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灯火親しむ頃となりました。
秋の夜長、静かに、中国の代表的な古典「論語」を読んでみましょう。
その中に、意外にも孔子の食生活を垣間見ることができました。
 
孔子の食生活
 
孔子(B.C.552−479)
「子曰ク、学ビテ時ニ之ヲ習フ、亦タ説バシカラズヤ。朋アリ遠方ヨリ来ル、亦タ樂シカラズヤ・・・」
 
 皆さんには、馴染み深い論語の一節です。さまざまなライフスタイルがはびこり、多様な価値観が交錯する中で、論語の一節一節はわれわれ日本人には身近な教訓として、欠くことのできない存在です。
 
「故キヲ温ネテ新シキヲ知ル。」 「巧言令色 鮮(スク)ナシ仁。」 等々
 
 紀元前500年、吉野ヶ里さえ影も形もない時代に、かかる偉大な思想・哲学が存在していたことは驚異でもあり、中国の底知れぬ力を感じます。
 その孔子の言行を弟子たちが記した「論語」の中に珍しく、孔子の日常生活、衣・食・住を生々しく描いた異色の篇、『第十郷党篇』があります。
 郷党、つまり都の近郊にある孔子の家庭の日常生活を記したもので、当時のインテリクラスの食生活の一端がうかがえます。その一節を読んでみましょう。
 
 「食(いい)ハ精(しらげ)ヲ厭(いと)ワズ、膾(なます)ハ細キヲ厭ワズ・・・」と続きますが、現代語に訳すと、 孔子の時代の食器
(多久聖廟蔵)
 「孔子は飯は精米されているほど、膾は細かく刻んだものほど好まれた。飯がくされて味が変わり、魚がいたみ、肉がくさったもの、食物の色、臭が悪いものは食べず、煮加減がよくなければ、また季節はずれのものは食べず、切りめが正しくなければ食べず、だし汁(醤)なしには食されない。
 肉はいくら多くても飯の量を越えない。酒量は決まっていないがいくら飲んでも乱れるまでいかれない。
 自家造り以外、市場で買った酒や肉の乾物は決してとられない。・・・」
 白いご飯、細かく刻んだ肉、適当なダシのついた料理、等々、好みはなかなかゼイタク、衛生的、凝り性で、現代風にいえば食通、グルメというところでしょう。
 聖人と云えば、清貧に甘んじた生活態度を想像しがちですが、孔子は「衣食足リテ礼節ヲ知ル」と云いたげな食生活であったようです。
 食は文化なりと大声をあげる必要はありませんが、醤がなければ食事は取らぬ、とは云い得て妙。われわれ醤油、調味料をつくっているものにとっては、我が意を得たり、というところです。当時の醤は、細く切った肉に塩と麹を混ぜ、酒を加えて密封したものだったようです。
 
 孔子が活躍した春秋戦国の世は、紀元前4、5世紀、この時代は日本で云う足利末期のように政治は乱れに乱れた時代ですが、その中にあって、礼儀正しく、食事のマナーらしいものを感じさせるのは、さすがです。
 時はくだり、處(ところ)は中国から日本へ、奈良、平安時代へと国家としての形が整ってくると、宮廷には料理を司る役所が生まれるし、鎌倉から室町時代になり、現在の醤油の完成とともに、懐石料理といった日本独自の食文化も育ってきます。
 さらに江戸時代には庶民の食生活も豊かになり、明治維新以降、洋食・中華料理の移入と、変遷を重ねてきますが、20世紀の後半、食糧不足の時期を克服してからの食生活はめまぐるしく変化してきました。  孔子は、諸侯分立の春秋時代に、魯国の曲阜郊外で生まれました。長ずるに及んで、その生涯の大半を魯国の新しい秩序の構築に費やしました。しかし、前497年、56歳の時、自国の改革に失敗した孔子は、以後14年にわたる諸国遍歴の旅に出ました。
 そして、20世紀から21世紀へ、日本の「食」はあるいは高級化へ、あるいは簡便に、あるいは美味追求へと、あくことなく進むでしょう。食は文化、社会の一断面とは、よく云われます。 魯→衛→曹→宋→鄭→陳→衛→蔡→楚→衛→魯
 
 論語の一節をひもときながら、味の追求には、食生活の底に無意識に流れる社会の風潮への広い視野なくしては成り立たないのではと考えます。
 しかし一方、食生活は、人類の本能である「食」を見直し、安全、健康、栄養の視点とともに、精神面をも重視した新しい食文化を模索し、健全な社会を目指そうと、「食育」が叫ばれています。
 “食”を業とするものとして、より高い責務を感じるこの頃です。
 
 
参考文献
 世界の名著3 孔子 孟子  責任編集 貝恂ホ樹 / 中央公論社
 論語講義(四)  渋沢栄一 / 講談社学術文庫 
 論語  金谷治 訳注 / 岩波文庫