私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 私は、唐津市の西城内に住んでいる。私の家から数百メートルの西の浜辺に「国指定重要文化財・旧高取家住宅 旧高取邸」が平成19年に公開された。
 唐津神社、曳山会館とともに唐津を訪れる人々に、静かなブームとなり、すでに入場者数は17万人を数える。
 幼い頃から“高取さん”のことは耳にしており、またお客さんを案内したり、散歩したりして、旧高取邸に接する毎に、懐旧の念にかられる。
 
旧高取邸に想う
旧高取邸(佐賀県唐津市北城内)
(一)高取家と宮島
 私自身、貝島炭鉱に12年間勤務し、曽祖父、祖父は明治大正時代に炭鉱を経営し、叔父庚子郎は杵島炭鉱に勤めていたこともあって、石炭について関心を持ちつづけている。
 佐賀県出身の元国会議員 井手以誠氏が著された「佐賀県石炭史」を拾い読みしていたら、その中に、“戦争成金の大豪遊”と題して、次のように述べている。
 「くり返す炭界の好不況、戦争で浮き、その反動で沈む坑主たち、その中でも機を得て、巨利を博し、時に手荒く稼ぐものもあった。明治の安川は、藩士で儒者(商人)から、麻生多吉は庄屋から、貝島太郎は鶴嘴(ツルハシ)一本から石炭採掘に投じ、筑豊の“御三家”となった。杵島炭鉱の高取伊好は、炭坑の技術屋から身を興し(成功した)。しかし、大正の初め、杵島で手を拡げた借金に困り、遁(のが)れていた高取が、唐津町裏の料亭で、同じように身を隠していた“宮島傳兵衞”とパッタリ出会い、『お前もか』とお互い苦笑したという」
 
 私の曽祖父、七世宮島傳兵衞も、唐津炭田の石炭を採掘し、輸送、販売を手がけていたので、こんなエピソードもあったかも知れないが、私の身内のもの、父母等からきいたことはなく、本当にあったかどうか、いささか疑わしい。しかし、ひとたび“ヤマ”が当れば、巨万の富を獲得する・・・といった栄枯盛衰の激しさを物語るにふさわしい“話”ではある。
(二)唐津が誇る石炭王の格調高き館
 国の重要文化財、旧高取邸は、玄界灘の潮騒を背に、和風邸宅の中に西洋の様式をとり入れ、和洋渾然一体、新しい文化の香りを漂わせながら、北城内に佇んでいる。
 この高取邸は、佐賀県最大の炭鉱、杵島炭鉱主、高取伊好(これよし)の邸宅として建てられた。
 建てられたのは、明治28~29年、完成は同39年、約10年の歳月をかけて完成されているという。
 能舞台の裏側の杉戸絵。絵師は京都四条派、水野香圃、緻密な技術に見せられる。
 書斎、忙中にあっても、漢詩をつくり瞑想にふけっていたことだろう。 お茶室
 
 高取伊好(以下、伊好という)の半生をたどってみる。
 伊好は、嘉永3年(1850)、多久藩の儒臣、鶴田斌の三男として誕生、9歳のとき長姉の婚家先 高取大吉の養子となる。
 明治3年、21歳のとき上京、英語を学び、翌明治4年、慶応義塾に転校。明治5年、工部省所管鉱山寮に入り、鉱山学を修める。明治7年1月、鉱山寮を卒業し、国管の高島炭鉱に技師として赴任。学び終えた石炭採掘の技術を駆使し、高島炭鉱を優良炭鉱へと引き上げた。明治14年、高島炭鉱は国管から、三菱の岩崎弥太郎の所有となった後、伊好は明治15年、三菱を辞し、多久藩の親藩である鍋島家が経営する香焼島炭鉱の技術者を務めるが、これも三菱の手に移ったので退職する。
 
 徳川時代の炭鉱採掘は各藩が管理していた。明治維新後、明治政府は、これを統一、明治5年、鉱山心得を出し「鉱物はすべて政府の所有である」ことを明確にし、明治6年、日本鉱法を発布した。石炭採掘は願い出れば、借区した地域を掘ることができたので、石炭のエネルギーとしての将来性に期待し、一攫千金の夢を求めた人々は、熾烈な自由競争の世界に入る。しかも、第1回の好況は皮肉にも、明治10年西南の役、炭価は急騰する。
(三)唐津炭田の開拓に着手
 伊好は、このような時期に、長崎県の島々の炭鉱を離れ、郷里、多久に帰省。石炭採掘に関する知識、経験、技術をもって、唐津炭田の開発に着手することになる。
 伊好は、かねてから、唐津炭田を開発する意思をもっており、高島炭鉱以来の知人、竹内綱と意気投合し、明治18年、北波多村(現唐津市)芳ノ谷炭鉱を買収、自ら支配人となり、採掘を開始した。予想通り、翌19年には着炭、出炭と順調に伸びたので、諸設備を整えるべく、兵庫の資産家、魚住総左衛門、近江の外村宋治郎の出資を受け、伊好は現地の経営にあたる。
 しかしながら、明治24、5年頃から、一般経済界は大不況となり炭価は急落する。一方では、多数の従業員を抱え、将来のために設備を拡張せねばならず、経営は一挙に苦しくなり、石炭代金の前受けをしたりする等、資金繰りは悪化の一途を辿っていた。
 幸いに、明治27年、日清戦争が勃発するや、石炭の価格が急騰する。同年8月に、組織を固めるため、芳ノ谷炭鉱株式会社を設立、伊好は取締役として、専ら技術指導のほか、一切の事務を管掌、好況の中にあっても、気を緩めず、旧来の負債を返済、鉱区の拡張、設備の改良、搬出方法の改善、移送も河川から鉄道へと積極的に手をうっていく。
 この頃は、経営者として最も脂の乗り切った時期だったのではなかろうか。
 旧高取邸は、明治28、29年頃、着手したと言われているが、玄関を入って左側(西側)は、この芳ノ谷炭鉱の時代に建てられたのだろう。当時、多忙だった伊好の日常生活の憩の場だったのだろう。
(四)相知炭鉱の創業
 伊好は芳ノ谷炭鉱を経営しながら、石炭に対する多年の学理と経験から、相知(おうち)地区に着目、明治28年に相知村杉野にボーリングをはじめ、地下200尺に良炭脈を発見する。明治29年4月竪坑を開坑、11月に着炭する。しかし、本格的に出炭するには資金を要する。漸く、兵庫の柏木庄兵衛、前田浩右衛門、大阪の喜田伊兵衛の協力をえて合資会社を設立するも、トラブルがあり、難航し、漸く明治32年、兵庫の人を説得し、資本金12万円の相知炭鉱株式会社を設立し、さらに佐賀、唐津方面から50万円の資金を調達し、漸く出炭も増加した。
 しかし、明治33、34年頃、再び経済界は不況に遭遇し、炭価は下落、資金面は、3年分の石炭代金を前借して、つないでいくという苦境に遭遇していた。
 この頃、三菱会社唐津支店から、相知炭鉱を三菱に譲ってくれ、との“勧め”があり、伊好は、熟慮の末、「この相談に応ずる外に策なし、いやむしろ、これをもって賢明とすべし」と考え、これに応ずる。伊好は、相知炭鉱の出資者への返還、各方面への負債、従業員の手当等、56~57万円を要求したが、涙をのんで三菱の要求をわずか37万円で承諾する。
 ときに、明治33年(1900年)11月1日。
 
 伊好の相知炭鉱開発は、残念ながら徒労に帰したが、彼の炯眼に狂いはなく、三菱相知炭鉱は、その後、生産拡大、明治から大正にわたり、日本有数の炭鉱として活躍する。
 三菱相知炭鉱竪坑跡は、現在、三栄興産株式会社、本社前の広場に石碑が建てられている。
(五)杵島炭鉱設立
 相知炭鉱を売却し、負債の一部を返済した伊好の不撓不屈の気概は衰えず、縁あって、杵島郡の赤坂口・福母炭鉱を買収、幸いに両坑は、埋蔵量も豊富、炭質も良好との条件に恵まれ、伊好も漸く、その前途に愁眉を開くことになる。
 明治36年、第5回の内国勧業博覧会に両坑の石炭は2等に入賞する。
 翌明治37年2月、日露戦争勃発、同38年9月日露講和条約成立、炭価も日々に高騰、経済界の石炭の需要も増加、後日「高取鉱業の今日在るは、この時に胚胎する」と云わしめる。
 
高取伊好関係 炭鉱位置図
 
 その後は、明治38年に、芳ノ谷炭鉱を竹内綱に譲渡。赤坂口・福母炭鉱に引き続き、明治42年までに杵島炭鉱全区を買収する。ここにおいて、高取家の石炭鉱業は、その基礎を固め、明治、大正、昭和と佐賀県石炭業界トップの座を守ることになる。
 
 再び筆を旧高取邸にもどす。
 高取邸は、明治28、29年頃に建てはじめ、明治39年頃に完成したというのが通説である。
 高取伊好の足跡をたどると、芳ノ谷炭鉱が軌道にのりかかった頃、着工し、高取邸を訪れた人々が最も印象が残る「能舞台」は、彼が相知炭鉱を三菱に譲り、赤坂口・福母両坑を得て、日露戦争の好景気にのり、その前途に光明を見い出した頃に完成したのだろう。
 座敷に組み込まれた能舞台、漢詩と能を好んだ伊好は、お客さんを招待していた。
 
 さて、冒頭の高取伊好と宮島傳兵衞の料亭での出会いは、もし事実としたらいつ頃だろう。
 お互いに資金繰りに苦しめられた頃なら、「大正初め」ではない、明治の20年代頃だろうか。
 宮島家の七世傳兵衞は、嘉永3年(1850年)に生まれ、伊好とほぼ同年代。傳兵衞は、石炭の採掘はあまりしていないが、販売と移送(松浦川を舟で松浦川口まで運ぶ仕事、川下し)を業としたことがあるので、盃をかわしたことはあるだろう。七世傳兵衞とは、直接の商売上の接点は見あたらない。
 
 高取邸を見学する度に、高取伊好の一生が思い出される。浮沈の激しい石炭業界にあってのさまざまな辛酸をなめた後の成功は、不撓不屈の精神、先見の明、多くの人たちに支えられたのも、漢学の素養に裏打ちされた人間性がもたらしたものだろう。また、伊好は「開物成務」を旨とし、その得たる利益を一方では社会貢献する。明治34年、唐津小学校へ寄贈したことにはじまり、とくに教育関係、産業振興、義捐金等、昭和2年までの27年余に、その総額は200万円を超える。
 伊好はこの邸宅を完成させた後、杵島炭鉱は大正初めの第一次世界大戦に伴う好景気、不況、昭和初期の不況、第二次世界大戦―敗戦、戦後の混乱期を乗り切ったものの、エネルギー革命に抗しえず、昭和33年、住友鉱業の手に移り、昭和44年閉山。高取伊好の開坑以来60年の歴史を閉じる。
 ある建築関係の先生が「住居は、その人の人間性の表現だ」といわれたことを思い起こしながら、この稿を終わる。
参考文献
石炭研究資料叢書 1984.3 No.5 高取伊好翁伝(稿本)
  九州大学石炭資料センター
佐賀県石炭史 井手以誠著
石炭史話 朝日新聞西部本社編
日本の洋館第2巻 明治編 藤森照信、増田彰久 講談社
 
写真協力
旧高取邸 唐津市教育委員会文化課
 
高取伊好についてはこちらもご覧ください。
「去華就実」と郷土の先覚者たち
 「第15回 高取伊好 (上)」 ・ 「第16回高取伊好 (下)」