遣隊の支援、東京女子大学の開校、早稲田大学野球部による初の米国野球遠征、「開国五十年史」の編纂など…、書き出したらきりがない。

早稲田の学帽をかぶる
晩年の大隈重信

政党政治を求める運動の高まりに押されて、大隈は明治31年(1898年)再び政治の中枢に呼び戻され、初の政党内閣(第一次大隈内閣)を組織する。新時代のリーダーとして国民の熱い期待を背負ったが、その割には短命で、成果が少なかったので、「大ほら吹き」との陰口もたたかれた。新聞の風刺漫画に、大きな熊が、これまた大きなほら貝を持って立っているものが描かれたこともある。

大正3年(1914年)には再び首相となって第二次大隈内閣を組織する。この内閣は第一次世界大戦に参戦を決めた。この大戦中、大隈内閣は中国に対して、日本の権益拡張を強く求める「対華二十一ヶ条要求」を突きつける。対中国政策については、政府内部、軍などにいろんな対立もあり、複雑な事情はあったにせよ、この行為がその後の中国との関係を悪化させる元となったのは事実であり、首相としての大隈の限界を示すものでもあるだろう。

大隈の人柄は明るく開放的だったので、いつも多くの友人や門下生に囲まれていた。行政府にある時も在野の時も、大隈邸には国内外の来客が絶えなかった。権力闘争に巻き込まれた時も、政敵として徹底的に排斥されたり嫌悪されることはなかった。演説がうますぎるので「大風呂敷」と言われることもあったが、博学、雄弁であったことは間違いない。


(5)大隈の死

大正11年(1922年)、大隈は85歳で死去した。葬儀は早稲田大学葬として行われたが、参列者が多くなると予想されたので、東京都は日比谷公園を無償で提供した。当日の参列者は2万人にのぼった。しかし、大隈の生涯を象徴するものは葬儀後の光景であった。日比谷公園から斎場まで送られる棺に従って、各地から集った20万人とも30万人ともいわれる人々が道路を埋めて行進した。葬儀の様子を伝えた大阪毎日新聞は、「国民と交渉の深かった点において明治元老中、侯の右に出ずる者はない」と記した。
 

次回は、致遠館と宮島商店長崎支店との関係などについて記そうと思います。


参考文献:

  • 早稲田大学大学史編集所編 「大隈重信とその時代」(1989、早稲田大学出版部)
  • 木村時夫著 「知られざる大隈重信」 (2000、集英社)