私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 シルバーウィークのシルバーは、敬老の日を含むから、シルバーと思っていたら、ゴールデンウィークに対応してのシルバーでもあるようだ。
 連休、八十路に踏み込まんとする身には、秋の空気はやさしい。
 「秋思」、物寂しい思いにふける。
 今を去る65年前を想起すると戦時下に薫陶をうけた恩師の面影がうかぶ。
 
恩師 花摘先生を偲ぶ
花摘陸郎先生(昭和19年)
(一)唐津中学入学
 昭和16年12月、日本は第2次世界大戦に突入する。その翌年、昭和17年4月、私たちは佐賀県立唐津中学(旧制)の校門をくぐる。開戦からいまだ4ヶ月、国内は緊張感に溢れていた。
 私は1年3組、担任は平田戸司夫先生(コラム第68回「平田戸司夫先生に捧げる」参照)、隣の2組の担任が花摘陸郎先生だった。小柄だったが、キビキビした国漢の先生、鼻下のチョビヒゲが印象的だった。
 授業をうけたのは、漢文と日本語の文法。小学校卒業後の少年にとっては、漢字ばかりの文章は新鮮そのもの。好奇心をそそるので、丁寧な花摘先生の授業に惹かれ、日本語の文法では、主語と述語、名詞、動詞、形容詞、助詞等々分解して解説されるので、抵抗もなく吸収していった。
 学業とともに戦争たけなわとなるに従い、中学生は田植え、稲刈り等に泊り込んでの農作業の勤労奉仕、おかげで今思えば貴重な体験をさせてもらった。
(二)学徒動員
 中学3年、昭和19年になると、いよいよ逼迫。学徒動員令により唐津を離れて、8月11日(弟の命日:コラム第38回「ハウステンボス、九十九島~弟の死~」参照)、佐世保、海軍の施設部へ配属され、現在の針生島、鹿子前で炎熱のもと土木作業に従事した。そのとき以来、花摘先生、平田先生等には生活指導をうける。
 花摘、平田両先生は、「生徒を強く育てる方針で、労をねぎらったり、志気を鼓舞する意味で鉄拳を飛ばした。すまなかったな。それでも(少しは時間の余裕があったのだろう)、宿舎内で国漢、数学、化学などの勉強をさせた」と回想されている。
(三)海軍兵学校予科
 昭和19年、戦時色、いよいよ濃くなり、海軍の幹部養成のため、海軍兵学校に入校できるのを1年早め、中学3年から入学できる「予科制度」が新設された。
 その年の秋、募集があった。当時、若人達にとっては、憧れの海軍兵学校に入り、「お国のために、一身を捧げよう」という雰囲気に包まれていた。
 当然のように、ほとんどの友人たちは、この海軍兵学校予科(海兵78期生)に応募していた。
 
 こんな空気に、齢15才の少年の心は、微妙に揺れ動いていた。当時の宮島家の雰囲気、母の心情を思えば、許してもらえそうにない。性格的にも軍人には向かない・・・とは思いながら、何か“おくれをとる”と感じたのだろうか。海軍兵学校予科への入学と傾いていく。
(四)先生からの返事
 10数年前の唐津中学の同期会の席上のことだった。宴たけなわとなり、懐旧談に花を咲かせていた。
 突然、級友の落合君がこう言い出す。
 「デンチャン、予科兵学校の願書を君のお母さんに届けたとは僕バイ」
 突然なことでとまどう。あっそうだったのかと、驚く。
 それから記憶をたどってみる。
 恐らく、佐世保に学徒動員中だったので、途中帰省する落合君に頼んで、母に届けてもらったのだろう。
 昭和19年12月に、佐世保の動員は解除となり、唐津に帰ってきた。
 その前後に佐世保か唐津か、いずれかで、花摘先生に呼ばれた。
 「宮島君。海軍の予科兵は思いとどまりなさい」と言われる。
 素直に「ハイ」と答えた。
 そのとき、花摘先生が「宮島家のために・・・」と付け加えられたのか、私が「宮島家のためにならぬから・・・」と解釈したのかは、全く記憶にない。ただ、先生のひと言には、生徒の気持ちを察しての温かい愛情が伝わってきた。
 
 後日、成人してから考えてみるとき、花摘先生がひとりで判断され、断念しなさいと言われたのだろうか。当時、戦時下にあっては、むしろ奨励されるはずだが・・・、いや、母が花摘先生に「思いとどまるように、説得して下さい」と頼み込んだのだろうか。今は、母も、先生もすでに亡い。
 
 佐世保から唐津に帰って、昭和20年に入り、再び私ども中学3年生に学徒動員令が下り、一年先輩のクラスが頑張っていた大村第21海軍航空廠へ赴く。(コラム第26回「暑い日」・第52回「山瀬 終戦時の追憶」参照)
 そして、終戦。
 
(五)終戦後
 あわただしい世の中の動きに、私の予科兵のことで、母とも花摘先生とも、触れることなく、65年の歳月が流れていた。
 終戦後、昭和20年9月1日から復学し、再び花摘先生には漢文を習った。
 戦後の教育方針では、どんな教材を使ったらよいか、迷われたのか、今でいう「四字熟語」を面白おかしく、丹念に説明して頂いた。
 その中で思い出すのは、朝三暮四、鷸蚌(いつぼう)之争、漁夫之利、牛刀割鶏、鶏口牛後、・・・等々。
 おかげで、昭和21年7月、旧制福岡高等学校合格を報告に登校したとき、ことの外、喜んで頂いたことは、今なお脳裡に残っている。
 
 その後、花摘先生は、唐津中学から伊万里へ、さらに東京の桜美林高校へ、桜美林高校が甲子園に出場したとき、お祝いの電話をした思い出、その後、同期会にお招きしたが、日程の都合がつかず、長い間、ご無沙汰しているうちに訃報に接した。数ヵ月後、渋谷のご自宅を訪ね、御奥様におくやみを申し上げ、合掌。御冥福を祈った。
 数年前、御令息が、唐津地区の高校に御在職、定年退職されたとうかがい、数時間、懐旧談を交わすことができた。
 そのとき、不躾にも「『花摘』という姓は・・・』とお尋ねしたところ、「祖先は東北の方で、紅花の商(あきない)をしていたようですよ・・・、おかげで宴会では“花摘む野辺に・・・”ばかり歌わせられますよ・・・」と微苦笑された。
合掌