私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

6月1日は、宮島醤油創立記念日である。
明治15年、醤油醸造業を始める。
今年は126周年、従業員、一堂に会して、126周年を寿ぐ。
例年通り、式典の最後に、宮島醤油株式会社の
社歌を声高らかに合唱する。
・・・・・・そして、戦時下の宮島に想いを馳せる。
 
宮島醤油の社歌・遺言に想う
―戦時下の宮島醤油―
株式会社宮島商店歌
レコード
征途ニ就カントシテ後事ヲ挓ス
取締役、職員御一同様
専務取締役 宮島庚子郎
(一)社歌
宮島醤油社歌(宮島商店歌)
作詞:小笠原悟  作曲:高田重男
1.  美(ウルワ)しきかな松浦の  
  3.  進路に嵐吹き荒れて
清流海に入る處 業界の波狂うとも
父祖傳來の生業(ナリワイ)を 満載の船悠々と
守る團欒(マドイ)の大家族 我等断固と進むべし
亀甲宮の商標は 見よ業界の瞠目の
是れ報國の旗印 前に正義の大行進
信用高く進み行く 聞け青雲の彼方より
行手を塞ぐ敵は無し 楽しく響く勝ちどきを
(2.略)
 
 創立記念日式典の最後は、“社歌合唱”となる。
 美(ウルワ)しきかな・・・・・・父祖伝来の生業(ナリワイ)を・・・と歌い進むと、思わずずっしりと伝統の重みを感じてくる。
 生業とは、五穀が生っている(稔っている)さま、農作、生産の業とある。
 「父祖伝来の生業(ナリワイ)」、私の好きな一節である。
 
 記憶は60数年前に遡る。
 私は小学4~5年生ぐらいだったろうか。
 宮島本宅の大広間で、会合があり、私はお庭から、眺めていたら、オルガンの伴奏とともに、“美しきかな・・・”と制定されて間もない社歌の合唱が流れてきた。思わず、いっしょに口ずさんでいた。
 今、考えてみると、昭和14~15年頃の日本は、すでに戦争への途を歩みはじめ、富国強兵、一億総動員と国内は熱気を帯びていた。
 日支事変ははじまっていたものの、まだ明るく、社歌も「♪=足並ミノ速サ爽快ニ」と行進曲風のリズム、歌詞は、父祖伝来、團欒(まどい)、瞠目、永久(とことは)、等々、古めかしい語句が並んでいるのも当時の雰囲気を反映している。
 この社歌(株式会社宮島商店歌)が、いつ制定されたかは、詳らかではないが、昭和15年が皇紀2,600年と日本国中盛り上がっていたこと、昭和17年が宮島醤油創立60周年にあたるのが、社歌制定につながったのだろうか。
 爾来、60数年、126年を迎える今年までの半分以上の歳月の間、この社歌は従業員はじめ、関係者の皆様に歌い継がれて今日に至っている。
(二)戦時下の宮島
 当時の社長、父宮島傳兵衞は、昭和初期の恐慌、宮島の苦境を乗り越え、醤油、味噌、火薬は、戦争に向っても必需品であり、社内にも緊張感が漲っていたのであろう。
 昭和16年12月、第2次世界大戦に突入する。
 昭和17年、戦時下とはいえ、開戦後数ヶ月、まだ明るさの残る8月26日、父 傳兵衞は、夏風邪をこじらせ、あっけなく急性肺炎で急逝する。
 直ちに、長男 潤一郎(現相談役)は「傳兵衞」を襲名、学業半ばにして社長に就任。叔父、庚子郎は勤務していた貝島炭鉱、井陘炭鉱を退職し、株式会社宮島商店の専務取締役として経営にあたった。
 
勇躍征途に就かんとして
昭和19年9月撮す
 しかし、戦局は日を追って悪化する。
 宮島醤油も軍需工場としては存在するが、多くの男子従業員は兵役につき、原材料は極度に不足していく。
 新社長傳兵衞は学徒出陣で応召し、さらに専務の叔父 庚子郎も再び召集され、昭和19年9月、久留米51部隊への入隊の命令が下る。そして、11月には、宮古島(沖縄と台湾の中間)へ派遣される。
(三)遺言書
 すでに、戦雲急を告げる9月、叔父 庚子郎は、覚悟はしていたものの緊張と興奮の中に出社し、全従業員に対し「征途ニ就カントシテ後事ヲ挓ス」の一文、遺言書をしたためる。
 
征途ニ就カントシテ後事ヲ挓ス
 
   昭和十九年九月六日   
     専務取締役 宮島庚子郎 (印)
 
取締役御一同殿
職員御一同殿
 
 余、今玆ニ再ビ御召ヲ受ケ勇躍征途ニ就カントス。男児ノ本懐何者カ之ニ過ギン。
 顧ルニ一昨年八月、前社長傳兵衞不測ノ死際ニ会シ、余、浅験菲才ヲ以テ当社専務取締役ニ就任シテヨリ満二ヶ年。其間世相ノ変転、戦局ノ緊迫ハ何人モ想ヒ及バザル所アリシモ、幸ニ吾社ハ前社長ノ遺業ヲ承ケ多事多難ノ業界ニ対処シテ微動ダニナク、社業ノ基礎愈々鞏固ヲ加フ。是一ニ従業員一同社業ノ国家的重要性ヲ自覚シテ各ソノ職責ヲ完遂セラレタルニ因ルコト言ヲ待タザルモ、特ニ従業員諸君ガ不徳非才ノ余ヲ補佐セラレ、余ヲシテ嚮ク所大過ナカラシメラレタル結果ニシテ、衷心感謝措ク能ハザル所ナリ。
 然ルニ社長傳兵衞昨年、学未ダ全ク了ヘズシテ国家ノ危急ニ走セ、余亦征途ニ就カントシテ、吾社ハ社長専務両ナガラ不在トナル。然レドモ余ハ聊カモ後顧ノ憂ナシ。蓋シ諸賢ガ社長専務ノ不在中、一層団結ヲ固クシ、同心協力、専ラ会社ノ中核トナリテ従業員一同ヲ統率シ社業ハ反ツテ隆昌ヲ来スベキヲ信ズレバナリ。
 然レ共其間、諸賢ノ職務遂行ニ便センガタメ、余ガ老婆心ヲ以テ左ニ社長専務ノ不在中、社業ノ運営ノ方針ヲ遺ス。願ハクハ諸賢、一切ノ私心ヲ去リ、一致団結、国難ニ殉ズルノ覚悟ヲ以テ社業ヲ護リ、決戦下吾ガ社の職責ヲ全カラシメラレンコトヲ。
 
 社長不在中社業運営ノ方針(要約)
(1) 社長宮島傳兵衞、専務宮島庚子郎不在中ハ取締役支配人高木利吉ヲ以テ会社ヲ代表セシム。以下略。
(2)~(5)事故アルトキノ人事、顧問等ニツイテ
(6) 重要事項ニツキテハ、役員会ニ火薬醤油経理ノ各主任ヲ加ヘテ幹部会ヲ開催シ、必要ニ応ジテ支店長会議ヲ召集シテ慎重、審議決定スベシ。
(7) 社業運営ノ根本方針ハ堅実ヲ第一トシ既定ノ計画ハ極力実現ヲ図ルモ新規ノ事業或ハ拡張ハ一切之ヲ見合セ、専ラ内容ノ充実ト基礎ノ鞏固ヲ計リ、社会的信用ノ重厚ヲ期シツツ社長専務ノ帰社ヲ待ツベシ。
(8)~(10)財産ノ移動、ソノ他
(11) 社長専務共ニ戦病死シ不帰ノトキノ人事ニツイテ(略)
以上
宮島庚子郎「生き残りの記(宮古島時代)」より
 
 当時すでに40歳を超えていた陸軍少尉 宮島庚子郎は、死を覚悟しての出征を前にして、専務取締役として従業員各位に「一切ノ私心ヲ去リ、一致団結、困難ニ殉ズルノ覚悟ヲ以テ社業ヲ護リ決戦下吾ガ社ノ職責ヲ全カラシメヨ」と激励する。「父祖伝来の生業」への切々たる情愛は胸を打つ。
 現在の日本の平和の時代にあっては、地方の中小企業の経営者が残した遺言書など、まさに空しい戦時下の一断面を語る一片の紙切れかも知れない。
 しかし、126年の歴史をもつ、宮島醤油にかかわっている者にとっては、会社存亡の危機を物語り、我々を励ましてくれる貴重な記録である。宮島の歴史126年の真ん中の戦時下にあって、必死になって宮島を守って頂いた先輩たちに謹んで敬意を表しつつ筆を擱く。
 幸に、当時の社長、専務は戦後、帰唐、戦後がはじまる。