私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 平成21年3月31日。
  “さようなら六本松”
 九州大学の伊都キャンパスの移転に伴い、福岡市の六本松にあった九大教養部は、3月31日で閉鎖、伊都へ移転する。
 予定されていたと事はいえ、今を遡ること60年。憧れの「福岡高等学校(旧制)」に学んだ三春秋への郷愁が静かに沁み出てくる。 
 
さようなら六本松
戦前、戦後の教育制度の改革の狭間にあって、想う。
旧制福岡高等学校本館
(1922年竣工、九州大学大学文書館蔵)
(一)戦後の中学、・・・戦後、最初の入学試験
 昭和20年8月15日、戦乱は熄む。
 当時、旧制中学4年生、約1ヶ年に及ぶ、土木工事、大村海軍航空廠での学徒動員を終え、9月の第2学期から学業にもどった。
 当時15~16歳の少年だった私どもは、心身ともに成長期、情緒的には不安定な時期であったにもかかわらず、学校の雰囲気は、解放感に溢れ明るく、勉学にスポーツに明け暮れていた。
 徐々に落着きを取り戻す頃、戦時中の特例として中学は4年卒業になっていたが、昭和21年2月の文部省通達で、直ちに5年の卒業に改められた(希望者は4年卒業もできた)ので、そろそろ上級学校への進学を考えねばならなかった。
 とりあえず、“力試し”と、兄 潤一郎(現 傳兵衞)が福岡高等学校へ進んでいたこともあって、弟の私も福高へと軽い気持ちで受験勉強をはじめた。何しろ試験まで半年もない。しかも、1年余の動員のブランクは大きい。早速、兄の受験参考書(小野圭の英語等)を見つけ出し、一夜漬け的な短期間の猛勉に励んだ。
 ところが戦後の混乱は、行政、教育、すべてに及び、入学試験は3月にずれ込み、遅れがち。志願者は陸海軍の出身者、外地からの転入者、受験者等が重なり競争率は10数倍の難関だった。
 
(二)戦前の旧制中学、高等学校、帝国大学について
 ここで少し註書きすることをお許し願いたい。
 (旧制)高等学校について一言。その教育目的は別として、旧帝国大学の予備校的な教育機関として、旧制中学の4年修了、または5年卒業後、大学までの3年間に、外国語の習得、その他教養科目を学び、自由闊達な青春を謳歌している。
 戦前の帝国大学への入学定数は、旧制高等学校の卒業生を上回っていたので、高等学校に入学すれば、いずれかの帝国大学に入学でき、大学卒業後には官、学、民にあっても、いわゆるエリートとして指導的地位、幹部の地位が約束されていた。従って、高等学校への進学は、戦前の中学校生徒にあっては、憧憬の的だった。
 九州大学六本松地区の発祥は大正10年設立の福岡高等学校に遡る。戦後の学制政策で戦前の「九州帝国大学」は昭和22年に「帝国」を除き「九州大学」へ、さらに昭和24年に「新制の九州大学」へと変化するが、旧制高等学校は昭和25年3月で消滅したので、昭和24年は、六本松の校舎には新制の九州大学の教養部と、旧制の福岡高等学校が同居していた。「九州大学福岡高等学校」と称していたという。
 以上、旧制福岡高等学校(以下、福高という)と九州大学の接点はお解かり頂けたと思う。
 
(三)旧制福岡高等学校へ入学
 ふりかえって、昭和21年、福高入試を受けるが、志願者多数のため六本松と、西新の西南学院の校舎で行われた。
 入試の科目は、いわゆる英・数・国の他に物理、化学、社会と幅広く、ただ当時の社会情勢から歴史、地理はなかった。
 やはり、非常に緊張していたのだろう。ほとんどの科目の出題の内容やどう回答したかは、今なお記憶している。
 しかし、3月に試験だから、1ヶ月もしたら発表のはずだが、アメリカを中心としたGHQの方針で、陸海軍出身者の入学を制限せよとのことで、まとまらず、7月になって、漸く合格通知を受けた。従って入学は9月の第2学期からになった。その間、思う存分、自由の時間を満喫、ほとんどスポーツ、とくにバレーボールに熱中したように思う。
 幸運も手伝って、首尾よく、昭和21年9月、第2学期からあこがれの六本松、福岡高等学校文科2組丙類(第一外国語はフランス語)に入学する。甲類は英語、福高は戦前の乙類(ドイツ語)は、廃止され、丙類(フランス語)が復活されていた。因みに丁類はロシア語、戊類は中国語である。
 フランス語の先生は、中村義男先生でクラス担任も兼ねられた。戦後物資乏しい中に、フランス紳士らしい雰囲気だった。
 はじめて文章らしいことを教えてもらったのは
 “Je suis dans la maison.”
 私は、家の中にいます。――今でも想い出す。
 クラスは、総員40名(卒業したのは32名)。
 徐々に級友たちにうちとけていく。
 
福岡高等学校時代の私
白晢、紅顔の美少年?
 その顔ぶれは多士済々、陸士、海浜の猛者たち、中国満州、台湾等、外地からの帰国学徒、専門学校から、社会経験豊かなオッさんまで、まことに錚々たるメンバー。16歳の少年から23~24歳までと年齢幅は広く、個性豊かな集団であった。
 「高等学校にいくなら、寮に入らにゃー」との義兄の勧めもあり、窮乏の寮生活にも耐えながら、スポーツに熱中、3年の旧制高等学校特有の生活を満喫した。
 
旧制福岡高等学校文仏クラスコンパ(1948年)
まさに青春!
旧制福岡高等学校構内(1941年、九州大学大学文書館蔵)
白線帽に黒いマント、朴歯(ほうば)の下駄は、
旧制高校生の「3種の神器」、独特のファッションだった。
 
(四)教育基本法、学校教育法の成立 ― 旧制高等学校廃止へ
 こうして、高校生活を謳歌している頃にも、新しい教育制度への政策が、日米の関係者の間で着々と進められていた。その経緯は、今なお不透明なところがあるが、最終的には、昭和21年4月、日本側教育家委員会の公式意見として、
 (1) 旧制高校の廃止
 (2) 専門学校の大学昇格
 (3) すべての大学に大学院の設置
 (4) 6 - 3 - 3 - 4の単線構造とし、最初の9年間を義務教育とする
 がまとまったことにより、旧制高校は廃止、いわゆる6 - 3 - 3 - 4制が決定的となり、昭和22年3月、教育基本法、学校教育法が成立。
 昭和22年 4月から 新制中学
  〃 22年 4月から 新制高校
  〃 22年 4月から 新制大学
が発足、ここに、旧制の高等学校はあえなく消滅することになった。
 
(五)戦前・戦後の教育制度
 
 
(六)旧制高等学校から新制大学への経過措置
 かくして、新しい教育制度が決まり、旧制高校が廃止されたものの、その後経過措置はややこしい。
 その経緯を単純に図式すると別表のようになるが、昭和22、23年に入学した後輩たちは大変だった。特に昭和23年に入試を受け、入学した諸兄は1年後に新制大学に入るべく、再度入試を受けねばならず、気がかりだったことであろう。
 しかし、彼等は、旧制高校への憧憬もあったのか、志願者は例年より10%も多かった、というから、受験生にとっては、依然、魅力だったのだろう。すでに半世紀以上経過した現在でも、なおこのクラスは、九州、山口の高等学校(五、七、山口、佐賀、福岡)5校の合同同期会を、24(フヨウ)会と称し、年1回の忘年会、ゴルフ会を開き、親交を深めておられるというから驚く。
 
旧制高等学校の新制度、移行に伴う経過措置
※(1)・・・ 旧制高等学校が完全に消滅した日。昭和25年3月31日。
※(2)・・・ 点線の期間は旧制高等学校3年と新制大学1年が同居した年度。
昭和24年4月~昭和24年3月。
※(3)・・・ 新・旧の大学生が同時に卒業した。昭和28年3月。
※(4)・・・ 昭和23年度が、旧制高校、1、2、3学年が揃った最後の年。
 
 かくして、栄光の旧制高校の制度は、昭和25年3月31日をもって、完全に終焉した。
 戦後というショックのためか、旧制高校存続の声は安部能成、天野貞祐等が主張したものの、大勢の中ではか細く、大きな抵抗もなく、その廃止はすんなりと容認され、新制大学に教養学部として吸収され(例:第一高校は東大へ、第三高校は京大へ、福岡高校は九大へ)、または、第六高校のように中核となって岡山大学を立ち上げた。
 新制大学になっても、旧制高校時代の教授陣を引き継ぎ、教養課程として存続したので、いわゆる、旧制高校時代の教養主義的雰囲気は、引き継がれた様である。しかし、大学の数も増え、大学への進学率も高くなってくるとともに、旧制高校復活論も散発的ですぐ消え、今やその存在を知る人もなくなっている。
 
(七)旧制高等学校をどう評価するのか
 三浦朱門(旧制高知高校OB)は、旧制高校は「大日本帝國のぜいたく品」と評しているが、言い得て妙。
 また、「負けるとわかっている戦争を回避するための軍事学的知識や合理的計略の知力が、大正教養主義に浮かれた旧制高校のエリート知識人に欠落していた」という厳しい意見。
 「軍事、財閥は解体したのだ。学閥も同じだ」との冷めた考え方等々。
 さまざまな、旧制高校観があるようだ。
 
(八)学校制度の流れをたどりながら・・・
 戦前の高等学校―帝國大学から戦後、6 - 3 - 3 - 4制の新制大学の流れの中で、旧制の制度の末尾に位置している年代の者として、感じるのは旧制高校の教養主義、一方、弊衣破帽の中にひそむエリート意識等は、新制大学発足当初は、引き継がれていたようだった。昭和30年の前半頃までの大学生は角帽をかぶって、制服・襟章をつけていたが、30年の後半頃からほどんど角帽姿はなくなって、替ズボン着用、上着は制服 → 制服、製帽離れ → 学生らしさ離れ → 学歴、文化離れ、・・・女子学生の比率向上、昭和38年6月、舟木一夫の唄う“高校三年生”・・・・・・この頃から徐々に、旧制高校の文化(学生貴族)から新制高校的(大衆文化)なものへと進んでいき、東大紛争をピークとする激しい学園紛争により、旧制の教育制度が生んだ文化は完全に払拭されたようである。
 戦前、戦後の混乱期、学校制度変革の狭間(はざま)を体験したものにとって、戦前の帝国大学から新制大学へ、さらに、学園紛争をどう捉えるのか。まだ、私どもに与えられた宿題の明確な回答が出せないでいる。
 
 このコラムを書き終えながら、つい口ずさむのは、旧福高の寮歌“纏うに淡き”の一節だった。
   世紀は移るさらば今
   自治と自由のわが庭の
   友等よ立ちて凍えゆく
   隣人のため焚火せん
 
「青陵の泉」の像(2008年、九州大学大学文書館蔵)
“♪♪あゝ玄海の浪の華♪♪”・・・乱舞像
参考文献
 旧制高校物語 秦郁彦 著 文春新書
 日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折 竹内博 著 中央公論新社