私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 インド洋大津波は、想像を絶する被害になお、心は痛む。

耐久中学校グランドに建つ
浜口儀兵衛の銅像
 異常気象、いや天変地異としか言いようがない程の自然の脅威が続く。猛暑、台風、地震 ― そして昨年の暮れには、印度洋を席捲したインド洋大津波が全世界を恐怖に包んだ。日を追う毎に被害は増え続ける。テレビは、その生々しい恐ろしい様相を伝える。
 少しづつ落ち着いてテレビの画面を見られるようになった頃、小学生時代、国語で習った「稲むらの火」、 ― 津波を察知した五兵衛が村民に知らせるため稲束に火をつけ助けた ― 話が思い浮かんだ。
稲むらの火、小学国語読本
 「これは、ただ事でない。」
昭和12年文部省発行
小学校国語読本巻十
とつぶやきながら、五兵衛は家から出て来た。今の地震は、別に烈しいという程のものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない無気味なものであった。
 五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では、豊年を祝うよい祭の支度に心を取られて、さっきの地震には一向気がつかないもののようである。
 「大変だ。津波がやって来るに違いない。」と、五兵衛は思った。このままにしておいたら、四百の命が、村もろともひとのみにやられてしまう。もう一刻も猶予は出来ない。
 「よし。」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明(たいまつ)を持って飛出して来た。そこには、取入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んである。
 「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」
広川庁舎前
「稲むらの火」広場
にある銅像
と、五兵衛は、いきなりその稲むらの一つに火を移した。風にあふられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。
 日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなって来た。稲むらの火は天をこがした。山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。
 「火事だ。庄屋さんの家だ。」と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うようにかけ出した。
 高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。やっと二十人程の若者が、かけ上がって来た。彼等は、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声に言った。
 「うっちゃっておけ。― 大変だ。村中の人に来てもらうんだ。」
 村中の人は、追々集って来た。五兵衛は、後から後から上って来る老幼男女を一人一人数えた。集って来た人々は、もえている稲むらと五兵衛の顔とを代るがわる見くらべた。
 其の時、五兵衛は力一ぱいの声で叫んだ。
 「見ろ。やって来たぞ。」
 たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。其の線は見る見る太くなった。広くなった。非常な速さで押寄せて来た。
 「津波だ。」
と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったと思うと、山がのしかかって来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとを以って、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のように山手へ突進して来た水煙の外は、一時何物も見えなかった。
 人々は、自分等の村の上を荒狂って通る白い恐しい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。
 高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は、波にえぐり取られてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下していた。
 稲むらの火は、風にあふられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりを明かるくした。始めて我にかえった村人は、此の火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまずいてしまった。
 簡潔、平明な文章ながら、五兵衛が地震、津波を察知し、村民が救出されるまでの緊迫感を見事に描く。
 五兵衛の津波に対する知識、間髪をいれぬ情報伝達と救急の措置、その中に流れる深い人間愛。さらに五兵衛と村民との信頼感 等が融合した名作は、60余年後の今も感動を呼ぶ。
 この教科書は、昭和12年から20年まで、小学5年生用として採用されていた。当時は、国定教科書だったので、いわゆる昭和ヒトケタの人たちの脳裡には、深く焼きついている。
 あらためて読むと、津波の直前に潮が引き、「風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見るみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現われきた」の部分は、インド洋大津波のときも同じ現象があったにもかかわらず、誰も気づかなかった。少しでも津波の知識があったなら、と悔やまれる。
 私たちの先人たちはこうして、自然の恐しさ、どう対処すべきか等々を、語り伝えてきたのである。
名作の誕生
 因みに、この名作の誕生までを辿ってみる。
 この「稲むらの火」の話は、約150年前、1854年安政地震津波が和歌山県、広川町を襲ったときの実話に基づいている。この災害時に、五兵衛(モデルは浜口儀兵衛)は津波で流された人々が、暗夜のため安全な方向を見失わないように、道傍の「稲むら」に火をつけて誘導した。そのことを知ったかの有名な小泉八雲(ラフカディオ・ハン)が、自らの作品『生きている神』で紹介した。
 この八雲の作品(英文)を読んだ、和歌山県の教師 中井常蔵先生が、わが郷里にも、こんなに立派な先人が存在していたのかと感激し、たまたま、文部省の小学生の教材の募集に応じ出品、入選した作品がこの「稲むらの火」である。
 従って、この名作は、モデルである浜口儀兵衛。その功績をたたえた小泉八雲。その作品に感激した中井常蔵先生、この名作を採用した当時の文部省 ― 等々の人々で語り継がれ、今日、再び、三度と、現在の我々に貴重な教訓をもたらしている。
 私たちは、こんな名作を引き継ぎ、はたまた数々の地震、災害等の体験と教訓を、語り続けていかねばならない。
 なお、「稲むらの火」のモデルとなった、浜口儀兵衛は、幕末明治の醤油醸造家。浜口家は他の広川出身者とともに、江戸前期より代々銚子で醤油醸造を営む、ヤマサ醤油の第7代の当主で、銚子から、たまたま広川に帰郷した際にこの地震津波に遭遇したという。
 彼は醤油醸造業とともに、社会的活動にも熱心に取り組み、安政の津波の後、私費を投じて防潮堤を建設したり、幕末には、紀州蕃の勘定奉行、明治4年には、新政府に招かれ、駅逓局(郵政省)に入り、初代の駅逓頭(郵政大臣)に任じられている。
 ヤマサ醤油は、今なお、全国大手の醤油メーカーとして発展しつづけ、また郵政の民営化が議論されていることを考えるとき、浜口五兵衛の偉大さにあらためて感服しつつ、筆を擱く。
 参考文献
『小學國語読本 巻十 第十:稲むらの火』 文部省編
『稲むらの火:アニメ読本』 中井常蔵協力/金の星社
『もえよ稲むらの火』 桜井信夫著/PHP研究所
『歴史人物辞典』 山口康助 他 著/ぎょうせい