「去華就実」と郷土の先覚者たち

第5回 致遠館と宮島商店長崎支店


(1)致遠館

幕末の慶応元年(1865年)、佐賀藩は、長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造して、佐賀藩校英学塾「致遠館」を設立した。現在の宮島商事(株)長崎支店の場所である。宣教師フルベッキが校長に、副島種臣と大隈重信が教頭格となって指導に当たった。我が国が開国・近代化へと向かう前夜、長崎の地で英語の学習を中心に、欧米の新しい学問や知識が教えられた。致遠館は佐賀藩の藩校ではあったが、藩外にも門戸を開いたので、向学心に燃えた学生が全国から集まり、最盛時には100名余を擁した。幕末から明治初期にかけて、多くの人材がここから巣立って行った。開校時27歳であった大隈重信にとっては、教育者として最初の大きな仕事であった。

致遠館の学生の中に、藩外から集まった勝海舟や岩倉具視の子供たちや、高峰譲吉らがいたことを前回記した。佐賀藩士にはどういう人々がいたのか。佐賀新聞が発行している「佐賀幕末明治500人」の中に、貴重な写真が紹介されている。慶応3年(1867年)、長崎と記されている。

慶応3年、長崎における佐賀藩士。
座っているのが左から副島要作、副島種臣、小出仙之助、大隈重信。立っているのが左から中島永元、相良知安、堤薫信、中野健明、中山彬とある。

大隈重信は明治2年(1869年)、住まいを東京に移して国政にあたることとなり、後年フルベッキも大隈のブレーンとして上京した。のちに致遠館は閉鎖された。


(2)宮島醤油の創業と宮島商店長崎支店

七世宮島傳兵衞
(宮島醤油の創業者)

宮島醤油の創業者である七世宮島傳兵衞は嘉永元年(1848年)、唐津に生まれている。大隈重信よりは10歳若い。宮島家は元来、船乗りを業としていたが、父喜兵衛が捕鯨に熱中して家庭崩壊状態に陥ったり、若き傳兵衛自身が取組んだ石炭運搬業でも船が遭難するといった苦い経験を経て、より堅実な事業を目指すようになる。

そして明治15年(1882年)6月1日、佐賀県唐津市水主町(かこまち)に醤油・味噌の醸造所を開いた。これが宮島醤油の創業である。

七世傳兵衞については、このシリーズでも別に述べる機会があると思うが、宮島醤油の創業をめぐる一連の史実について、明治学院大学経済学部の神山恒雄教授が、近代日本の地方経済史研究の一環として調査・研究され、まとめられた論文がある。詳しくはそちらを参照してください。この記事の末尾に参考文献として記載します。

宮島の醤油事業は順調に推移し、明治43年(1910年)には長崎地方における醤油などの販売拠点を持つ運びとなった。宮島商店はかつて致遠館が置かれていた諌早藩屋敷の土地と建物を買い取り、ここに長崎支店を開設した。

古い建物だったが、永いあいだ現役で活躍した。昭和41年(1966年)、ついに老朽化により解体され、現在の宮島商事(株)長崎支店ビルが新築された。宮島醤油本社に、解体前の長崎支店(かつての致遠館)の写真が残っている。

宮島商事長崎支店社屋。
昭和41年に新築されて現在に至る。

長屋風の大きな建物だったので、事務所として使われただけでなく、支店長を含む社員たちもここに住んで暮らしていた。昔の学生寮みたいな感じである。木製の看板が掛かっていた。

致遠館時代には二階が教室として使われていたのだろう。中庭にも大きな建屋があり、そこは醤油のびん詰め工場として使われていた。

長崎支店の木製看板。中央に「醤油 株式会社宮島商店醸造」、右に「本店 佐賀県唐津町」、左に「支店 長崎市五島町」とある。
昭和30年代の宮島商事長崎支店(かつての致遠館)。右端が事務所で、二階に木の看板が掛かっている。中央部が支店長社宅。
宮島商事長崎支店。L字型の長屋の角が事務所。事務所の右側に従業員社宅、写真上部に支店長社宅。L字型屋根の角に鬼瓦が見える。中庭の建物が醤油のびん詰め工場。唐津の工場から大きな樽に入れて運んだ醤油を、ここで一升びんなどに詰めていた。

(3)「致遠館跡」石碑の建立

大隈重信が早稲田大学を創設したのは明治15年(1882年)であり、奇しくも七世傳兵衛が醤油醸造を開始したのと同じ年である。宮島醤油の創業記念日は6月1日、早稲田大学の創立記念日は10月21日だが、今年2002年、共に120周年を迎える。

不思議な縁と言うべきだろう。120周年を前にした昨年、早稲田大学から、教育者大隈重信の出発点である致遠館の跡地に記念碑を建立したいとの申し出があり、宮島商事は快諾した。

早稲田大学は、佐賀県産の白御影石で石碑を作り、宮島商事長崎支店の一角にこれを建てた。正面の碑銘「致遠館跡」は、奥島孝康総長が自らこれを書かれた。石碑の側面には、次の銘文が彫られている。

致遠館跡石碑の除幕式
左から水間英光(早稲田大学理事)、原田延介(早稲田大学校友会長崎支部長)、宮島傳兵衞(宮島商事社長)、伊藤一長(長崎市長)

「1865年、佐賀藩が英学塾・致遠館を設立した。当時の佐賀藩士・大隈重信の熱意によるもので、校長にフルベッキを迎え、大隈自らも教壇に立ち、短い間であったが、ここから明治維新以降の日本の近代化に貢献した多くの人材が巣立っていった。後に大隈は早稲田大学を創立するが、彼の教育理念の原点がここにある。
二〇〇二年三月 早稲田大学」

 こうして、ささやかながら長崎の新しい史跡が誕生することとなった。去る2002年4月2日正午、早稲田大学の主催により、石碑の除幕式が行われた。早稲田大学から水間英光理事、早稲田大学校友会から原田延介長崎支部長、宮島商事から宮島傳兵衞社長、長崎市から伊藤一長市長が出席して除幕を行った。除幕式に引き続いて、早稲田大学から宮島傳兵衛社長に対して、感謝状が贈呈された。

致遠館跡石碑の除幕式を伝える読売新聞

(4)致遠館高等学校と鬼瓦のこと

佐賀藩校致遠館が明治初期に閉じられて以降、致遠館の名は歴史上のものとなった。長いブランクを経て、それがよみがえることとなる。昭和50年代、佐賀県は新しい県立高等学校設立の準備を始めた。昭和63年(1988年)の開校が決まり、校名にこの歴史的な名が採用された。「佐賀県立致遠館高等学校」は今年で創立14年、佐賀市兵庫町にある。若々しく有望な学校として周囲の期待を集めている。

新しい県立高校の開校という報に接し、宮島では、お祝いを贈ることにした。実はかつての致遠館の建物を解体したさい、屋根の鬼瓦(おにがわら)が立派だったのでこれを宮島醤油本社に移し、大切に保管していた。致遠館高等学校の門出を祝ってこれを贈呈することにした。当時の新聞に、鬼瓦の寄贈を受けた初代校長・内川和美先生の写真と談話が載っている。

致遠館が結ぶ縁で、宮島醤油・宮島商事が地元九州における教育・文化の活動にわずかでも関わりを持てることは幸せなことである。時代は移っても、こうした関係を大切にしたいと思う。


参考文献:

  • 福岡博著「佐賀 幕末・明治500人 第二版」(1998年、佐賀新聞社)
  • 神山恒雄著「七代宮島傳兵衞 宮島醤油の創業者」
  • 日本史学会年次別論文集 1991年版・近現代1 所収
  • 佐賀県立致遠館高等学校のホームページ