私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)

会長コラムへようこそ。

 今年は丑年。
 お正月には、牛が話題にあがっていたが、1~2ヶ月経つと、影がうすくなっていくらしい。
 牛は、牛乳を通して、私たちには、より身近な存在なのである。
 まずは、スジャータとお釈迦さんの話から思いつくままに・・・
牛乳とお釈迦様
(一)スジャータ
 ♪♪スジャータ、スジャータ♪♪
 CMの快いリズムと、やさしい語感は、熱いコーヒーに、白いミルクが流れ込むソフトなイメージにふさわしい。
 スジャータの語源が、疲れ果てたお釈迦さんに、牛乳を捧げた少女の名前だと聞いたのは何年前だったろうか。
 あらためてその由来を尋ねてみる。
 佛教の開祖、ゴータマ・ブッダは、現在のネパールの近くにあった小国家、シャカ族の出身。生まれた国に因んで、シャーキャ・ムニ、釈迦牟尼(シャーキャ国出身の聖者の意味)、または釈尊と呼ばれる。
 父はこの国の執政者、母は隣国の執政者の娘。この両親の間に誕生(B.C.463年、B.C.466年、その他の説もあり)する。
 釈尊は、長じて結婚、一子をもうけたが、若き日からの悩みを解決すべく、約束されていた王位を捨てて、29才のとき出家、求道の生活にはいる。
 この「修行」の時期に、2人の仙人を訪ね教えを乞い、あるいは悪魔の誘惑をしりぞけた末、山林にこもり6年間余の「苦行」を修める。その結果、彼の身体はやせ衰え、色は死灰のようになる。後日、彼はこう考えた。
 「このように極度に痩せた身体では、かの安楽は得難い。さあ、私は実質的な食物である乳糜(にゅうび:牛乳のおかゆ)を攝(と)ろう。
 その時、私と同行していた5人の修行者は、『贅沢になった』といって、私を嫌い立ち去った。
 そこで私は乳糜をとり、力を得て、諸の欲望や不善からはなれ、・・・・・・遠離から生じた喜楽である初禅を成就していた」
 
 この「乳糜」を捧げたのは、後代の佛傳によれば、村の長者の娘でスジャータ(善生、sujahta)という。あるいは10人の少女がおり、最も善い女性がスジャータだったという説もある。
 「諸女は、釈尊はすでに苦行を捨てておけるを知り、種々の飲食をつくって奉献せり。その後いまだ多くの日を経ざるに、色相は光悦なり」
 乳糜により気力を回復した釈尊は、直ちにブッダガヤの地に赴き、そこにある菩提樹のもとに静座、瞑想し、ついに「悟り」を開く。
 
 29才で出家、6~7年の修行を経た36才の釈尊は、悟りの境地に達する。佛教誕生の瞬間である。
 この佛教誕生のドラマの中での無垢な少女、スジャータの存在はキラリと光り輝いている。
 再び、CM、スジャータを思いかえす。
 「スジャータ」を、乳製品の商品名、ネーミングに採用された名古屋製酪株式会社様に敬意を表するとともに、益々のご発展をお祈りいたします。
 
参考リンク
「めいらくグループ」ホームページ http://www.sujahta.co.jp/
「スジャータ」CMソングのページ http://www.sujahta.co.jp/wse/cmsong.html
(二)乳製品をあらわす字・・・・・・醍醐、酪、酥(蘇
 昭和15、16年小学5、6年生になり、はじめて日本歴史を学んだ。鎌倉時代の末期、天皇家は南北朝に分かれ混乱する。ときの南朝は「後醍醐天皇」。子供心に、醍醐、ダイゴとはなんと難しい名前だなと不思議に思っていた。やや長じて「醍醐味」を耳にするようになる。例えば、「釣りの醍醐味を味わう」と使われ、ダイゴの真の意味への疑心は、いよいよ高まっていた。
 時が経つにつれ、醍醐とは、牛酪(バター)のまじり気のないもの、美味なこと、最高の味を意味するのだと理解できてきた。
 
 さらに佛典を繙くと、大般涅槃経に、
 「牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より熟酥を出し、熟酥より『醍醐』を出す。佛の教もまた同じ・・・・・・」
 とあり、牛乳からとった酪、酥(ソ)の精液、最もすぐれた味を醍醐と称し、さらに佛教の妙理、ひいては人格のすぐれた人への尊称となり、第60代の天皇は醍醐天皇(在位897~930年)、ついで、第96代は後醍醐天皇(在位1318~1339年)と称される。
 
 わが国に乳製品の製法が伝えられたのは、孝徳天皇(在位645~654年)の時代、シナの帰化人の善那が、牛乳をしぼり、これを天皇に献上し、「和薬使主(やまとくすしのおみ)」の姓を贈られたという。
 天武天皇は675年、牛・馬・・・等の肉を食べることを禁じたが、牛乳、乳製品はその対象外だったようで、その後も牛乳、乳製品は朝廷に献上され、朝廷も奨励しているが、栄養源としてよりもむしろ薬として貴重な存在だったのではなかろうか。
 
 醍醐はブランドものとして、別格として、当時の酪、酥が、現在、私たちが食べている、バター、チーズ、ヨーグルト、コンデンスミルク等のどれに相当するのか、調べてみるが、明確な説明が見あたらない。
 しかし、牛乳を服するときは、必ず煮沸していたようで、また煮つめることで、保存性を高めていたことは確かなようである。
 スジャータがお釈迦様に捧げた「乳糜」は、果たしてどんな乳製品だったのだろうか。
(三)食文化は・・・
 いずれにしろ、乳製品は肉食禁止の時代の貴重な栄養源で、奈良時代の絢爛たる佛教文化を築いた朝廷、僧侶、貴族階級の人々のエネルギーの礎だったのであろう。
 しかし、その後は肉食禁止の影響力が大きかったためか、農業が稲作中心に集約されたためか、稲作と牧畜が両立しなかったためか、乳製品を使った史料が約1,000年の間見あたらず、牛乳は忘れられてしまったようだ。
 この間、平安時代には唐風食の模倣、ついで武士階級の質素な食、道元にはじまる禅の食事、室町、安土・桃山時代には和食の型が整い、江戸時代へと進展し、明治維新以降、政府は、明治天皇の食卓に牛肉が並ぶような近代化を促進する。
 明治3年には、前田留吉という人が、国産牛20頭を飼育し、牛乳を搾りはじめ、牛乳の将来に目をつけた政財界人たちが、競って牛乳屋を経営した、と「近代日本食文化年表」は伝える。
 さらに第2次世界大戦後の食糧難の時代における、学校給食は、その後の日本の“食”に大きな影響を残していく。とくに、牛乳、乳製品においては・・・・・・。
 
 こうして、牛乳、乳製品の歴史を概観するとき、牛の肉食禁止にもかかわらず、一部、上級階級ではたしなまれていたが、やがて牛乳は消滅、約1,000年後の洋風化で再登場、戦後の学校給食で定着する。ひるがえってみると、その時どきの宗教、政治・経済の改革とかかわりあいながら今日に至っているようである。
 食文化とは、さまざまな社会現象の集大成されたもの、まさに“文化”なのである。食にたずさわるものとして、安全・安心とともに、人々の食への意識の変化に対応しつつ、より素晴らしい日本の食文化を醸成したいものである。
ゴータマ・ブッダ 釋尊傳 中村元 著 法蔵館
新・佛教辞典 中村元 監修 誠信書房
日本食生活史 渡辺実 著 吉川弘文館
近代日本文化年表 小菅桂子 著 雄山閣
食文化入門 石毛正道・鄭大聲 編 講談社