私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)

会長コラムへようこそ。

 趣味は読書。
 興のおもむくまま、手あたり次第に貪り読むから、文字通り雑学である。数多く読んでいく中に意外なところにわが郷土“唐津”を発見すると、途端に親しみを覚え、丁寧に読んでいく。その中の二、三、思い出すままに・・・。
唐津 三題 ~平家物語、猫、五足の靴~
(一)平家物語 鬼界が島の悲劇 俊寛と佐用姫
 鹿の谷事件がひき起こしたドラマ。治承元年夏、平清盛に反逆をくわだてた計画が事前に洩れて、丹波少将成経、僧都俊寛、康頼法師の三人が鬼界が島に流される。その後、成経と康頼は赦免され俊寛だけが残るシーン。船は無情にも遠ざかる。
 御存知、平家物語の一節。
 「いまだ遠からぬ船なれど、涙にくれて見えざりければ、僧都高き所に走りあがり、沖の方をぞ招きける。彼の松浦小夜姫が、もろこし船を慕ひつつ、ひれふりけんも、是に過ぎじとぞ見えし」
 昔、松浦小夜姫(佐用姫)が領巾(ひれ)を振った悲しみも、この俊寛の今の気持ちには及ぶまいと思われる。
 平家物語に佐用姫が登場するとは思いがけなかった。それ程に佐用姫伝説は有名だったのだろう。さらに琵琶の伴奏にのった平家物語によってますます流布されていったのだろう。
 時代は降って、室町時代、能、謡曲では、「俊寛」と題し、
 「船よと言へど、乗せざれば、力及ばず俊寛ハ、もとの渚にひれ伏して、松浦佐用姫も我が身にハよも増さじと聲も惜しまず泣き居たり・・・」(観世流謡曲百番集)
と佐用姫の悲恋物語は世に浸透していく。
(二)猫 唐津 山の芋 「吾輩は猫である」
 夏目漱石の「吾輩は猫である」を病床のつれづれに読んだとき、唐津の山芋が登場したときには、驚いた。
 「猫」の前半のところ。主人の苦沙彌先生宅に泥棒陰士がしのび込む。
 「細君の枕元には四寸角の一尺五六寸ばかりの釘付けにした箱が大事そうに置いてある。是は肥前の國は唐津の住人多々良三平君が先日帰省したとき御土産に持って来た山の芋である」 
 何も御存知ない泥棒は、この山芋の入っている箱をさぞ大事なものと思い込み博多帯でくくって盗んでいく。このあと、警察に届出て、巡査さんが入り、苦沙彌先生と奥さんとの盗難届けを書くやりとりが軽妙に続く。
 「黒繻子と縮緬の腹合せの帯一筋 ― 価はいくら・・・」
 「六円くらいでせう」
 「それから?」
 「山の芋が一箱・・・ねだん迄は知りません」
 「そんなら12円50銭位にしておこう」
 「・・・・・・いくら唐津から持って来たって12円50銭は堪らん」等々。
 そんな夫婦のやりとりがあり、主人は書斎へ、細君は針箱の前に坐る。・・・
 所へ、威勢よく玄関を開けて、山の芋の寄贈者、多々良三平君が上がってくる。三平君はもと此家の書生、法科大学を卒業後、ある会社の鉱山部に雇われている。
 「奥さん、よか天気で御座りまする」
 「そればってんが・・・」
 と九州、唐津弁での会話が入っている。
 文中にあるように、多々良三平君のモデルは、漱石が熊本の第五高等学校に奉職していたときの股野義郎だと言われている。それにしても、唐津、そして、「山芋」の発想はどこから来たのだろうか。
 もう少し、くわしく解明したいなとの好奇心が湧いてくるが、時間もなく今に至っている。
 どなたか御知恵を拝借したいのですが・・・。
(三)五足の靴
 冒頭、「五足の靴が五個の人間を運んで東京を出た。五個の人間は皆ふわふわとして落ち着かぬ仲間だ・・・」にはじまる。
 
 『五足の靴』とは、明治40年、盛夏、九州の北西部を自由奔放に旅行した、与謝野鉄幹・平野萬里・北原白秋・吉井勇・木下杢太郎、五人の紀行文である。
 一行は、広島は厳島を出発、ついで馬関(下関)へ、さらに福岡は筥崎、香椎を経て、白秋の故郷、柳河まで下り、佐賀から唐津へ・・・鏡山(領巾振山:ひれふりやま)へ登る。
 
 (七)領巾振山
 唐津近松寺を出でて鉄道馬車に乗る、正面を見て来た来たというと中途で馬を外した、何事ならんと思えば遥か向うの方から煙を吐いて来るものがある。今機関車が来るのだそうだ。・・・中略・・・
 ぼーと一時に濛々たる烟を上げて車が動き出す、その前にぶるぶると馬のように震えたには一同舌を巻いて驚いた、・・・
 二軒茶屋で降りる。列車も暫時休憩する、手桶の水を逆にして熱く焼けた釜の上へぶちまけるとじゅうっと音がして白煙が立ち登る。・・・
 松原を突切ると領巾振山が見える。・・・
 喘(あえ)ぎ喘ぎ急阪を登ること暫くにして顧れば眼界頓(とみ)に開け松浦川の流が絹のように光る。・・・
 最も左峰の山頂に松が見える、そこで佐用姫が領巾を振ったのである。・・・
 うねうねした踏分道は容易に尽きぬ。徒に仰いで頂上の松を望む男は何れも息をはずませている。・・・
 眼を放てばそこらあたりに紅の百合が火のように咲いている。恋に燃ゆる佐用姫の心である。女郎花がある、男郎花がある、鈴蘭がある、・・・
頂きの端、老いたる松のただ一本立てる下に腰打ち下して四方を眺む、日はまだ高い、白い帆を下げた狭手彦の船が次第に遠ざかる、摩けども帰らぬ、女は声を限りに『我が狭手彦』と呼ぶ、白い帆が微かに震う、女は領巾を外してひらひらと舞わした。・・・」
 
 新しい詩をもとめて、新詩社の機関誌“明星”に集う若き詩人たちは、思う存分、旅を楽しんでいく。時にリーダー格の与謝野鉄幹は35才、平野萬里・北原白秋・木下杢太郎はいずれも23才、吉井勇は最年少の22才。まさに日本耽美派の胎動となった旅。―明治40年頃、ちょうど100年前の唐津の貴重な記録である。
 
 
一行が乗った馬車鉄道、軌道
 
馬車鉄道 旧松浦川と軌道車
 松浦川に橋が架かったのは明治29年、当時の陸路の交通は馬車であった。満島馬車鉄道合資会社が設立され、明治36年には大手口(唐津市の中心部)から、材木町を経て、松浦橋をわたり、満島(現東唐津)、浜崎まで通じている。
 「五足の靴」の一行は、この馬車鉄道を利用、明治40年には一部すでに石油発動機で運転していたことになる。
 
松浦佐用姫
 
遠つ人 松浦佐用姫 夫(つま)恋ひに
   領巾(ひれ)振りしより 負へる山の名
                      (万葉集)
鏡山
 宣化天皇は、大伴狭手彦(さでひこ)を遣わして、任那の国を鎮め、百済の国を救おうとされた。そのとき狭手彦は松浦の里に来て、佐用姫をめとる。いよいよ遠征の日・・・
 その領巾(ひれ)振りし、山からの展望は美しい。
 
 どうぞ、唐津へ
参考文献
五足の靴 岩波書店 岩波文庫 (2007.5.16発行)五足の靴から100年
日本古典文学第19巻 平家物語 角川書店 冨倉徳次郎編
漱石全集第1巻 「吾輩は猫である」上 岩波書店
唐津市史