「去華就実」と郷土の先覚者たち

第13回 奥村五百子 (上)


第7回の辰野金吾から第12回の大島小太郎まで、耐恒寮の卒業生について書き続けてきましたが、今回からはその周辺の人々について書こうと思います。

奥村五百子(おくむらいおこ)は、強烈な個性で幕末から明治の時代を生き抜いた社会運動家である。女性ゆえに向けられる幾多の偏見と闘い、唐津を拠点として、幕末の尊王討幕運動、明治初期の自由民権運動、朝鮮半島における農業指導と学校建設、郷土の産業振興などに奔走した。いっぽう、わが国の歴史教育の中では、奥村五百子の戦争との関わりが問題視されてきた。日露戦争前に愛国婦人会を結成したので、その後の軍国主義的婦人運動の出発点を作った人とされ、戦後の歴史教育においては取り上げられることが少なかった。しかし奥村五百子の一側面だけを見てはいけない。この傑出した女性の全体像を知り、その生涯を正当に評価することは、今の若い世代にとっても有意義なことと思う。

奥村五百子
(明治30年代の写真)
(写真提供:唐津市)

(1)少女時代

奥村五百子は弘化2年(1845年)今の唐津市中町にある高徳寺の住職・奥村了寛の長女として生まれた。高徳寺は山号を「釜山海高徳寺」と称することからも伺われるように、浄土真宗東本願寺派の、肥前国及び朝鮮半島における布教の中心だった。父了寛は京都の公家である二条治孝の孫で、この寺の住職として京都から派遣されており、母浅子は唐津藩士の娘だった。このような格式の高いお寺にあって、五百子の二つ違いの兄円心(えんしん)も父同様、周囲の尊敬を集める存在だった。いっぽう五百子は、子どもの頃から余りに元気がよすぎて母を困惑させた。男の子とばかり遊ぶのを止めさせようと、母が女性のたしなみである舞踊、管弦、裁縫などを教えると、それらをいち早くマスターして人並み以上の腕を見せ、これで文句なかろうと母を説得し、再び男の子たちと遊んだ。

7歳になった五百子は「女の子だからそこまでしなくても」という両親を説得し、唐津神社の戸川惟成宮司の私塾に通う。

現在の高徳寺
右端の石柱に「奥村五百子誕生の地」とある。

子ども社会の中でも五百子の正義感は人一倍強く、弱い者いじめをする男の子を懲らしめ、降参させる。「女の子らしくしなさい」とか「女のくせに」という周囲の言葉に猛然と立ち向かい、論理と行動で相手を納得させてしまうところは、相手が親だろうと、先生だろうと、男の子だろうと、変わらなかった。

15歳の初夏、両親の猛反対を押し切って、五百子は見聞を広めるために憧れの京都、大阪へ旅に出た。叔父の山田勘右衛門が唐津藩の大阪留守役を務めていたので、そこに2ヶ月間滞在して、新時代の到来を準備する上方の活気を目の当たりにして帰った。この旅は、五百子がスケールの大きな社会運動家として育ってゆくうえで、ひとつの伏線となったと思われる。
 


(2)男装して長州へ密使

唐津藩は徳川譜代大名の治める藩であり、特に当時小笠原長行が幕閣であったこともあり、幕末期の抗争の中では佐幕派が優勢であった。その中で、父了寛が京都公家の出身であったことから、高徳寺はこの地方の尊王派、討幕派の拠点となっていた。長州藩の家老職である宍戸家は奥村家とは親戚にあたり、討幕運動の連携を取り合っていたが、文久3年(1863年)に起こった下関戦争のため、長州藩は一時、周囲から男子の入国を禁じた。そこで奥村了寛は五百子を密使として派遣することにした。

騒乱の世に18歳の娘の一人旅では、道中が余りにも危険なので、了寛は五百子を若武者姿に変装させ、途中までは警護をつけて送り出した。門司の浜で五百子は従者を帰し、ひとり小舟を雇って今の下関市赤間が関浜に上陸した。ほどなく長州藩の武士たちに捕らえられるが、よく見ると女性なので武士たちは皆驚き、対応に戸惑う。五百子は落ち着いた態度で潜入の目的を述べ、家老への面会を求め、それを実現した。

了寛から長州藩家老へ送られた密書の内容は、唐津藩と周辺の情勢報告のようなものと推定されているが、詳細は分かっていない。しかし、こうして使命を果した五百子の武勇伝は、尊王派の志士たちのあいだで有名になり、唐津の高徳寺を訪れる志士たちも増え、寺は尊王運動の拠点としての性格をますます強めて行く。慶応元年(1865年)、三条実美(さんじょうさねとみ)ら主だった公卿たちが大宰府に逃れてきた時、奥村了寛は五百子を大宰府に派遣して、公卿たちに様々な便宜を図っている。
 


(3)家庭生活

政治が激動するいっぽうで、慶応2年(1866年)、22歳の五百子は唐津塩屋町、福成寺の住職である大友法忍に嫁ぐ。しばし平和な家庭生活を送ったが、明治元年から翌年にかけて不幸が襲う。父了寛と夫法忍を相次いで病で失った。五百子は高徳寺に戻り、悲しみに耐えながら母浅子、兄円心と共に過ごすことになった。

明治の時代になってからも、高徳寺には現体制を批判する勢力が出入りしていた。その中に鯉渕彦五郎(こいぶちひこごろう)という水戸藩士がいた。万延元年(1860年)の桜田門外の変において幕府の大老・井伊直弼(いいなおすけ)を討った水戸藩士の一派で、幕府の追手を逃れて高徳寺に身を寄せていた。五百子は再婚を望んだが、母と兄は反対した。彦五郎に生活力のないのが主な理由だった。言い出したらきかない性分の五百子は寺を出た。武雄、次いで平戸で茶を売る店を開き、夫と子供たちを養った。

このかん、婿入りの形での結婚を承諾してもらうために、水戸への長旅をしている。そこで頂いた餞別を使って、帰りに東京で沢山の古着を買い込み、それをもとに唐津で古着屋を開いた。大胆な一方で用意周到な才覚がここにも現れている。唐津では魚屋町に古着とお茶を扱う店を開いた。母から教わった裁縫の腕が身を助けたと言われる。五百子の商売は彼女の人柄がそのまま現れるものだった。客には仕入れ原価を教え、次いで自分が頂く手数料の中身を示し、それを足したものが売価だった。決して大きな利益を求めず、また、無理な値引きを迫る客にはそれが不可能であることを説明した。客が身分不相応に高価な衣類を求める時には、そういう贅沢をせず、もっと堅実な生き方をするよう説教した。

商売の傍ら、生来の世話好きが頭をもたげ、ご近所の夫婦喧嘩の仲裁から地方政治の問題にいたるまで、五百子は諸事にわたって頼りにされた。「しっかり者のおばさん」として、忙しくも充実した市井の日々を送った。しかし夫との関係は悪化し、明治20年(1887年)、43歳の時、離別した。以後、結婚はせず、社会運動に本格的に身を投じた。


(4)天野為之を救う

自由民権運動が実り、明治23年(1890年)、第一回帝国議会選挙が行われた。連載第3回に記したように、この選挙に、唐津では、耐恒寮卒業生の一人である天野為之が民党から立候補し、数々の選挙妨害をはねのけて当選した。五百子は天野陣営の指揮をとったが、その統率力に周囲は舌を巻いた。

2年後、第2回の選挙が行われた。ここでも選挙妨害は甚だしかった。伊万里の演説会へ人力車で出かける天野を暴漢が襲った。海士町(あままち)の路上でのことである。天野と支持者たちは路上に引きずり出されて暴行を受け、動けなくなった。知らせを聞いて駆けつけた五百子は見物人を掻き分け、暴漢どもを見つけるや「卑怯者!」と叱りつけ、大声で啖呵(たんか)を切った。その剣幕のあまりの激しさに、暴漢どもは退散した。後に法学博士・早稲田大学総長となった天野は五百子を命の恩人と讃えた。

天野為之
(写真提供:唐津市)

(5)国家中枢への人脈

暴漢を退散させたことはエピソードのひとつに過ぎないが、奥村五百子の存在は、東京でもしだいに評判となる。五百子が唐津の地で進めている郷土振興や国際人道支援の活動が天野らによって紹介されると、政官界・学界の大物たちが注目するようになる。大隈重信は天野の紹介で五百子に会い、その私心のなさと豪胆ぶりに魅了され、以後、熱心な後援者となる。

五百子の後半生における最も重要な人物の一人は小笠原長生(ながなり)である。長生は幕末の老中小笠原長行(ながみち)の長男で、唐津藩主の後継者とされていたので、唐津の人々は明治の世になっても長生を「殿様」と呼び慕っていた。長生は子爵・海軍軍司令部参謀・海軍中将という地位を務め、華族軍人としての生涯を送っていたが、学識豊かな人だったので、後に東宮御学問所幹事、次いで宮中顧問官を命ぜられ、皇太子(後の昭和天皇)の教育にあたった。

長生は五百子に初めて会った時の様子をこう記している。「私が初めて奥村五百子女史に会ったのは、明治22年、23歳の少尉候補生時代で、軍艦高千穂に乗り、修理のために長崎港に入ったのを機会に、郷里を訪問した時のことであった。女史は当時45歳-元気はつらつ、談論風発、大いに国家社会を論じておった」。こうして意気投合して以来、長生は五百子の活動を終始一貫、支援した。五百子は上京すると、小笠原邸に泊まるのが常であった。長生の母満寿子は、五百子のうなる義太夫を聞くのを楽しみにしていたという。

少尉候補生時代の小笠原長生(日清戦争当時、軍艦高千穂内で撮影されたとされる。)
『小笠原長生と其随筆』より

天野、大隈という政官界、学界の大物の知遇を得ただけでなく、小笠原長生を通じて海軍幹部、華族の夫人たち、そして皇室にまで五百子の人脈は広がった。五百子晩年の活動を援助した人々の中には、榎本武揚、樺山資紀、近衛篤麿、島田三郎、楠本正隆、箕浦勝人らがいた。

国の政治に携わるこうした人々が、何故、いわば只の「田舎の元気なばあさん」をここまで大切にしたのか。その第一の鍵は、後節で述べるように、五百子の社会思想と運動が当時の国策に合致したということだろう。それに加えて第二の鍵は、五百子の痛快な人柄にあったようだ。書道の達人でもあった長生は、色紙などを求められる時に使う雅号を五百子に与えるにあたって「三無婆庵」という号を選んだ。「三無」とは「私欲がない、駆け引きがない、負け惜しみがない」だそうだ。この「三無」に加えて、おそらくは無類の図々しさを武器に、五百子は正面から大物たちに談判を申し込み、反論し得ない道理を展開して、数々の手柄を立てたようだ。

要人たちも、この婆さんにやり込められることを楽しんでいたふしがある。明治24年(1891年)、国は、唐津南部に所有していた岸岳官有林を唐津町に払い下げることに同意したが、豪傑で鳴らした榎本武揚農商務大臣、樺山資紀海軍大臣とのあいだに逸話がある。五百子が、自分は相撲でも男に負けないと言うので、榎本はうっかり、「それなら一度、あなたと勝負したい」と言ってしまう。後日、「私が勝ったら町に払い下げ、あなたが勝ったら管有林はそのまま」と、五百子に相撲での勝負を迫られて引っ込みがつかなくなり、まさか本当に相撲をとる訳にもいかず、榎本は折れたという。こういう逸話には脚色があるから、真に受ける訳にはいかないが、五百子人脈の空気を伝えるものではあるだろう。

明治22年(1889年)、唐津港は国の特別輸出港に指定された。明治29年(1896年)には木製の松浦橋が完成したが、500メートルに及ぶこの橋は当時、西日本最長のもので、使われた木材の量はたいへんなものだった。これは、岸岳官有林の払い下げによって実現した。唐津港(西唐津港)が整備されたことにより、松浦川河口にあった海軍御用炭貯蔵所の役割は終えたとして、これも唐津町に払い下げられた。このように、明治中期、国を動かして実現した数々の郷土振興策の陰には、五百子らによる国の中枢部への働きかけがあった。

松浦川河口にかかる木製の松浦橋(明治40年代)
(写真提供:唐津市)

明治20年(1887年)、唐津港を国際貿易港として開港するための陳情団。東京の大隈重信邸における記念撮影。
前列右から奥村五百子、山辺浜雄、2人おいて武富時敏、大隈重信、大隈綾子、大隈侯秘書、大木遠吉、天野為之(左から4人目)。
(高徳寺住職・奥村豊氏が山辺浜雄の孫・山辺済氏から寄贈された写真)

 

(次号に続く)