「去華就実」と郷土の先覚者たち

第24回 林毅陸 (上)


林毅陸(はやしきろく)は明治のはじめ、唐津の隣村である肥前町に生まれた。慶応義塾に学び、同塾の政治学科教授として「欧州近世外交史」を著すなど、わが国の近代政治学、特に憲法学と外交史学の開拓者となり、学者として最高の地位である学士院会員を務めた。

福沢諭吉の思想と資質を受け継ぐ人物とされ、慶応義塾の塾長、慶應義塾大学の学長、及び愛知大学の初代総長を務めた。リベラリストの政治家としても知られ、パリ平和会議、ワシントン軍縮会議など、大正期の重要な国際会議におけるわが国全権代表団の一員として活躍した。

第二次世界大戦後、その健全な民主主義思想ゆえに、天皇を補佐する枢密顧問官に任命され、新生日本の建設に貢献した。

林毅陸
(慶応義塾大学の学長時代)

(1)田野の中村家

林毅陸は明治5年(1872年)、佐賀県肥前町の田野(たの)に生まれた。吉岡荒太の出身地である高串とは隣村だが、林の生家と吉岡の生家はほんの1キロメートルくらいしか離れておらず、今の行政区画では高串も肥前町田野の一部となっている。吉岡の生家は高串漁港を見下ろす高台にあったが、林の生家は更に奥に入った裏頭と呼ばれる入り江の裏山にあった。今の田野小学校裏の山腹である。

田野の風景
(林毅陸の生家付近、2003年9月)

林毅陸(幼名・中村毅陸)は田野の造り酒屋である中村清七郎の四男として生まれた。母はトモといい、唐津藩士で医者の浦川喜右衛門の次女であった。中村家はこの地方の豪族として知られ、酒づくりだけでなく、多くの田畑山林を所有し、炭鉱も経営するという繁栄ぶりだった。

しかし明治期、清七郎の時代に入ると炭鉱の事故などで経営が傾き、毅陸の少年時代には没落の辛さを味わっていた。困難に追い討ちを掛けたのは長男秀穂の行動であった。借金返済のため、中村家では書画骨董の類を売ったが、秀穂はその売却代金を手にしたまま遁走して長崎に向かい、そのまま東京に行ってしまったのである。ほどなく父清七郎が死去し、母と残された子どもたちは貧窮の生活を余儀なくされる。家屋敷を売り払い、母子6人で、倉を改造した家に住んで暮らした。

東京に出た秀穂は中江兆民の仏学塾に入ってフランス語を学び、次いで自ら神田猿楽町にフランス語塾を開いた。仏語辞典を著すなど著作もあった。秀穂は後に藤原家の養子となったので、藤原秀穂と記されることもある。で記したように、吉岡荒太は中村秀穂を頼って上京し、そこにしばし住み込んだ。

この困窮の時代に一家を支えた母トモを、毅陸は心から尊敬している。夫を失い、長男は家の金を持ち出して家出し、長女は嫁に出た後、15歳の次男を筆頭に5人の子供を育て、学校に行かせるために、母はあらゆる苦労をした。せんべいを焼き、こんにゃくを作って売るなど、豪族の奥様から一変した生活の中で、運命を嘆くこともなく、貧しくとも礼節を重んじ、いつも明るく働きとおしたトモは、裕福だった時代以上に、村の人々に敬愛された。

中村家の家族
(左から母トモ、毅陸、妹サメ)

母トモは中村家再建の根幹は学問にありと心得ていたので、長男秀穂のとった行動を責めなかった。父の死から3年後に一時帰郷した秀穂を暖かく迎え入れただけでなく、末の弟である毅陸を託し、兄弟協力して東京での学問を成功させるよう励ました。田野小学校の3年生であった毅陸はこうして小学校を中退することになる。明治14年(1881年)10月、9歳の中村毅陸は兄と共に高串港より石炭運搬の和船(帆掛け舟)に乗って神戸に出て、そこから蒸気船で横浜に上陸し、汽車で東京新橋駅に着いた。


(2)林竹堂との出会い

上京した毅陸は神田猿楽町にあった兄の仏学塾に住み、福沢諭吉の「世界国づくし」などを読んで過ごした。近所の神田西小川町に、讃岐(さぬき)の国高松から来た林滝三郎という漢学者がいて、葆真学舎(ほうしんがくしゃ)という塾を開いていた。

滝三郎は竹堂(ちくどう)という号を持ち、竹堂先生と呼ばれていた。学識豊かなだけでなく豪放磊落(ごうほうらいらく)な人格者だったので、周囲の尊敬を集めていた。兄秀穂は明治14年の春から葆真学舎で漢学の教授を受け、竹堂とは親しい友人だった。

林滝三郎竹堂の肖像

明治15年(1882年)2月、竹堂はかねての計画どおり、東京での勉学生活を2年で切り上げ、郷里高松に帰って漢学塾を開くことになった。秀穂は竹堂を自宅に招き、別れの宴を催した。毅陸は兄の命ずるままに食膳の給仕などをした。その宴席で突然、竹堂は秀穂に対し、「この子どもを私に5年間ほど預けてはどうだ、十分仕込んでやろう」と言い出した。よほど毅陸を気に入ったのだろう。また、秀穂の友情に報いる思いもあったかもしれない。秀穂は光栄なことと喜び、毅陸も即座に承知した。こうして宴席を終えて竹堂が自宅に戻るさいには毅陸も同行し、その晩のうちに林家の住人となった。


(3)高松での修行時代

明治15年(1882年)の春、10歳の中村毅陸は林滝三郎竹堂に連れられて四国の高松に渡った。竹堂はこの地に「葆真学舎」を開設し、少年たちへの教育を開始した。毅陸も生徒となり、竹堂からは主として漢文を習った。国史略、十八史略、日本外史、日本政記、孟子、文章、軌範などを特に熱心に教わった。鳥羽から来た教師栗原亮一からはスウィントンの万国史を教わった。

竹堂は勉学について厳しかったが、毅陸はよく学んだので、11歳の春ごろからは学僕兼小先生として、他の生徒たちを教えるまでになった。私生活においても竹堂は毅陸を可愛がった。宴席に毅陸を呼び、三国志の「赤壁の賦」を暗誦させて楽しんだりした。

自然豊かな高松では、川遊びや八島登山などを楽しんだ。ある日、塾生たち皆で猫を捕まえ、煮て食べてしまったが、頭部の始末に窮して、隣家の庭に投げ込んでおいたところ、見つかってひどく叱られた。こうした、少年らしい乱暴ぶりも伝えられている。

少年時代の毅陸と友人たち
(左から富永梅太郎、中村毅陸、
池袋秀郎。腕白そうである。)

竹堂の庇護のもとで幸せな修行時代を過ごし17歳の青年となった毅陸は、明治22年(1889年)の春、慶応義塾に入学するために高松を離れることとなった。子どものいなかった竹堂は別れを惜しみ、この機会に毅陸を養子にしたいと申し出た。こうしてこの年の5月、毅陸は戸籍上も林家の人となり、林毅陸となった。


(4)慶応義塾の学生時代

慶応義塾に入った毅陸は、近代思想に基づく本格的な教育を初めて受けた。当時の日本には日本語で書かれたよい本がなかったので、教科書はすべて英語で書かれていた。政治経済学の分野ではフォーセット、ミル、スペンサー、バショットなど、アングロサクソン系自由主義思想家の書いたものが中心であった。通常の授業以外に毎月2回、「三田演説会」というのが開かれ、福沢諭吉が講話をした。

明治25年(1892年)、毅陸は慶応義塾の正科を首席で卒業した。27名の卒業生中、毅陸だけが大学部へと進学した。大学部文科の主任教授はカナダ出身の英国人ロイドであり、毅陸は先輩数人と共にロイド邸に住みこんで指導を受けた。毅陸は秀才であったが、自分では数学が苦手だったと語っている。その反対に、文章作りと朗読、それに演説の才能が抜群であった。大学3年生の時、福沢諭吉の還暦記念会が開かれたが、そこで毅陸は在学生を代表して祝文を作成し、これを朗読した。明治28年(1895年)、大学部を首席で卒業した。卒業式では卒業生を代表して答辞を述べた。当時の毅陸の様子について、竹堂の友人栗原亮一が竹堂に宛てた手紙の中で「令息は謹慎にて、幼きに似合わず老成の気風あり」と記している。


(5)慶応義塾の英語教師

大学卒業後、毅陸はただちに慶応義塾の英語教師として採用された。薄給ではあったがとりあえず生活の目途がたったので、父竹堂を東京に招いた。しかし東京で暮らすこと1年にもならないうちに、竹堂は脳溢血で死亡した。

慶応義塾は大学部を抱えるなどしだいに大きな組織となっていったが、小さな私塾時代の習慣や機構を引きずっていたので、いろいろ弊害が出ていた。そこで機構改革を推進するために、明治30年(1897年)8月から8ヶ月のあいだ、福沢諭吉が直接に塾務に復することになった。

新進気鋭の英語教師であった毅陸にとって、これは願ってもない幸運であった。毅陸ら若手教員は塾の将来像について福沢と頻繁に意見交換した。福沢の方針に毅陸らが反対することも珍しくなかった。明治31年(1898年)、まだ26歳の毅陸は福沢から、普通科の主任として学務を指揮するよう命じられた。

明治33年(1900年)の大晦日は特別の日であった。19世紀から20世紀への変わり目にあたるこの日、慶応義塾では夜8時から、「世紀送迎会」という催しが行われた。会の中心は、林毅陸による「逝けよ十九世紀(世紀送迎の辞)」と題する演説であった。科学の進歩によって豊かな時代が来ると信じられた19世紀は、貧富の拡大という現実を生んで終わった。

政治上、思想上の解放を求める市民革命によって19世紀は幕を開けたが、現実には経済的、物質的な意味での新たな奴隷制度を生んで幕を閉じる。

19世紀の偉人たちが描き、実現できなかった理想を、新時代に結実させるのが、20世紀を生きる我々の責務である。概略このような内容の演説は当時の学生たちを熱狂させ、演説が終わると大歓声が毅陸を包んだ。現代の感覚で見れば装飾過多の美文であり、内容もやや甘いものだが、福沢諭吉も上機嫌で毅陸の雄弁を賞賛した。

当時、わが国における文科系の学問分野はまだ未成熟で、細分化されていなかった。その中で毅陸の関心はしだいに政治学へと向いていった。

明治32年(1899年)から34年(1901年)にかけて、毅陸はアナトール・ルロア・ボーリュー(Anatol Leroy-Beaulieu)の名著「L’Empire Les Tsarset les Russes(ツァーの帝国とロシア人)」(原文はフランス語)の英訳本を読み、これを日本語に抄訳した。

林毅陸の処女作「露西亜帝国」
(唐津市所蔵)

林毅陸の処女作である「露西亜帝国」はこうして明治34年(1901年)、東京専門学校出版局から出版された。日露戦争に向う時局のなかで歓迎された。


(6)欧州留学

明治34年(1901年)、欧州留学の命が下った。毅陸はテーマに「欧州外交史」を選び、ルロア・ボーリュー教授の指導を受けるために留学地をパリと希望した。次いで義塾側の要望により、英国に渡って英国憲法を学ぶことを追加された。ところが、いよいよ普通科主任を辞して留学準備をしているさなかの1月25日、福沢諭吉が死去した。葬儀の準備や、福沢亡き後の義塾経営の段取りなど課題は山積していたが、毅陸は留学の予定を変更しなかった。

2月3日には新橋を発って高松に帰り、学資などで世話になった高橋良平に感謝し、その娘サワと婚約した。次いで唐津で親戚縁者にあいさつし、2月17日には門司港からフランスに向けて出航した。福沢の葬儀に参列さえもしなかったことについて、「当時、私の胸中には一種の運命観とも言わんか、事ひとたび動く時は、ただ直往前進すべきであるとの気持ちが、何処ともなく働いていた」と述懐している。

パリではボーリュー教授の助言を受け、エコール・リーブル・デ・シアンス・ポリティック(パリ大学政治学校)に入学した。主としてソレル教授の外交史講義を聴いた。法科大学の講義にも出席した。慶応義塾での勉強が役立ち、フランス語にはさほど困らなかった。

パリ滞在3年目の明治36年(1903年)1月からは、パリ東洋語学校の日本語講師を嘱託された。後日、在東京フランス大使館の名通訳として知られることになるポンマルシャン、同じく司書官となるゲゼネック両氏は、この時の林毅陸の生徒である。いっぽう、英国の法制度や外交史に関する勉強には、主としてロンドンの大英博物館外交文書室を利用した。

毅陸は欧州滞在中、バルカン地方の政治に強い関心を寄せている。休暇を利用して南ドイツからオーストリア、ハンガリー、セルビア、ブルガリア、トルコ、ギリシャを経てイタリアに至る大旅行をした。トルコではサン・ステファノ条約締結の地を訪ねた。ブルガリアのソフィアでは、ロンドンタイムズの通信員ムーアと会談し、その紹介を得てマケドニア革命党の首領サラフォフを自宅に訪問し、約2時間に及ぶインタビューをしている。

欧州留学時代の林毅陸

その内容は、日露戦争中のロシアをマケドニア革命党が背後から撹乱する可能性についての議論を含んでいた。そこで得た情報を毅陸はロンドンとローマの日本公使館に連絡している。毅陸が単に学問的探究心だけでなく、現実政治への積極的な関与を意識していたことは注目に値する。

明治38年(1905年)、欧州からの帰途、米国に立ち寄り、ワシントンの国立国会図書館においてわが国の開国と明治維新関係の史料を調査研究して帰国した。帰国後すぐに、かねてより婚約中の高橋サワと結婚した。毅陸34歳、サワ22歳であった。ちょうど4年間の欧州留学であった。

(次号に続く)