私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

記録的な酷暑から、漸く、秋になる。
夏から秋になると、家族の逃避行を追った
62年前の昭和20年8月の夏を思い出す。
山瀬 終戦時の追憶
(一)終戦の詔勅を聞く。大村から唐津へ
 昭和20年8月15日
 当時、佐賀県立唐津中学4年生、15才。
 たぶん、紅顔の美少年だったであろう。しかし、学徒動員で大村市の第21海軍航空廠、機械工場に配属され、海軍戦闘機「紫電改(しでんかい)」の部品の製造に励んでいた。午前10時頃だったろうか。疎開していた工場の中庭に大事な発表があると全員集合。
 「朕ハ帝国政府ヲシテ、米英支蘇四国ニ対シ、其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ・・・」の詔勅を頭を垂れながら、聞き入る。
 「ガァガァ・・・」と雑音が混じり、聞きとりにくい。漠然と何か重大なことなんだなと思っていると、誰からともなく、「戦争は終わったとバイ」と囁き始めた。日本は必ず勝つ、と信じ込まされていただけに、茫然自失、今からどうなるのか、全く想像がつかぬ。ただ、落ち着け、落ち着けと自らに言い聞かせていた。
 
終戦を知らせる新聞記事
 
 宿舎に帰った。翌16日、担任の先生から、「直ちに唐津に帰る」との指示に従い、宿舎のすぐ近くにある国鉄、大村線竹松駅から乗車した。列車は、われわれと同じ様に帰省する人たちですし詰め。早岐、久保田と乗り継ぎ、飲まず食わずで唐津に向かった。
 
竹松駅(JR大村線)、昭和60年写す。
 
 翌17日の朝、唐津の実家にたどり着く。
 ただでさえだだっ広い家は、気味が悪い程、静まりかえっていた。急に空腹を覚える。台所のあたりを見廻すが、何もない。ふと思いつき裏庭に廻る。完熟した真っ赤なトマトが目にとまる。もぎるや否や、“ガブリ”、その甘酸っぱい味は今も忘れえない。
 少し落ち着いたので、隣の杉江商店のオジサンを訪ねる。当時は、貴重品だった、甘いゼンザイを御馳走になりながら、「唐津の人たちは、アメリカ軍が唐津港に上陸して攻めてくるので、田舎に避難したよ。宮島さん一家は、相知の江頭さん宅(長姉の嫁ぎ先)に行かしたよ」と説明してくれた。
(二)唐津から相知へ・・・とぼとぼと歩く。
 ひと息ついて、陽も傾き涼しくなってから、相知に向かった。国鉄は、前日の帰省客を送るのにフル活動したためか、その日は運行しておらず、やむをえず一人でとぼとぼと歩き出した。唐津から相知まで、約16km、3時間ぐらいかかっただろうか。相知の江頭家へ着くと、そこでは義兄(姉の夫)とその弟(私とは唐津中学の同級)の二人が、家を守っていた。聞けば、母、姉、妹、弟、叔母、従姉妹弟たちは、相知でも危ないのでさらに知人を頼って、山奥深い“山瀬”まで逃げていったという。
 満員の列車に揺られ、さらに唐津から相知までの歩行、今考えてみると、相当の強行軍にもかかわらず、疲れとか、辛労だったという記憶は全くない。やはり、15才の若さと、終戦という混乱の中の緊張感がささえたのだろうか。
(三)相知から、さらに山奥へ
 相知でゆっくり一夜を明かすと、翌朝、山瀬に行った家族に食糧を持って行かねばと、義兄、その弟、私の3人で持ちうる限りのお米をかついで、見返りの滝を横に見ながら、標高500mの山瀬を目指し登ること約2時間。漸く、母と会い、一家団欒のひと時を味わった。
 お世話になった家は、せせらぎが聞こえる大きな農家だった。
 母の話によると、終戦の詔勅が発布された後、アメリカ軍が攻めてくるので、女性、子どもたちは避難せねばとの噂が流れ、会社の高木支配人と義兄がやってきて、「逃げないと危険だ」という。とりあえず、いくらかの現金と身の回りの品をまとめ、叔母たちとは「別れの盃」まで交わすほど切迫した雰囲気だった。いざ出発しようと街に出ると、道路は逃避先を求めて、荷物を積んだ車、リヤカー、人々・・・でごった返している。その中を縫って相知までやって来たという。
 かくして、終戦時の混乱した数日は終わった。
 爾来、もう一度山瀬を訪ねてみたいと思いながら、62年の歳月が流れてしまった。現在の山瀬は、人が住んでいないとのこと。私にとって、山瀬はもはや幻影となってしまったのだろうか。
(四)9月1日、第2学期に入る。
 山瀬から帰ってから、やっと夏休みとなる。若いだけに気持ちの転換も早い。灯火管制もない、のんびりできる。母、兄弟姉妹、揃っての生活は、明るかった。
 9月1日からは、第2学期に入る。勇んで登校した。陸海軍の学校に入学していた友人、外地からの引揚者も加わり、入学時150人だったのが、200人余りに膨らんで活気づいていた。しかし、政府、GHQの教育方針は決定せず、歴史、地理、社会科関係の授業はなく、数学、物理、化学、英語等のみで午前中で終了していた。
 第2学期に入って間もなく、森鷹一校長の英語の授業がひときわ印象に残っている。
 『Dignity of Individual(個人の尊厳)』を教えられたときはじめて“戦争は終わったのだ”と戦後を実感した。そのときの感動は、今もなおみずみずしい。
ちなみに、山瀬について
 山瀬は、脊振山地の両方、標高500m、山々に囲まれた、いわゆる僻地で独立した村だった。唐津藩時代(江戸時代)には、厳木町に属していたが、江戸末期に「天領」となり、明治になって浜崎村に編入された。山瀬の名産は木炭とわらび。明治14年の記録では37戸。戦前は23戸。明治35年には、浜崎小学校、山瀬分校が設けられ、昭和25年に電灯がともった。

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 私たちが登った、相知町伊岐佐からの道だけが通じていたが、昭和56年、浜玉町からの道が開通し、車で25分と近くなった。(浜玉町史より)
 しかしながら、山深く、農業等の生業は難しく、過疎化が進み、現在では唐津焼の窯元、ソバ屋さん、その他、数戸のセカンドハウス、それにキャンピングカーが、散見されるという。
参考文献
「浜玉町史」 浜玉町史編集委員会 編(佐賀県浜玉町教育委員会)