「去華就実」と郷土の先覚者たち

第18回 竹内明太郎 (下)


明治後期から大正期にかけて、竹内明太郎の事業は、鉱山業から機械工業へ、そして技術教育へと大きく転回します。


(7)遊泉寺銅山と小松鉄工所

現在の石川県小松市郊外の山中に、徳川時代に発見された銅山があった。遊泉寺銅山と呼ばれた。竹内明太郎は明治35年(1902年)、この銅山の開拓に乗り出す。芳ノ谷炭鉱での経験を生かし、遊泉寺-小松間の約8キロメートルに及ぶ専用鉄道の敷設、小型溶鉱炉真吹法の採用など、近代的な鉱山経営によって業績を上げた。

そのいっぽうで明太郎は、明治44年(1911年)から大正元年(1912年)にかけて、二度目の欧州視察に出た。そこで彼我の機械工業技術力の格差をいっそう痛感し、鉱山業から機械工業へ、そして技術教育へというシフトをますます強めて行った。すでに第一回欧州視察の直後から、有能な技術者を欧米に派遣していたが、この取り組みをいっそう強めた。遊泉寺銅山の所長・岩井輿助と、明太郎が株主をしていた快進社の社長・橋本増治郎を技術習得のため米国に派遣し、唐津に続く第二の鉄工所建設の準備に入った。

唐津鉄工所の設立から10年後の大正6年(1917年)、遊泉寺銅山の付属施設として「小松鉄工所」が設立された。橋本増治郎が快進社社長のまま兼任で初代所長となった。翌年には見習生養成所(後の工科青年学校)も附設された。旋盤などの工作機械に唐津鉄工所製のものが使われ、唐津からの技術指導も積極的に行われた。兄弟会社としての性格を象徴するのは、小松鉄工所の本社建築である。これは、竹尾年助が米国において、唐津鉄工所本社用に、米国の建築事務所に作らせた図面をもとに造られた。

明太郎は次いで、国産機械の品質向上を目指して、特殊鋼材の自家製造に踏み切る。遊泉寺銅山内に、岩井輿助を所長とする「竹内鉱業小松電気製鋼所」を開設し、電気炉による鋼材生産に入った。

明太郎が九州の唐津に続いて北陸の小松に先進的な鉄工所を設立したことは注目すべきことである。それは、鉱山に近いという立地条件だけでなく、将来の工業日本を支える技術を育む拠点は、落ち着いた地方都市に置くべきだとの信念に基づくものであった。また、農漁村地帯に新しい産業を興したいという意図もあったと指摘されている。

第一次世界大戦は世界の鉱工業生産を刺激したが、その後の反動不況により、親会社の竹内鉱業は不振に陥った。芳ノ谷炭鉱は三菱に売却され、唐津鉄工所は大正5年(1916年)に独立会社となった。遊泉寺銅山は大正9年(1920年)に閉鎖され、その付属施設だった小松鉄工所は独立して「小松製作所」となった。明太郎は引き続き経営の実権を握ったが、大島小太郎(連載第12回)など、新たな出資者も加わった。こうして小松製作所は苦境を乗り切り、戦中は軍需工場として、戦後は初の国産トラクターやブルドーザーを開発し、建設機械のトップメーカーとなった。事業は国際的なものとなり、現在の(株)コマツに至っている。


(8)初の国産自動車ダット号の誕生

橋本増治郎は明治8年(1875年)、今の愛知県岡崎市に生まれた。東京高等工業学校(今の東京工業大学)機械科を卒業後、明治35年(1902年)、農商務省海外実業訓練生として3年間、ニューヨーク州オーボーン市のマッキントッシュ会社で学んだ。帰国後勤めていた中島鉄工所という会社が九州炭鉱汽船会社に吸収され、橋本は長崎県崎戸島(さきとしま)の炭鉱に赴任を命じられた。当時、九州炭鉱汽船の社長は田健次郎(でんけんじろう)が務めており、竹内明太郎はその株主であった。

橋本の崎戸島勤務中、不便な島の暮らしを心配した明太郎が、唐津から新鮮な野菜を届けるなど、二人は親密な交流をしている。このかん、橋本は田と明太郎に対して自動車製造にかける夢を語り、二人はそれを支援することとなる。明治44年(1911年)、橋本を社長とする「快進社」という、いかにも元気な名前の会社が東京の竹内鉱業本社内に作られ、次いで今の豊島区東長崎に工場が建てられた。ガソリンエンジンによる初の国産自動車の試作が始まった。試作車が完成したのは大正3年(1914年)のことである。この年の3月に上野で開かれた大正博覧会に出展された国産第一号自動車は「DAT(ダット、脱兎)号」と名づけられた。橋本が「産みの親」と慕う田健次郎(D)、青山禄郎(A)、竹内明太郎(T)のイニシャルをとったものである。

昭和7年(1932年)、ダット号の大量生産が始まるにあたり、DATの息子(Son)という意味で「DATSON(ダットサン)」と命名されたが、ソン(損)と発音されては困るので、Sun(太陽)の文字が使われることとなり、「DATSUN(ダットサン)」が誕生したというエピソードがある。

快進社は「ダット自動車商会」、次いで「ダット自動車製造社」と名前を変え、これが今の日産自動車へと発展して行く。橋本はこのかん、明太郎の求めに応じて小松鉄工所の初代所長を兼務するなど、明太郎の事業を支える優秀な技術者の一人であった。


(9)早稲田大学理工科の誕生

手島精一は嘉永2年(1849年)、今の千葉県にあった菊間藩の藩士の家に生まれた秀才である。明治3年(1870年)、米国のラファイエット大学に入学し、明治5年(1872年)、岩倉使節団に随行して欧米を視察した。

帰国後、東京高等工業学校(今の東京工業大学)を設立し、校長となった。明治期全体を通して、学界と産業界を結ぶ重鎮として、わが国の工業技術と技術教育に大きな足跡を残した。明太郎より11歳の年長だが、二人は長年の友人として互いの事業を助けた。

手島精一
国立国会図書館
「近代日本人の肖像」より

明太郎は、竹内鉱業グループの社員を次々に欧米に派遣して研修させると同時に、手島と緊密な連携をとって、将来の工業日本を支えるべき人材を発掘して育てた。明太郎が構想していたのは、初の私立工科大学を唐津の地に設立することだった。手島の命により、東京高等工業学校教授である牧野啓吾がその準備に当たった。産業界・学界の両面に強力な影響力を持つ竹内、手島、牧野という布陣によって、来るべき工科大学の教授候補者が着々と準備された。

いっぽう、明治15年(1882年)に発足した早稲田大学は、政治経済学科、法律学科に次いで、理工科を開設することを悲願としていた。ところが当時の早稲田大学関係者の力では資金も人材も集まらず、とうとう学長の高田早苗が手島に助けを求めることとなった。手島の計らいで早稲田の窮状が明太郎に伝えられた。その頃、明太郎サイドでも、新設大学の立地が唐津では、学生の募集が難しいから、もっと都会に立地すべきだとの意見が明太郎に伝えられていた。

手島から早稲田の状況を聞いた明太郎は、自らが準備していた教授陣と設立準備資金を、そっくり早稲田大学に提供した。遠藤政直(機械学科長)、牧野賢吾(電気学科長)、小池佐太郎(採鉱学科長)、佐藤功一(建築学科長)という4人の初代学科長が揃い、小松電気製鋼所初代所長の岩井輿助も採鉱学科教授として派遣された。教務主任を牧野啓吾が務めた。こうして明治41年(1908年)4月、早稲田大学理工科が誕生した。発足後も明太郎は、機械設備、実験器具、更には給料の一部に至るまで援助を惜しまなかった。

明太郎のこの無私の行為は人々の心を打った。大隈重信は明太郎を「無名の英雄」と称え、大正3年に発行された「大正人名辞典」には「斯くの如きは殆ど他に類例なき学界の美事」と記された。早稲田大学は現在の理工学部に「竹内記念ラウンジ」を設けて感謝の気持ちを表している。


(10)高知工業高校

明治45年(1912年)、ふるさと高知への恩返しとして、明太郎は高知市に私立高知工業学校を設立した。わが国の職業学校として初の五年制が敷かれ、国漢、数学、外国語、地理、歴史、体育など幅広い教育が行われた。なかでもユニークなのは、聖書の時間があったことである。教師の人選にあたっては、ここでも手島精一の推薦を仰いだ。

校内に実習工場を持ち、焼玉エンジンなど教育用機械類の多くはここで製作された。最新の機械製作技術を身につけるため、教師たちは夏休みの期間中、唐津鉄工所、小松製作所などに派遣された。竹内鉱業グループとしての強みが巧みに生かされている。大正12年(1923年)、この学校は高知県に移管され、高知県立高知工業高等学校となって現在に至っている。


(11)工業日本の出発点

竹内明太郎は工業日本の出発点にいた人である。鉱業、金属工業、機械工業、自動車工業、理工学教育、職業教育という、すべての分野で先駆者の一人であった。また、これらの分野において、人を育てた。国の将来を見る眼を持ち、独創的な生涯を送った。

明治中期、竹内鉱業株式会社は三井・三菱と並ぶ大企業として繁栄した。しかし大正から昭和にかけての不況のなかで苦戦し、昭和3年(1928年)に明太郎が死去すると、竹内鉱業も解散された。振り返って見れば、大財閥となった三井・三菱も、竹内と同様、初期における富の蓄積を鉱山からの収入に頼った。三井・三菱はその傍ら、いち早く銀行と総合商社を作り、政財界に満遍なく影響力を確保して、総合力で恐慌を乗り切った。いっぽう竹内鉱業は機械工業と技術教育に賭けて、結果として生き残りに失敗した。明太郎が育てた機械工業各社も、この過程で順次、売却されて行った。教育面でも、現在、竹内の名を冠する学校は残っていない。

こうして、竹内明太郎は現代の人々からは遠い存在になってしまった。父・竹内綱に比べれば、バランスのとれた経営者であったが、それでも、苦境の中であらゆる手立てを講じて生き残りを模索するしたたかさは持ち合わせていなかったということだろう。

成し遂げた事業の先駆性や、後世に与えた影響の大きさの割に、その実像が知られていないので、竹内明太郎は「無名の英雄」、「沈黙の巨星」などと呼ばれる。しかし、彼が育て、順次独立させていった企業群や、発足に関わった大学、学校等は、明太郎の手を離れた後、立派に発展した。工業立国の理想を掲げ、実際の事業においても、技術と品質重視の姿勢を明確に提示してそれを貫いた竹内明太郎の生き方には、財閥系経営者にはない潔さがある。

竹内明太郎は明治19年(1886年)1月から大正11年(1922年)までの36年間、唐津に住居を持った。唐津市南城内(かつての南三の丸)に構えられた広大な邸宅で、社内テニス大会がここで開かれたという広さである。高取伊好竹尾年助大島小太郎麻生政包などの家とも近い。竹内鉱業の本社が東京に置かれてからは在京のことが多かったようだが、毎年、夏はここで過ごしたという。今は石垣と土塀だけが残っている。

旧竹内邸東塀(2003年5月)

旧竹内邸北塀(2003年5月)

参考文献:

  • 小松商工会議所機械金属部会編「沈黙の巨星 コマツ創業の人・竹内明太郎伝」(1996年、北国新聞社)
  • 「小松製作所五十年の歩み ―略史―」(1971年、(株)小松製作所)
  • (株)唐津鉄工所編 「てっこうしょのことども ―社史・前編-」(2002年、(株)唐津鉄工所)
  • 「高取伊好翁伝(稿本)」 石炭研究資料叢書 第5巻 73-171頁(1984年、九州大学石炭資料研究センター)
  • 五十嵐栄吉編「大正人名辞典」(1914年、東洋新報社)

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