私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 太平洋戦争は敗戦で終わる。その翌年、昭和21、22年。福岡の旧制高校で寮生活を送る。極度の食糧難だった。朝食をとるため食堂に入ると、お皿に蒸したサツマイモが一本。そんな淋しい朝食を思い出しながら、サツマイモへの思いを綴ってみました。

いも粥(がゆ)
 「今朝はパンですか、“おいも”ですか?」と妻が問う。すぐに「おいも」と答える。その度に、幼い頃の食卓が甦る。
 祖母、父母、兄弟姉妹が9人、お給仕のお手伝いさんまで加わると10数人の大世帯になる。寒い冬の休日の朝は、大きな釜の湯気を囲んで熱い「いも粥」を啜(すす)るのだから壮観だ。やや長じて小学3〜4年生頃、学校から帰ってくるや否や、ほかほかの“蒸しいも”が待っていた。2、3ヶほおばると、また遊びに飛び出す。
 私の食の記憶をたぐっていくと、この「いも粥」、「蒸しいも」の食感にたどりつく。それは、甘く、暖かく、懐かしい。
サツマイモの伝播、中国から日本へ
 このサツマイモだが、これを世界に広めたのは意外や意外、アメリカ大陸を発見したコロンブスだという。この時、タバコ、トウモロコシとともに、サツマイモという大きな“お土産”を、スペインのイサベラ女王に献上してから全世界に伝播する。
 それからのルートは
(1) 西インド諸島→ヨーロッパ→アフリカ→インド→インドネシア→中国へ
(2) メキシコ→ハワイ・グァム→フィリピン→中国へ
(3) (1)、(2)とは別に、自然に伝播した西インド諸島→南米・ペルーへ
以上の3ルートと言われている。
 日本へは、中国から渡ってきた。慶長2年(1597年)、沖縄南西320kmの離島宮古島の頭役 長眞氏砂川旨屋が、沖縄からの帰途逆風に遭い中国に漂着した際に、サツマイモのツルを持ち帰って島民の飢饉を救ったというのが最も古いとのこと。
 次いで、琉球の野国総管が、命令を受けて中国に渡った時、食糧としてのサツマイモが栽培されているのを見て琉球に持ち帰ったのが万暦(中国の年号)33年(1605年)、その後、儀間眞常とともに研究を重ね、琉球国中に広まる。
 その後、南西諸島の島伝いに北上を重ね、薩摩、日向の南九州へ、さらに紀伊、肥前(平戸)、伊予、愛媛と海上ルートで伝播する。当時の日本は鎖国体制が確立し、独立した藩政が行われていた。従って情報は流れず、極めて閉鎖的だっため急激には普及しなかった。
 しかしながら、享保(1732年)、天明(1782年)、天保(1832〜33年)と飢饉が続く中、救荒作物としての、サツマイモの真価が発揮され、いろいろのルートを経て、北上していく。
 なかでも、石見国(島根県)の代官 井戸正明は、享保16年の兇作に際し、自らの身の上をかえりみず公儀の沙汰がないまま、備蓄米を放出したり、薩摩からサツマイモの種イモを移入したりして、飢饉を救った。数百年後の現在もなお「芋代官」として崇められている。
 また、戦前の教科書にも取りあげられていた「青木昆陽」は、一介の江戸市民であったが苦学の末、幕府に登用され儒官となり、最後は書物奉行となる。昆陽はかねてよりサツマイモが救荒作物として優れているとの意見をもっており、このことを藩薯考(ばんしょこう)にまとめ、八代将軍 吉宗に進言した。当時の町奉行 大岡越前守の仲介もあり、幕府はこれを採用し、栽培に成功、その後の度重なる飢饉を乗り越えることができ、いよいよサツマイモは普及していく。
青木昆陽
(1698-1769)
 このように、サツマイモのルーツを尋ねていくと、サツマイモは救荒作物 ― 兇作のときにも生育して収穫しうる作物として普及、伝播している。これも飢饉への脅怖感がその背景にあったからだろうか。
太平洋戦争とサツマイモ
 このコラムに、サツマイモを思い立ち、日本に初めてサツマイモが上陸したのが「宮古島」であることから、私の叔父が戦中戦後、宮古島に駐屯していたことを思い出した。
 叔父は、昭和19年11月陸軍少尉として沖縄を経由し宮古島に渡る。翌昭和20年2月に入ると、戦局は厳しく、重大化する。その後、沖縄はアメリカ軍の占領することとなり、終戦を迎えている。
 この間の宮古島での軍隊生活を「生き残りの記(宮古島時代)」として書き遺している。
 
自活作業
 この年(昭和20年)の2月以降、内地とも台湾とも一切の交通は杜断していたので、沖縄戦が始まった頃は、戦争はまだ何年続くか分らぬというのに、残りの米は僅かに数ヶ月を支え得るにすぎなかった。そこで自活作業ということが戦斗の準備と同じ重要さで、軍の「作命」(作戦命令)をもって下令された。
 自活作業の第一は藷の耕作であった。各隊は夫々島民の耕地を借りあげ、又は荒地を開墾して藷を植えた。さいわい藷は、前にも述べたように、冬の一、二ヶ月を除いては何時でも植付け出来たし、植付けると三、四ヶ月で実がはいるので、且つ植え且つ食うことができる。併しその収穫は内地と比べて驚くほど少なかった。坪当り二瓩(=kg)を標準にしたが、多くはそれ以下だった。それはひとつには収穫を急いで、充分実のいるのを待たずに掘り返してしまう為もあったが、第一は土地が痩せていた。何しろ珊瑚礁質の石灰岩の上に、厚いところで五、六尺、薄いところでは一、二尺しかない土に植えるのである。それに俄か百姓で、何にも肥料を施さないのだから収穫の多かろう筈がない。そのうえ、藷が 虫に侵されている。この虫にやられた藷は苦くて豚も食わない。
 将校には、余暇をみつけて藷に関する教育が行われた。おかげで、種々新知識を得た。恥かしい話だが、藷には頭と尾があって、種藷を植える時には頭を上にしないと芽が出ないことを初めて知った。
 雨が降り出すと忙しくなる。大急ぎで各地に兵を派遣して藷蔓を買い集める。(後には自分の畑からとれるようになったが、初めは買うより外なかった)畑土が乾かぬうちに植えつける。一方、陣地構築や戦斗訓練は従来通り行なわれていたのだから忙しい。作業から帰って植付に行く。暗くなるまで植付けをして、翌朝見たら何割かはさかさまに挿していたなどの笑えぬナンセンスもあった。
 三度の食事も次第に米の量が減って、藷の割合がふえてきた。しまいには(終戦後のことだけど)一日の米の配給量が一合足らずになった。こうなると、三食のうち二食は藷、一食だけが藷入りの米飯 ― 藷飯ということになる。
 後に分ったことだけど、師団は二ヶ月分の米を蓄えて、あとは自活でやってゆく計画であったらしい。怖らく島で戦斗が始ったら、支えうる日数を二ヶ月とみて、この間だけは三度々々米の飯を食わせるつもりだったものだろう。
 宮古島は面積、159km2、その中に、住民70,000人、駐留していた兵力は、陸軍約25,000人、海軍約2,000人。戦局急を告げ、空爆、艦砲射撃に戦きながらの孤島での生活は、60年後の今、想像するだに心が痛む。当時、南太平洋上の島々に在った数多くの兵士たちは、同じようにサツマイモで命を繋がれたことだろう。
 戦争は絶対あってはならない。
サツマイモの呼び名と漢字
 この頃は、イモと云えば、サツマイモを連想される人が多いだろう。地方によってはカライモ(唐イモ)、リュウキュウイモ(琉球イモ)ともいっていたが、どうやらサツマイモに集約されていくようである。
 しかし、その表現はさまざま。
 さつまいも、と平仮名や、さつま芋と漢字混り、薩摩藷(又は芋)、あるいは甘藷、甘しょ、カンショ・・・等々
 サツマイモやジャガイモが日本に伝来する以前のイモといえば、サトイモとヤマイモしかなかったのだから、色鮮やかなサツマイモが入ってきたので、混がらがってきたようだ。
 しかし、漢字の方は一応区別している。
芋は里芋(taro)、薯はジャガイモ/馬鈴薯(potato)、藷はサツマイモ(sweetpotato)、蕷は山いも(yam)
と一応使い分けられているようだが、最近大流行のいも焼酎は焼酎と書いてあるのを見受ける。漢字の方は少々乱れつつあるのだろうか。
“九里四里うまい十三里”?
 「イシヤキイモー」
 懐かしく、食欲をそそる呼び声である。
 18世紀、日本にサツマイモが入ると、そのすぐれた味は庶民の求めるところとなり、蒸したイモを売る店が現れた。
 その後、サツマイモの商売にひとつの革命が起こる。イモはゆっくり焼くと独特の甘味を出す。(澱粉が熱変性により蔗糖になる)。その特色を生かして、「焼きイモ屋」が出現する。
 江戸時代は各町の出入口には木戸があり、夜は閉めて人を入れなかったが、その木戸を管理する人を“番太郎”といった。この番太郎が、焼きイモ売りを内職としたので、忽ち江戸中に拡がったという。今ならさしずめ、チェーン店だろうか。
 その焼きイモ売りの看板に「八里半」とか「十三里」と、シャレた文句を考え出した。
 八里半とは、九里(クリ、栗)に近いおいしいイモですよ。
 十三里とは、九里(くり)四里(より)うまい、合計十三里。
 現在でもヒットするような、うまいキャッチフレーズ、ネーミングは秀逸。その後は「○やき」と称して繁盛する。
 また、埼玉の川越市付近は、“川越イモ”として有名であり、江戸日本橋から13里をもじったシャレだとも云われている。そして現在もなお、“紅赤”という品種として存続し、これを原料とした銘菓は名高い。
 この焼イモ屋は、明治になっても盛んであったが、火を扱う商売として度重なる火事騒ぎとなり、明治24、26年と甘藷焼場改造の布令が出て、一定の面積、煙突のついた焼場が義務づけられた。夏は氷水屋、冬は焼イモ屋という商売のパターンが生まれていたが、大正12年9月1日の関東大震災で壊滅。その後は下火になったという。
 しかし、何といっても、サツマイモの素朴な美味しさは、焼イモが最高である。太平洋戦争終戦の翌昭和21年、上級学校に進学すべく受験勉強に取り組んでいた冬の日、夜食には母はサツマイモを輪切りにして、鉄板で焼いてくれた。その熱い、甘い美味は心身を癒し、再び机に向かったものである。
 今年は、その母の17回忌、7月にその法要を営む。やがて、秋風の吹く頃には“新イモ”が出まわる。今から心待ちにしている。
 参考文献 
「ものと人間の文化史90 さつまいも」 坂井健吉著 / 法政大学出版局
「再発見、からいもの魅力」 南日本新聞社編 / 南方新社
「歌で味わう日本の食べもの」 塩田丸男著  / 白水社