私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

目には青葉、山ほととぎす・・・・・・
五月、青葉、若葉を吹き抜ける風を
「薫風」と呼んだのは、唐の詩人、白居易である。
   薫風 南ヨリ至リ
   我が地上ノ風ヲ吹ク

「首夏南池独酌」とあるから、池面をわたる薫風を浴び、独り、緑酒を酌んで、この詩を詠んだのだろう。
薫風に思う“薫陶”
(一)
 薫とは、かおる、かおり。よい香のする草の名、残り香(余薫)、焚く、燻(くすぶ)る。近づくとよい香がすること。香りをうつすこと。立派な人に親しんで感化される(薫化)こと。
 その意味は、感覚的な香りというより、よい香が自然に染み込む、とういう情緒的な意味をもつようになっている。
 薫(かおり)と陶(やきもの)が成語となって薫陶という美しい言葉がある。
 「美人の日本語」の山下景子さんは、「心までしみこむ香」と美しく表現されている。
 立派な陶器を作るには、最も大切な、土を捏(こ)ねることからはじまる。土には霊が宿る。香を焚き、御酒を捧げ清めながら練りあげる。この薫をしみ込ませることによって立派な陶器ができあがる。このことから、自然に徳の力によって人を教化、訓育することを薫陶という。
(二)
 「○○先生の薫陶をうけました」 としみじみ語る人も少なくなってきた。
 河村英樹君は、私の中学時代からの友人である。ともに、旧制中学3~4年には、戦時下の大村の海軍航空廠で汗と油にまみれる。昭和20年8月復学、昭和21年4月、彼は難関、広島高等師範に入学した。しかし、残念ながら、家庭の事情により退学、帰郷、漁業の手伝いをしていたが、数年後、教育への情熱は抑え難く、小学校教諭となる。
 性、温厚だが信念を貫き、その熱心な指導は、生徒の信望を集めていたという。
 
河村英樹君
旧制唐津中学2年
昭和18年
(三)
 彼の薫陶ぶりを、佐賀新聞(平成12年10月18日付)、コラム欄「甘くち辛くち」、松谷由香里さんの「恩師と呼べる出会い」からうかがうことにしよう。
 「『子どもの見える教師でありたい。そう思いつつ、なんと見えないことの多いことか』
 穏やか、ではない。静かだけれど、『熱い』人。・・・・・・私にとっては、それが河村英樹先生のイメージだ。
 小学校5年生のとき1年間の担任だったが、その後も文通を続け、私の唐津市近代図書館への就職のときは、会いに来てくださった。
 自称、九十九歳。ノーネクタイ、『言葉』にこだわり、日本語の美しさを教えられた。
 『わからない』は『わかる』ための第一歩。はずかしいことではない。
 『苦労をさけて通る“学ぶこと”などありはしない』」
 こんな河村先生の一言ひとことは、小学校5年生の女の子の胸に、しみ込んでいったのだろう。ある教え子の方は、生徒たち誰もが、自分が一番多く話しかけられていたと思い込んでいたようだと述懐される。
 松谷さんは1年間で220号を数えたガリ版刷りの学級便り「紙風船」を大切に保存されている。その中には、
 「もの静かだった先生の喜怒哀楽。学級での子どもの言動を『すばらしい!』と褒める一方で、子どもたちに欠けているもの・・・・・・自分の中にもつものを燃やしつくしていく気力」 がぎっしり詰まっている。
  
学級便り「紙風船」第1号
昭和55年4月7日(月)
 紙風船220号のコピーを私に送っていただいた時のお手紙には、
 「先生の言葉を読んでいると、お顔が浮かびます。そして、『よし、頑張ろう』と力が湧きます。就職後、仕事が忙しかったとき『多忙を楽しみなさいよ』と励ましていただいた」 こと等々が綴られていた。
 
 まさに師弟感情は“薫陶”そのものである。
 彼は、約30年の間、綴り方の教育に身命を捧げたようで、数多くの教え子たちは今なおその人柄を偲んでいる。
 平成5年没 享年63才
 河村君、君が教えた子供さんたちは立派に成人しているよ。
合掌