「去華就実」と郷土の先覚者たち

第30回 黒田チカ (下)


(5)真島利行との出逢い

東北大学理学部に化学科を創設するにあたって、これを指揮したのは真島利行(まじまりこう)である。真島は明治7年(1874年)、京都の舞鶴に生まれ、東京帝国大学化学科で桜井錠二、池田菊苗、E. ダイバース(Edward Divers)らの指導を受けて有機化学の研究者となった。ドイツ、スイス、イギリスに留学して、当時開発されたばかりのオゾン酸化法や、白金触媒による水素添加法などを習得して帰国した。欧州仕込みの経歴ながら、真島は一貫して日本独自の化学研究を志し、ウルシやトリカブトに含まれる色素、毒素、薬効成分などの研究を進めた。

真島は研究教育組織の指導者としても重んじられ、東北大学理学部化学科の設立を指揮したのを皮切りに、北海道大学と大阪大学の理学部発足にも関わり、両学部の学部長を務めた。大阪大学では総長職にも就いた。理化学研究所でも多くの後進を育て、昭和25年(1950年)に文化勲章を受章した。日本における有機化学の育ての親と言われる。

黒田チカが入学した大正2年(1913年)頃の東北大学は、創立間もない若い帝国大学で、多くの熱心な教授陣が揃っていた。なかでも化学の真島利行と物理の本多光太郎の働きぶりは有名だった。この二人だけは元日でも研究室にいるとの評判だった。本多はMK鋼の発見などで知られる日本の金属学・磁性学の開拓者である。研究のために摂氏マイナス200度という低温が必要で、そのために大学内で空気を液化する装置を運転した。またガラス工作の技術者を育成し、学内で各種の魔法瓶を製作した。こうした研究環境を実現していたのは当時、国内では東北大学だけであり、真島ら周辺の研究者もその恩恵をこうむった。

黒田は真島の指導を受けることになるが、真島は研究室では終始無言で一心に研究に没頭するので、黒田は戸惑うことがあった。ある日、真島と実験台を共有して向かい合って実験していると、しきりにクシャミが出て止まらない。見ると真島が熱心に結晶を集めている。溶液中に沈殿したものを水流ポンプで減圧して集めるのだが、ポンプの先から飛んでくる水しぶきがクシャミの原因に違いないと考えて尋ねると、トリカブトの根から猛毒アコニチン(Aconitine)を取り出しているのだという。黒田はあきれて逃げ出した。こういう無頓着さも真島にはあったようだ。


(6)紫根研究・女性初の大学教授・女性初の学会講演

理学部3年生となった大正5年(1916年)、真島から研究テーマについて希望を聞かれた黒田は、天然色素を研究したいと答えた。当時、色素の研究分野においては、アニリン、コールタールなどから染料を作る、いわゆる合成色素・合成染料の研究が主流で、天然物の研究は盛んではなかった。黒田は後年「私は何となく天然物色素の研究に魅力を感じました」と語っている。真島はそれに共感し、紫根(しこん。ムラサキソウの根)の研究を勧めた。紫は洋の東西を問わず高貴な色として珍重されているが、色素の正体が分からないので工業生産できない。日本、英国などで行われた研究は、当時、暗礁に乗り上げていた。

真島は、黒田の熱意に感じるものがあったのだろう。この話し合いから一週間も経たぬうちに、他の研究者がこれまで取り出せなかった結晶を紫根から取り出してみせた。二人はこの結晶をシコニン(Shikonin)と命名した。これで前途が開けたので、黒田のテーマはシコニンの構造研究と決まった。

X線回折、クロマトグラフィー、質量分析、磁気共鳴といった、現代の構造化学における常套手段が全くなかった時代である。シコニンを様々な試薬と反応させて様子を観察し、生成物を既知物質と比較することで反応様式を知る。こうした知見を集積させることでシコニンの正体を探るという、謎解きの連鎖のような研究である。時間と労力がかかる。卒業する時期になったが、そのまま副手として東北大学に残って研究に専念し、大正7年(1918年)の秋までにはシコニンの構造について結論を得た。この業績によって、黒田は東京女子高等師範学校(今のお茶の水女子大学)に、わが国初の女性教授として招かれた。

シコニンの分子構造。黒田は初め、I(左図)を発表したが、のちの研究で旋光性があることが確かめられ、キノンの隣に左旋性の不斉炭素を持つII(右図)に訂正された。

大正7年(1918年)11月、日本化学会は黒田に対して、紫根研究の成果を学会において講演するよう求めた。女性がこのような席で講演することは、もちろん我が国では例のないことなので、マスコミが注目し大騒ぎとなった。当日は一般の見物客も殺到し、雑踏の中で上着を盗まれる者が出るなどの有様であった。黒田に研究者への道を勧めた長井長義(日本薬学会会頭)も会場にいたが、講演を聴いて感激の余り、その場で、黒田を日本薬学会の終身会員に推薦することを宣言した。長井は日本薬学会においても同様の講演するよう求めたが、黒田は化学会における騒動を体験して「もうたくさんだ」と感じていたから、恩師からの再三の要請を断った。


(7)オックスフォード留学

大正10年(1921年)の初め、黒田に文部省から留学の命が下った。長井長義、桜井錠二らの推薦を得て、留学先は英国オックスフォード大学のパーキン教授(W. H. Perkin)のもとと決まった。当時の新聞記事は次のように紹介している。

「日本に3人しかいない女理学士の一人、黒田チカ女史は、恐ろしくはにかみながら少し上気して『別にお話することもありませんが』とひどく無愛想に言ってうつむいてしまう。『3月の18日、横浜出帆の佐渡丸で出発します』機嫌を直した女史はようやく途切れ途切れに話し始める。『・・・どうも初めての留学なので心配でなりません』」

この記者は黒田を内気なはにかみ屋と見ているが、実は案外楽天的で、外国でも物怖じしない度胸を持っていた。船旅を楽しみ、有機化学の大家のもとでインドール誘導体の研究を任され、英国生活を満喫した。夏休みにスイス旅行をした時には、インターラーケンの小学校に招かれて、地理の時間に日本について英語で授業をした。2年間の英国生活について、「ホームシックになる暇もありませんでした」と回想している。

黒田が下宿していた
オックスフォードの家
(写真提供:黒田家)

オックスフォード時代。
何かの催しのさい特別に装った着物姿であろう。
黒田はこの留学を機に初めて洋服を着用し、以後は主として洋服での生活を送った。
(写真提供:黒田家)

(8)紅の博士誕生

帰国後間もなく、
理研の実験室における
黒田チカ
(写真提供:佐星醤油)

大正12年(1923年)8月、米国経由で帰国した黒田は、佐賀の実家に挨拶に帰った。このとき関東大震災が起こった。黒田自身が被災しなかったのは幸運だったが、東京に戻ると女高師の建物は瓦解して研究できる状態ではない。いっぽう、駒込に建設されて間もない理化学研究所(理研)は震災に耐えて無事だった。理化学研究所は高峰譲吉、渋沢栄一、桜井錠二らの運動によって大正6年(1917年)に設立された、わが国初の先端科学研究機関である。真島利行も理研に研究室を持っていたので、黒田には「教育は湯島の女高師で、研究は駒込の理研で」という、忙しいが恵まれた環境が用意された。

黒田は「紅」を理研での研究テーマに選んだ。紅花(ベニバナ。キク科の植物)の花から採られる色素で、洋の東西を問わず、古くから珍重され親しまれてきた赤い色素である。クレオパトラが愛用したとも伝えられる。紫紺の場合と同様、結晶が得られないので世界中で研究が中断していた。黒田は試行錯誤の末、カーサミン(Carthamin)という色素の結晶を手にした。それが配糖体(グリコシド。糖と糖以外の部分が結合したもの)であることを突き止め、一歩一歩、その分子構造に迫って行った。一途に研究に打ち込んだ日々を「当時の理研の雰囲気、時間を超越し、物と親しんだ時代を偲ぶ」「実に天国のような雰囲気」と回想している。

分子構造がいよいよ決定できるという、最終段階まで来た。その日の緊張した様子を、黒田は書き記している。「いよいよこの勝負を決する瞬間を恐れ心配して、手伝ってくださっていた松隈ときよさんが早く帰られたほどだったこと、幸いこれが成功を示したので、喜びの余り仙台の真島先生へ打電したことなど、その間のわくわくするような心理状態をお分かりいただけることでしょう。」

カーサミンの分子構造
(Gはグルコース)

日本の理研において紅花の色素カーサミンの構造が決定したという報告は、昭和5年(1930年)、英国化学会誌「Journal of The Chemical Society」に掲載された。黒田の執筆になるこの論文は「The Constitution of Carthamin. Part I and Part II」と題され、2部構成で12ページからなる。この業績によって、黒田チカは化学分野において日本女性初の理学博士となった。国内における研究発表は、長井長義に対するかつての不義理を償うために、日本薬学会において行われた。日本化学会は昭和11年(1936年)、有機化学分野で優れた業績を挙げた個人に対して贈る「真島利行賞」を制定するにあたり、その第一回受賞者に黒田チカを選んだ。

Journal of The Chemical Society 1930年号に掲載された黒田チカの論文冒頭
“The Constitution of Carthamin. Part I and Part II” by (Miss) Chika Kuroda.

 


(9)たまねぎ皮から高血圧治療薬

紅の研究が一段落したころ、ある生徒から「玉葱(たまねぎ)の皮で染め物をすると、薄茶色のきれいな色になりますが、何故でしょう」と質問されたのがきっかけで、たまねぎの皮に含まれる有効成分の研究に着手した。日中戦争が始まり、戦時下で研究費や物資が欠乏してきたので、安価で入手可能な材料を探していたこともあった。この研究は第二次世界大戦をはさんで戦後まで続けられ、昭和28年(1953年)、たまねぎの皮に約2%含まれるケルセチン(Quercetin)が高血圧の治療に有効であることを示すという、大きな成果に結実した。黒田自身が錠剤づくりまで行い、昭和30年(1955年)には高血圧治療薬「ケルチンC」として発売された。

ケルセチンの薬効発見を報じた新聞
1956(昭和31)年11月18日
日本経済新聞(夕刊)
(写真提供:黒田家)

(10)リコーの始まり

余談をひとつ紹介しよう。理研の指導者であった桜井錠二、大河内正敏らは、先端研究を推進しながら、科学の成果を社会に還元することに熱心であった。「理化学興業株式会社」という製造販売会社を設立して、理研で発明されたものを商品化した。桜井錠二の息子である桜井季雄が発明した感光紙(コピー紙)もそのひとつだった。黒田チカの実兄が佐賀の醸造元吉村家に養子に行っていた関係で、吉村商会が「理研陽画感光紙」の九州地区総代理店となった。吉村商会には市村清という商売上手な人物がいて、非常な勢いで感光紙の販売を伸ばした。市村はその功績により昭和8年(1933年)理化学興業株式会社の感光紙部長に抜てきされた。昭和11年(1936年)にはこの部門を理研感光紙(株)として独立させ、同13年(1938年)には理研光学工業(株)とした。これがこんにちの(株)リコーの出発点である。
 


(11)黒田チカの人柄と生涯

黒田チカの眠る黒田家の墓
(佐賀市伊勢町の大運寺)

第二次世界大戦の後、新しい学制によってお茶の水女子大学が発足すると、黒田チカは理学部化学科の教授となり、昭和27年(1952年)に定年退官した後も名誉教授として後進の指導にあたった。昭和34年(1959年)には「天然色素の有機化学的研究」によって紫綬褒章を、次いで勲三等宝冠章を受けた。昭和43年(1968年)福岡で死去した。84歳という長寿であった。佐賀市伊勢町の大運寺にお墓がある。毎年11月8日の命日には、佐賀大学の関係者などによる墓参が行われている。

黒田チカは、我が国の女性が科学の世界に進出するにあたって、その先陣を切った人である。文字通りの先駆者だが、肩肘張ったところがなく、素直で善意に満ちた性格だったので、誰からも愛された。佐賀大学理工学部教授の堀勇治さんは「人に不快を示されたことがない。あらゆることを人の善意から出たものと解され、人の意見を受け入れ、黙々と自分の教育と研究に専念された」と述べている。

黒田の成功の陰には、平田敏雄、長井長義、真島利行、桜井錠二、W. H. パーキンなど、当時の指導的科学者たちの、物心両面にわたる援助があった。このことについて、お茶の水女子大学名誉教授の前田侯子さんは「これは黒田の優れた才能と温和で寛容な人柄によるものであろう」と述べている。

研究に対する姿勢については、黒田自身の言葉がそれを余すところなく語っている。

「実に物質といえども、取り扱う人々の熱心さに対して本態を露出して、純正の本態すなわち結晶となる場合がある。かくの如き経験は実に多く、物質も、愛すべき頼もしき友には感謝により答えたいのである」

「天然のものは正直ですから、こちらが真(まこと)を以って一生懸命で向かったら、必ず門を開きます。どんなに難しいことも悲観せず、困難に遭えば遭うだけ張り合いがあると考え、ますます勇気と真心とで向かうのが最善の道であることは、科学に限らず、すべてに通じるものと思います」

このような人物が日本の女性科学者の出発点にいたことは、幸いなことである。没後30年の機会に、日本化学会は平成11年(1999年)、化学会館において「日本初の女性化学者―黒田チカ博士」と題した資料展示会を開き、理化学研究所も記念行事を行った。お茶の水女子大学理学部では、黒田チカと、生物学における最初の女性博士である保井コノを記念して「保井・黒田奨学基金」を制定し、優秀な若手女性研究者に対して、今も毎年、奨学金を与えている。
 


参考文献:

  • Chika Kuroda “The Constitution of Carthamin. Part I and Part II” Journal of The Chemical Society, 1930, pages 752-765 and pages 765-767.
  • 黒田チカ著 「化学の道に生きて」「婦人之友」 1957年3月号、4月号に連載
  • 黒田チカ著 「化学に親しむ 悦びと感謝 I-V」 「化学教育」第13巻第2号(1965年)から第14巻第4号(1966年)にかけて5回連載
  • 黒田チカ著 「半世紀前の東北大学時代をしのびて」 「化学」第22巻第4号(1967年)354-355頁
  • 前田侯子著 「黒田チカ先生の生涯と研究」 「お茶の水女子大学女性文化資料館報」第7号(1986年)
  • 堀 勇治著 「化学会館化学史資料展示第17回 日本初の女性化学者 黒田チカ博士」 「化学と工業」第52巻第8号(1999年)1002-1005頁。