走らんか副社長
【日光西街道 南行】

21区 文挟~鹿沼

10月に42kmを走って以来右膝の調子が思わしくなく、長い距離を走っていないのだが、この企画ではせいぜい10kmほどをのんびりと進むので問題なかろう、と出発する。今回は、文挟(ふばさみ)を出て途中まではまだまだ杉並木が続く。並木の中からは周囲の景色が見えないのだが、外側に出てみると、のどかな風景が拡がっている。特に絶景ではなく何ということはないのだが、日本の田舎の風景はかくあるべし、という眺めだ。


杉並木は貴重な歴史遺産であり、大切に守るべき自然であることにまったく異論はないのだが、杉の木に挟まれた狭い道をひたすら進むことに、いい加減飽きてきた気持ちは否めない。そろそろ脱したいと思う頃、日光市から鹿沼(かぬま)市への境を通過する。この地点に、杉並木を寄進した旨を記した碑があり、ここでこれまで長らくお付き合いしてきた杉並木が終わって、急に視界が開ける。

鹿沼市章
(「か」を図案化したもの。
わかりやすい!)

鹿沼といえば鹿沼土が有名である。ご存知ない方のために説明すると、鹿沼土とは直径が数mmから1cm程度の黄色い粒状の土で、保水性と通気性に優れているため、さつきの栽培など園芸用に広く使われている。自宅近くの店で市場調査をしたところ、ひと抱えもある大袋が398円で売っていた。

今日は街道沿いで鹿沼土にお目にかかることはあるのだろうか、と思っていたところ、業者の敷地に山と積まれた土を発見。これだけあればプランター何百杯、いや何千杯いやいやもっとあろうかという大量の本場ものの鹿沼土である。そして、その横のビニールハウス内には土が敷かれている。なるほど、ここで雨を避けて乾燥させてから出荷されるわけだ。

ところで、鹿沼土はどこでどうやって採れるのだろうか。このあたりの地面を掘れば出てくるのだろうか、少なくとも地表は関東地方特有の黒い土でしかないのだが、と疑問を持ちながら進んでいると、土を採取した跡と思われる空地と、その先にある切通しの断層に出くわした。地表から1mから2mの深さにかけて、それらしい黄色の層がある。これが、3万年以上前に群馬県の赤木山が爆発した時に降った軽石の層で、通称鹿沼土なのである。それにしても、火山爆発の噴出物が地層をなしているとは知識としては知っていても、あらためて目のあたりにすると自然のスケールの大きさを感じる。

今日は鹿沼土を採取した現場跡や、出荷される前の過程の土を見ることができた。ここで得た知識は、きっと老後になってから役立つに違いない。盆栽サークルで知り合った仲間を相手に、「そもそも鹿沼土というのはぢゃな・・・。」と偉そうに語ることができる。(嫌味なじじいだな。)


鹿沼の市街に入ると、街道の道幅が拡がってのびのびと気持ちが良い。本日前半までの杉並木の狭い道とはえらい違いである。

歴史ある民家がそこかしこに見られるのだが、沿道に古い家が残っているということは、最近の区画整理で道幅が拡げられたのではなく、昔からこの道幅だったことの証拠だろう。江戸時代にどうしてこんなにゆったりとした街づくりがされたのか、当時のこの地の人には先見の明があった、と言うべきだろう。

屋台のまち中央公園という案内標識にひかれて、ふらふらと寄ってみる。屋台といえば、博多の中洲に並ぶラーメン屋台しか思い浮かばなかったが、ここの展示館にあるのは、精緻な彫刻を施した文化財である彫刻屋台だ。

館内の、おそらくボランティアの方からあれこれ親切に説明を受けたのだが、漆塗りの絢爛豪華なものあり、白木の質実剛健なものあり、いやはやなんとも圧倒される立派なもので、しかも毎年の秋祭りでは町内へ繰り出す現役である。なんの予備知識もなく訪ねた土地で、素晴らしいものを見させていただいた。


東武日光線新鹿沼駅を本日の終着点と決めて、駅を目指す途中でカマキリを発見する。11月下旬になってもまだ活動しているのは、おそらく産卵を前にした雌カマキリで、これは腹の幅が広いのでハラビロカマキリという種類であろう(本当です。たぶん)。けっして、この雌が純真無垢な雄カマキリを騙して誘惑し、油断させたところで隙を見て食ってしまったから腹黒カマキリ、というわけではない。同行している妻はカマキリが好きで、かわいいと言って妙に気に入っているのだが、雌カマキリのどんなところに共感しているのかが、よくわからない。

・・・・まさか・・・・。

2012年12月

今回の走らんかスポット