「去華就実」と郷土の先覚者たち

第19回 竹尾年助 (上)


竹尾年助(たけおとしすけ)は唐津鉄工所の初代所長として、唐津の地に先進的な精密機械製造会社を育てた。技術と品質を第一とする経営方針のもと、わが国の機械工業の発展史に独特の位置を占めた。

竹尾年助

(1)少年時代

竹尾年助は明治6年(1873年)、愛知県八名郡加茂村に生まれた。父彦九郎、母みちの三男だった。父の竹尾彦九郎は郡書記などを務めた地方官吏で、地元の灌漑(かんがい)用水事業に取り組んだ。明治初期まで、愛知県の加茂、八名井、金沢三村には灌漑施設がなく、豊川の氾濫による洪水と干ばつが交互に起こって人々を苦しめていた。彦九郎らの尽力によって豊川の水が三村に引かれ、東三河地方の農業振興と人々の生活の安定に、大きな貢献をした。現在も豊橋市立加茂小学校の校庭に、竹尾彦九郎の顕彰碑があるという。

竹尾年助は中学校を卒業した頃、福沢諭吉の講演を聴く機会があった。わが国が欧米に伍して生きて行くためには、工業立国しか道はないという主張に共感し、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)への進学を志す。同校機械科に進学し、明治27年(1894年)に卒業した。

年助は在学中に竹尾から山内へと姓が変わっている。石油精製業を営む山内家の長男として迎えられたのである。当時の日本では、家業を継がせるために、優秀な学生を他家から養子として迎えることがよく行われた。学校を出た年助は山内家の石油精製業に従事し、技術上の発明をいくつか行って事業に貢献した。しかしほどなく、山内家側の事情によって養子縁組が解消される。山内家では、年助の貢献に報いるために、米国への留学費用として2千円を渡した。竹尾姓に戻った年助は、恩師の紹介を得て米国へと渡った。


(2)高峰研究所

渡米した竹尾はまず、ニューヨークの高峰研究所に入った。所長の高峰譲吉(たかみねじょうきち)は明治の日本を代表する、世界的な生化学者である。この連載でも記したように、若き日に長崎の致遠館(ちえんかん)で大隈重信らに学んだ後、上京して工学寮(後の工部大学校)の第一期生となった。曽禰達蔵辰野金吾麻生政包志田林三郎らと同期生である。

高峰譲吉

特に辰野(造家学科)、志田(電気学科)、高峰(化学科)は工部大学校第一期生のうち、各学科の首席として官費留学生に選ばれ、欧州で学んだ仲間であった。高峰の学問上の業績は素晴らしい。洗練された生化学者であったが、その研究は常に新しい産業の育成を意識していた。日本での研究には、トウモロコシの酵素分解法の開発がある。渡米してからは、過燐酸肥料を開発し、日本の伝統的麹菌(コウジキン)の中から、酵素製剤・タカジアスターゼを抽出、製造し、また、牛の副腎皮質からアドレナリンを発見するなど、世界の生化学と化学工業をリードした。

竹尾はこの研究所に在籍したものの、生化学の本格的な研究には参加していない。研究の手伝いをしながら英語の勉強をし、米国での生活に順応するための時間を過ごしたようだ。


(3)スティーブンス工科大学

明治29年(1896年)、竹尾はニュージャージー州ホーボーケン(Hoboken)にあるスティーブンス工科大学(Stevens Institute of Technology)に入学した。東京高等工業学校からの紹介によって2年間の教養課程を免除され、機械学科3年次からの編入となった。私費留学生であった彼は、この編入措置によって経済的におおいに助けられる。2年間の大学生活を終えて明治31年(1898年)6月、卒業したが、引き続き同大学機械学科主任のデントン(J. E. Denton)教授のもとに残り、ディーゼルエンジンの研究に従事した。

竹尾年助の
スティーブンス工科大学卒業証書
(唐津鉄工所所蔵)

ディーゼルエンジンは、ドイツ人ルドルフ・ディーゼル(Rudolf Diesel)が1892年に発明した内燃機関である。従来の内燃機関では、石油燃料と空気を混ぜて燃焼室に入れ、これを圧縮したうえで電気火花で点火する。この方式は現在のガソリンエンジンに引き継がれている。

ルドルフ・ディーゼル

いっぽうディーゼル機関では、空気だけを燃焼室に入れて圧縮し、そこに高圧燃料を吹き込んで自己着火させる。この方式では点火プラグが要らないだけでなく、熱効率が飛躍的に向上した。従来の内燃機関では、自然発火によるノッキングを避けるために、圧縮比を高く設定できず、これが熱効率の限界となっていた。ディーゼルエンジンはこの限界を打破し、熱力学第二法則の理論限界に近い熱効率を実現した。

デントン教授は、ミュンヘンで発表されたこのエンジンの優れた性能に注目し、竹尾らを誘ってその解析に着手している。ディーゼルエンジンが小型の熱機関・内燃機関の中で最高の熱効率を有することは、こんにちではよく知られていることだが、発明後間もないこの時期、世界中でこのエンジンの研究が始まっていた。大学を出たばかりの竹尾が、すぐに先端技術の研究に参加できたことは、技術者のスタートとして幸運だったと言えるだろう。この研究によって、竹尾は修士(M. S.)の学位を得た。


(4)米国で機械技術者として出発

大学を出た竹尾は先ず、ホーボーケン市内にあったフォーブス社(W. D. Forbs & Co.)に勤めて機械の設計と製図に従事した後、ロードアイランド州のプロビデンス製作所(Providence Engineering Works)に移って大型機械の設計と製造に携わった。ここで竹尾は発電機の組み立てに従事した。タービンの回転軸にベアリングを取り付けるさい、回転軸が重いので、たわみが生じる。このたわみに沿った、非常に高い精度での調整が必要になる。従来は職人の勘と試行錯誤でこれが行われていた。竹尾は金属弾性学にもとづく計算によって、一発で最適な取り付けを実現し、声望を高めた。

1900年頃のプロビデンス製作所(ニューイングランド無線通信および蒸気機関博物館のホームページより)

大学でのディーゼルエンジンの研究は、プロビデンス製作所で大きな成果となって結実する。竹尾らが製作に携わった同社の蒸気機関が、熱効率競争において、その年の全米一位の栄誉に輝いたのである。こうした業績によって、後の明治41年(1908年)、竹尾は米国機械学会(ASME、The American Society of Mechanical Engineers)の会員に推挙された。

竹尾年助の米国機械学会会員証
(唐津鉄工所所蔵)

明治34年(1901年)、竹尾はボストンのプランターズ社(Planters Comp. Co.)に移り、製綿機械の開発と設計に従事した。このように、新進気鋭の機械技術者として米国における地歩を固めつつあった竹尾は、日本に帰国する意思は持っていなかった。


(5)帰国・竹内明太郎との出会い

明治36年(1903年)8月、愛知県加茂村の実家からの手紙により、竹尾は急遽帰国することになった。会社には2ヶ月の休暇を申し出た。帰ってみると実家は、連帯保証人となった人の借金のために、危機に見舞われていた。竹尾はその解決に奔走したが、そうこうしているうちに休暇を使い果たしてしまい、プランターズ社への復帰をあきらめざるを得なくなった。日本で働くことに決めた竹尾は、先ず、友人が福岡県で経営する幸袋工作所に、次いで大阪鉄工所に勤めた。

しばらくして、恩師である東京高等工業学校の手島精一校長から、竹内明太郎を紹介された。竹内鉱業株式会社という、日本各地に鉱山を持つ大会社の経営者であり、同時に、日本が欧米に肩を並べるためには、工業を興して基礎的な国力を高めることこそ急務だという強い信念を持つ人物だった。竹尾と竹内はすぐに意気投合した。二人が初めて出会ったのは明治39年(1906年)とされているが、この時、竹尾が33歳、竹内は46歳であった。

手島精一像
(唐津鉄工所所蔵)

竹内には、わが国の工業技術を高め、欧米に並ぶものにするための技術センターを設立したいとの強い思いがあった。具体的には、技術本位の鉄工所と、それを基礎から支える理工科大学の設立だった。竹内は竹尾に、新設鉄工所の指揮を任せること、そして、竹内鉱業の所有する土地の中から、北海道の夕張、石川県の小松、佐賀県の唐津など、竹尾の気に入った場所に鉄工所を建設してよいと、立地の決断をも一任した。

竹内明太郎

これらの土地は各々、大夕張炭鉱、遊泉寺銅山、芳ノ谷炭鉱という、竹内鉱業の代表的な鉱山に隣接している。実績のほとんどないわが国で機械工業を始めるにあたって、最初は鉱山付属の鉄工所として、自社鉱山で使う機械の製作から始めるのがよかろうという、竹内の戦略があった。

明治39年(1906年)9月6日、竹尾年助は初めて唐津を訪れた。東京・新橋から汽車に乗り、前夜は佐賀に泊まり、翌朝、唐津に向かった。佐賀から多久(たく)までは鉄道がなかったので人力車を利用した。多久から唐津に向かう鉄道(現在のJR唐津線)は主として石炭輸送を目的としていたので、乗客は二の次である。駅では延々と石炭の積み込みが行われ、それが終わるまで汽車は動かない。終着駅の唐津妙見(今の西唐津駅)にたどり着いた時にはすでに日が暮れていた。「こんな不便な土地は真っ平だ」と思ったという。日帰りで佐賀に戻るつもりだったが、あきらめて唐津に泊まることにした。

唐津妙見駅に降り立つと、その北側、海に面した砂浜と松の林に沿って広がる6500坪の広大な土地があった。竹内明太郎が竹尾のために用意した新設鉄工所用地である。その宵はちょうど満月であった。筑紫連山から上る月の光が唐津湾の海面を照らし、白い砂浜に押し寄せる波は金色銀色に輝いていた。余りの美しさに胸打たれた竹尾は、この地に根付いて近代的な機械工業を興すこと、その事業に全力を傾けることをその場で決意したという。この時の竹尾の心境は、本人から直接に聞いたご子息の彦己(ひこき)さんが語っておられる。

「唐津に着いたのは日が暮れてから。迎えの社員に案内されて現在の地へ。小松原で、その先には波静かな唐津湾。あたかも東の筑紫連山から満月が昇って海は金波、銀波。鉄道と海岸の中間の土地、工場には恰好と合格点をつけた。全てに合理主義を貫いた当時の米国でスティーブンス工科大学を出て、ボストン、プロビデンス、ニューヨークの工場に就職してきた父は、この唐津に来て、清らかな海と島の点在する景色に接し、このような落ち着いた風土こそ精密な仕事をやるには恰好だと直ちにOKする感性も備えていたようだ。」

(竹尾彦己「てっこうしょのことども」より)


(6)唐津鉄工所の誕生

竹尾はいったん米国に戻り、「唐津鉄工所所長」の肩書きでニューヨークに事務所を構え、米国人技術者を雇って新設鉄工所の詳細な計画を練った。鉄工所の目的は、近代的な工業教育、実習、並びに機械製作とされた。つまり設立の理念として、技術教育と工業生産の両方がうたわれていた。2年後、工場の図面と必要な機械類のリストを携えて竹尾は再度帰国した。こうして明治42年(1909年)4月15日、唐津鉄工所が正式にスタートした。名称は「芳ノ谷炭鉱株式会社唐津鉄工所」とされ、竹尾年助が所長、竹内明太郎が本社の社長であった。
 

(次号に続く)