私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 9月も、宮島醤油125周年に因んで、
 七世宮島傳兵衞の人となりを綴ってみました。
 誠心誠意、70才の人生を生き抜いた、
 明治時代の実業人の“強さ”を感じとっています。
七世 宮島傳兵衞の人間性に学ぶ (下)
七世宮島傳兵衞
(四)七世翁を偲ぶ座談会
 昭和28年6月10日の宮島醤油社内報は、次の3人の方の「翁を偲ぶ座談会」を伝えている。
 
高木 利吉 昭和28年当時は宮島醤油(株)監査役
   (前回コラム「七世宮島傳兵衞の人間性に学ぶ(上)」を参照)
 
杉江 寛 元宮島商店石炭部 支配人
昭和39年元旦
自宅にて 73才
戸畑支店 初代支店長
(宮島醤油退職後も、火薬店、製網業、文具店、釣具店等を経営されていた。住居が本宅の隣だったので親しくして頂いた。魚釣りが趣味、温厚で話が面白くお世話になった。)
 
西方 孫四郎 元宮島醤油株式会社 販売課長
西方氏、60才
後に、宮島酒造株式会社 支配人
(西方のオジサンとよく甘えたものです。酒造会社が本宅の隣だったので、よく遊んでもらった。実直な方で、退職後も醤油びんを自転車に積んで販売されていた姿が目に浮かぶ。)
 
 司会は、当時の総務課長 渡辺源三郎氏。
 その抜粋を紹介しましょう。
 
 杉江さん
 「翁(七世傳兵衞、以下傳兵衞という)は、とにかくカンシャクもちでした。翁の雷が落ちたら、それこそ大変、店の者だろうが、身内だろうが、区別なく徹底的にやられました。しかし、そのカンシャクはその場限り、後に残りません。叱られた翌日はケロリとして温かい言葉をかけて下さる。会社をやめようと張りつめていた気持ちもくじけてしまいます」
 
 西方さん
 「今の人には想像もつかないことですが、私たちの修行時代は、毎日、主人の顔色を見るのが大切でした。機嫌の良し悪しが一番よくわかったのは、奥さんの呼び方でした」
 
 杉江さん
 「そうそう、機嫌の良いときは“ばあちゃん”、悪いときは“オギーン”(奥さんの名はギン)、そんなときはシルバーがでた・・・といって、君子危うきに近よらなかったものです」
 
 高木さん
 「長男の徳太郎社長も大分やられなさったようです。翁が自宅(城内公園下)から水主町の本店に来られると、徳太郎社長がまだ二階で寝ておられたから大変、朝から、大雷、商売は止めろ、戸は閉めろと大騒ぎ・・・。横浜家(田中家)のおばあさん(ヨシ)のとりなしで、やっと納まった次第です。翁もこのおばあさんには一目おいておられた。(翁の叔母ヨシのこと、母ツルとともに宮島家のために尽くしてくれた人である。)
 
 杉江さん
 「商売のことでは、非情にきびしく、コッピドクやられました。私の監督で、漢口向けに石炭1,800tを船に積んでいたのが、400t目切れしていたとの電話が入った。サア大変、翁は私を呼びつけ大目玉。私は絶対自信があったのでいくら説明しても許してもらえない。とうとう「もう宮島には行かん」と決め、泣きながら帰ったことがありました。寝ていると徳太郎社長が来て「腹も立とうが、そこは・・・」と説得された。翌朝、出社すると、翁は「どうだ考えついたか」と温かく云われれば、「上海まで行って捌いてきます」と、上海に急行し寒田さんという人とうけあって、2,078円を受け取って帰ることが出来ました」
 
 高木さん
 「翁は、商売の上での正義感はきびしかった。ある出入りの人が来て、私の帳簿を垣間見て、その単価をみて、強硬な交渉をはじめられた。翁は、その時、『他人の帳簿を盗みみるような商人道にもとることをする商売人とは、取引しないと、キッパリとした態度をとられました。勿論、コッピドク怒られましたよ」
 
 西方さん
 「私は一番幼かったのか、叱られた記憶より可愛がってもらった記憶が強い。宮島家の中にあっては家族同様、ランプの掃除が済むと、勉強の時間でした。この時間は、翁の命令で私を使ってはならないことになっていました。毎日の習字を見て批評し、直してもらっていましたが、翁が関節炎で別府へ湯治に行かれたときも、清書したものを別府まで送り、翁は、この清書を○をつけたり、正したりして送り返してくださいました。今も思い出すと、涙がこぼれる思いです」(この添削された習字の半紙は、西方さんは大切に保存されていたそうで、お亡くなりになった折に、一緒に納められたそうです。)
西方さんの末娘、西方榮子さんからのお手紙
(平成19年7月)
 
 杉江さん
 「本当にやかましい半面、温かい人でした。死ぬ程怒られても、翌日はけろりとして、飯でも食べていけ・・・、と云われても窮屈で、今日はちょっと・・・、とうまく逃げていましたけれど・・・」
 
 渡辺さん
 「本宅には、ホッカイマ、西洋間という部屋があるそうですね」
 
 高木さん
 「ホッカイマ」は北海間(北海道旅行の記念)、翁は非常に旅行好きで、内地は申すまでもなく、支那、台湾、北海道とくまなく旅行された。そのときどきに新築されたようです。翁の旅行好きは、世界漫遊にまで発展しました。そのとき、唐津に帰り、自宅にくつろいだ時の言。
 『世界で日本が一番いい・・・』はけだし名言ですよね」
 
 渡辺さん
 「翁が平素あなた方に教えられたことで最も印象に残っておられるのは・・・」
 
 高木さん
 「男は、家内に惚れ、土地に惚れ、商売(仕事)に惚れよ、そしたら家内も夫に惚れるもんだよ・・・」
 
 渡辺さん
 「人生をうがった言葉ですね」
 
 以上、七世傳兵衞の言行録、座談会からは、傳兵衞の卓越した、強力な指導力は、心から、その人を育てあげようという愛情に溢れ、理想的な経営者像が浮かんでくる。
(五)家庭人としての傳兵衞―末孫、宮島菊代の手記から
 七世傳兵衞、逝きて90余年。その人柄を偲ぶよすがもなくなったかなと思っていた。
 ところが、今年の初めの頃、宮島省吾君が、「母の遺品を整理していたら」と七世傳兵衞の孫、宮島菊代が晩年に綴った、手記を頂いた。
 以下、その手記の傳兵衞にかかわる部分を紹介します。
 家庭人として、可愛い末孫に目を細めている様子が見えるようだ。
 
 ギンの初盆
 わたしの最も古い記憶は、ギン祖母(大正2年5月25日没)の初盆の精霊迎えである。
 大正2年の旧暦の盆だから、私は2才7ヶ月、5月末に亡くなった祖母のことがまだ幼い記憶から消え去っていなかったようだ。
 皆から、「さあ、おばあちゃんが煙にのって来らすよ、ほら、座敷に上っていかすよ」と云われて、座敷に上って仏壇をみた途端に泣き出したという。私はその前後のことは全く覚えていないが、私の泣き声につられて、皆ももらい泣きしたとか。ただ玄関に焚いた迎え火の煙の色だけは今もよく覚えている。
 頑固一徹で通った傳兵衞祖父も、一番下の孫である私には特別で、ひどく可愛がってくれた様で、雷が落ちそうな時は、私を連れて行ったことを、後々何度も聞かされた。
 
 七世傳兵衞からもらった御褒美
 小学校に入学して間もなく、ひどいハシカにかかったので、母と一緒に療養のため別府に湯治に行くことになった。・・・・・・別府に行く前の5月に、傳兵衞祖父の古希の大祝賀会が催された。(前回コラム「七世宮島傳兵衞の人間性に学ぶ(上)」を参照)
 大広間が建てられ、官民300人を招待して盛大な祝賀の宴が張られ、庭園には仮設舞台が設けられ、踊りや博多仁○加(にわか)その他の演芸が催され、思い思いの仮装をした人が賓客の間を縫って興を添えるという豪華なものだった。
 この年、再び小学校に入学した(病気で休学の後)。二度目の一年生なので成績は当然良かった。全甲の通信簿を、その頃はもう寝込んでいた傳兵衞祖父に見せると、大そう褒められ、ご褒美に多額の小遣いを頂戴した。
(六)傳兵衞を語る資料から
彼の人となりを語るエピソード等は、失せてしまったが、わずかに次のふたつが今も残っている。
 
 明治40年刊、佐賀県商工名鑑から
 「君性漂脱、能く其経歴に於て佐賀の古賀善兵衛と相似るものあり、故に亦氏と交わりて極めて親密なり、其店員を養成するに力を用ふるが如きは稀に見る所。娯楽とする所は、唯謡曲の一芸にあるのみ・・・」
とあり、ユーモアを解し、人材養成にも長けていたのだろうか。
 
「唐津東松浦の歴史」(松浦文化連盟)から
水主町に住んでおられた、お茶、お華の先生、白井はまさんが、「傳兵衞氏の見識」として、語られている。
 
 母は幼少の頃ちょうど、傳兵衞氏の向かいに住んでいた関係で、氏の人格についての種々の見聞をもっている。
 母が物心つく頃の傳兵衞氏は、魚屋さんであった。なりふりかまわず働く人で、この世に働く為にのみ生まれてきたような人であった。一厘一毛の利で暮らしを立てる身には、人が働かぬ時、人が休養している時、正月や盆や、その他、いろいろの祭りに、人が我を忘れて遊ぶときこそ自分のかき入れ時である。こうしなければ、人にぬきん出る事は出来ない。人並みに遊んでいたら食うだけが精一杯だ、と文字どおり朝星夜星をいただいて働いた。
 水主町という所は職人町で、昔は若い人たちは傳法肌でけんか早く、狭気があって、いきで、たまには三味などを鳴らすような気風が江戸っ子に似通うところが見受けられた。なかなか度胸もあって親切であったが、玉にきずは、たいていの人がバクチに興じた。傳兵衞氏はその誘いをしりぞけるばかりか、
 『お前さん達がそうして血まなこになって勝敗を争い運よく勝って全部の金を一人じめにしてしまったにしろ、どれほどのものか、しれたものだろう。警察をおそれ密告をおそれ人をうたがい、かくれしのんでするバクチなど男のする仕事じゃない。商売をしろ。例え一人から受ける口銭は僅かでも、日本国中の人を相手にするならば、小バクチなどで、怨みの金を懐中にするより、どれほど莫大かもしれない。また、天下晴れて堂々と出来る金もうけだ。金が欲しかったら商売に限る。真面目に働くこった。売り買いの道は四通八達、世界のすみずみまでもひらけている』と、諭した。
 現在、外来の人達の目を引く、唐津でたった一つ、生きた大煙突として煙を吐くあの工場!たえまなき増産に営々と実績をあげている宮嶋醤油株式会社の、ゆるぎなき基礎はこの初代(七世)傳兵衞の高い商魂に外ならぬ。
(私は宮嶋氏と何んのかかわりもない。念のため)
むすび
 以上、傳兵衞の人間性まとめてみました。
 懸命に働いている傳兵衞、従業員へ注ぐ愛情、家庭の中での傳兵衞、誠実勤勉、まさに“去華就実”そのものの一生だったろう。
 七世傳兵衞の人柄を2回にわたり掲載しました。
 少し、長くなりましたが、宮島に関係ある方々の目にとどまれば幸いに存じます。不悪(あしからず)お許しください。