私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 4月は、入学、入社と新しい出会いがある。景気は明るい兆しもあるが、まだまだ、フリーターあり、職を求める人々がある。
 さらにまた、NEET、ニートと呼ばれる人々があり、気にかかっている。
ニート、NEET
ニート、NEET
 NEET=Not in Education, Employment, or Training.
 学校に通わず、働こうとせず、職業訓練もうけない無業者、症候群のこと。
芥川賞候補 「図書準備室」
  徒然に、本屋の店頭で「図書準備室」(田中慎弥 著) を手にとる。その帯に云う。  
 
 
 
 「私は三十を過ぎた。一度も働いたことがない。
  なぜ?あの「目」を見てしまったから―。」
 
 早く父をなくし、祖父と母の3人暮し。私は母に食べさせてもらい、お金の無心もする。
 父の3回忌の法事の後、伯母から
 「そろそろ何とか、働いてみる気にならないのか」
 と云われ、働く気はないが、喋る気はあると、中学時代に出会った「目」の話から始める。
 小学校の通学路で、ちょっと暗い感じの長身の男に出会う。小学校から、すぐ近くの中学校に進んでも、その男との出会いは続く。級友は、その男を「世捨て人」と呼んでいたが、実はその中学校の教師だった。
 ある日、通学路の石段にかかると、長身の教師の首がぐらっと動いた。私はびっくりして見上げる。そこにあるのは「目」だった。一度見たら絶対忘れられない目玉だった。
 以来、その目に出くわす毎に、挨拶をせねばと思っても目を外す。その翌日も目を逸す。
 中学の生活に馴れてくると、その教師が
 『戦時中に仲間をリンチした。女性を強姦した』との噂が流れた。ひょんなことから、私は「図書準備室」で、教師の告白を聞くことになる。
 
 1945年の夏、原爆が投下される頃、教師は学徒動員で工場で働いていた。その中の1、2年先輩がいつも仮病と詐り、欠勤するし、いかがわしい女性と交際していることを耳にする。真面目な教師の目には、その先輩を“ふざけたやつ”と立腹する。
 「日本國が大変なときに、男と女が交際する、働きもしない。天皇陛下や軍人に対して申し訳ないと思わないのか―」と、友人たちをまとめて、リンチを計画し、手厳しく制裁した。
 
 まもなく、戦争が終わる。
 「戦争がすんだら、立場は逆になったのでは・・・」との質問に対し、教師は、
 「いや無視された。許されも告発もされなかった。確かに戦争とリンチは違う」
 「戦争は大義でするもの、リンチに大義があるのか」
 「純粋で悪いリンチに、悪くない戦争だってある」
 「強姦は、絶対していない」等々、反省、懺悔の言を聞かされる。
 こんなやりとりの後、教師は図書準備室を去る。
 その後、教師と初めての通学路で顔をあわせる。
 私が坂を登ってくるのを待ちうけ、ゆらゆらと教師が顔を出す。そして、いきなり歪んだ顔で『おはよう』と馴れ馴れしく声をかけてきた。
 我慢できず、私は、それまで通り無視し続ける。
 
 ・・・教師の目を見て、声を出してさえいれば、私の人生もかなりまともになってただろうか・・・。
 
 主人公は、こんな教師との出会い、黒い目、戦時中の状況でのリンチの事情を聞かせられたことを話したあと、
 「戦争へ行けと言われたら私は逃げ出すでしょう」とか戦争の大義を冷淡に拒否し、リンチを受けた先輩と自らを重ねたり、働かない青年として、政治的な意見は主張する。
 
  読み終えて、いわゆるニートを単なる社会現象として掴えず、人間の心の深奥に迫り、思想的、あるいは文学的な解明をしようという試みなのだろう。この小説により、ニートの問題が解決するものではないが、立ち止まって、その本質から考え直させる契機を与えてくれるだろう。
 
学徒勤労動員の追憶―制裁
 昭和20年夏、長崎に原爆が投下される頃、この小説の教師と同じように、私は長崎県大村市の第21航空廠で、飛行機の生産に汗を流していた。
 15才の少年、中学4年生、1日12時間の労働が5ヶ月間続いていた。疲労が重なり、ときには怠惰になったのだろう。当時の日誌にはこう綴っている。
 
 「昭和20年6月27日、水曜、曇時々雨、
 沖縄本島玉砕の昨日の報道があった。意気は高いが、元気が出ない。組立の○○職手(職制)より猛烈な怒りと精神訓話を受け、△△一工(職制)よりも・・・
 午後、これに懲りて、疲労も時間の経過も忘れ頑張る。
 帰舎後、猛烈な疲労と足のだるさを感じ、風呂も浴びず、ただ寝る」
 動員日誌(大村にて)
 
 この日のことは、62年後の今も鮮明に記憶している。
 どんな理由で叱咤されたのかは、全く記憶にないが、機械工場に在籍、艤装用の材料の運搬を命ぜられ、数日間、炎天下のもと、きびしい労働が続き、だらけていたのだろう。上司は「気合を入れる」という。その雰囲気からビンタのひとつ、ふたつは当時としては当たり前だったので覚悟はしていた。
 ところが上司は、自らは手をかけず、班長の私に対し、「班長ミヤジマ、気合をいれるため、お前が全員を“殴れ”」と命じる。
 内心、この上司にコンチクショウと怒りを覚える。いかんせんまだ子供である。止むを得ず、5名だったと思うが、整列してもらい、ビンタを張った。友人たちには済まないと心の中で叫びながら・・・。今も右手はその痛みを記憶している。
 そのくやしさを忘れようとしたのか、午後からは猛烈に働く。宿舎に帰ったら、がっくり、すぐに床に着いた。
 この日から50日後の8月15日、戦争は終わる。
 終わった―という解放感からか、学徒動員中の、こんな惨めな体験からすぐに立ち直った。
 戦後60年の間、数回の同期会で、このときの友人たちに、“あの日は、すまなかった”とお詫びするが、皆さん異口同音に“アッハッハ”と笑い飛ばしてくれる。
 
 日本の若者たちよ、環境にめげず、明るく、強く、たくましく!
参考資料
 図書準備室 田中慎弥 著 新潮社 平成19年刊