私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 NHKスペシャルドラマ“坂の上の雲”は、秋山真之、正岡子規の交友を芯に、舞台はまわっていく。やがては日清戦争、日露戦争と進むことだろう。
 司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでいくと、唐津藩主の嗣子、小笠原長生と秋山真之の交友関係を思い出した。
 
「坂の上の雲」、秋山真之と小笠原長生
 
(一)日本海海戦
 明治38年5月27日、午後1時55分、「皇國ノ興廃、此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」。
 四色のZ旗が、旗艦三笠のマストに揚がる。「天気晴朗ナレド浪高シ」。日本海にロシア帝国の威信をかけたバルチック艦隊を、日本の命運をかけた連合艦隊が迎え撃つ。  
Z旗
 南下する東郷元帥の連合艦隊、北進してくるバルチック大艦隊。両者は、沖ノ島西方で遭遇、すでに彼我の距離8千メートル。艦橋に立つ東郷の右手が上がり、左にむかって 半円を描く。
 「取舵一杯 ―― 」
 旗艦三笠は左へ大きく傾き左に旋回する。後続する各艦は、三笠が左折した地点に来ると、糸を引くかの如く続き、敵の進行に立ちはだかる形になる。「丁(T)字戦法」、大胆不敵である。敵はもちろん砲撃してくる。しかし、東郷は隠忍自重すること15分。午後2時10分、三笠以下主力艦隊が左折を終了するや否や、ロシアの旗艦を目がけ一斉に“砲撃開始”。集中砲火を浴びせる。ここに海戦史上に残る日本海海戦の火蓋が開かれる。
 そして、この先制パンチが敵をたじろがせ、世界戦史上、未曾有の大勝利を導く。
  
日本海海戦開始の際の
日本とロシアの主力艦隊の位置
(二)中古の水軍
 唐津藩主、小笠原長國の嗣子、小笠原長生を語るのに、「このT字戦法」からはじめたい。
 この大海戦が勝利をおさめたのは、勿論、東郷大将(当時)の卓越した指揮能力はいわずもがなだが、一方、名参謀、秋山真之の深謀遠慮によるところ頗る大、といわれている。
 
 秋山が海軍兵学校卒業後、外国勤務を経て、常備艦隊参謀を拝命したのは、明治33年である。爾来、彼はロシアを仮想敵国として、古今東西の戦略論、孫子、呉氏から山鹿流軍書までの兵法書を読破するが、満足できない。
 たまたま、胃腸をこわし入院したとき、小笠原長生をがお見舞いにいくと、
 「あなたの家に、海賊戦法の本はないか」と尋ねる。
 小笠原は家に帰り、旧家臣をたずねて珍しい本を探し出す。
 「能島流海賊古法」という瀬戸内の海賊、能島村上水軍の兵法書である。秋山は後日、小笠原に、
 「この本を読み、眼がひらかれた。とくに『全力を挙げて敵の分力を撃つ』というところに感銘した」と語り、これが大海戦の作戦の基幹となっていく。
(司馬遼太郎 坂の上の雲より要約・抜粋)
 
 小笠原が築地の海軍兵学校に入校したのが明治17年、秋山はおくれて明治19年、少なくとも1年間は同窓にあり、切磋琢磨、親交を深めたとも思われる。日露、風雲急を告げる明治37年、連合艦隊司令長官 大将 東郷平八郎のもと、小笠原は海軍軍令部参謀、秋山は連合艦隊参謀として、ともにロシア艦隊との決戦を予測し、その対策に心血を注ぎ、かの大海戦を勝利に導いたことになる。
秋山真之
国立国会図書館ウェブサイトより
小笠原長生
日清戦争、少尉候補生時代
(三)軍神、皇室
 大海戦では、軍令部にあってブレーンとして活躍した小笠原は、文筆にも長じ、日清戦争史の編纂をはじめ日露戦争海軍武功調査会等を命じられている。この前後から、親炙していた東郷平八郎への敬慕の念、いよいよ募り、東郷もまた小笠原を信頼し、大正15年小笠原の生涯の力作「東郷平八郎詳傳」を著し、師弟の絆はますます堅くなる。
 また、小笠原の深奥なる学識、温厚な人格は、当時の学習院院長乃木大将の眼にとまり、明治44年、請われて学習院御用掛の要職につき、爾来、当時の皇太子(昭和天皇)の養育にあたる。
 
東郷平八郎
国立国会図書館ウェブサイトより
 乃木大将は、明治天皇御大葬の日に殉死するが、自刃の机上には小笠原長生宛てに「・・・・・・皇室のため学習院今後の成立上、御尽力をお願いする」と後事を託する旨の遺書が置かれていたほどの信任をえていた。
 明治の陸海の両軍神に仕えることは稀有のことでり、その恩寵を受けていた小笠原の人格識見の程がうかがえる。
 東宮(昭和天皇)の学習院御卒業後は、大正3年に東宮御学問所が開所し、東郷平八郎が総裁、小笠原長生が幹事を仰せつかり、続いて宮中顧問官と、もっぱら皇室のお世話に終始され、大正10年に閉鎖に至るまでの6年余、東郷と小笠原の緊密な関係は強化される。
 しかし、昭和20年、敗戦とともに、多年忠勤を励まれた宮中顧問官の制度は廃止され、小笠原は追放となり隠栖の地を、伊豆、長岡にもとめ、悠々自適、風月を友とし、文人墨客との交歓の中に余生を送られていた。
 昭和29年、敗戦の痛手もやわらぐ頃、昭和天皇は長岡まで行幸され、小笠原に長年の御辛労に感謝の御言葉をかけられる。彼の生涯にあって最大の感激にひたったことだろう。その4年後、昭和33年秋、卒。92歳。
(四)数奇な幼少時代
 日露戦争後の小笠原の生涯をたどったが、彼は数奇な幼少時代を送っている。
 徳川15代将軍、徳川慶喜が大政奉還した慶応3年、小笠原長生は、唐津藩主、小笠原長国の世子、小笠原長行を父とし、儒者松田迂仙の末女、美和を母として出生する。当時、父長行は老中の要職にあり、徳川幕府の前途を憂い、時代の趨勢を予見、長生の前途を案じ、長行は、生母美和に対し、「分娩したら男女を問わず、出生の翌日より、他家へ養わせよ」と宣告した。「せめて七夜までは」と懇願する母へ「七夜まで手許におけばひと月・・・と情がうつる。ならぬ」と拒否する。
 かくて小笠原は、下総佐倉の藤倉玄周なる人へ極秘裏に預けられ、名前も捨丸から捨蔵と改め、6歳まで他人の手に育てられる。この悲運に対し、小笠原は「この一事は父の私に対する大愛である」と回顧している。
 徳川の老中を辞任した、父長行は、北海道に落ち、あるいは外国へ逃亡したと称して行方をくらましていたが、やや落着きを取り戻した明治5年、許されて東京に戻り、小笠原は、はじめて公然と父母の慈愛の許で成長期を迎える。時に6歳である。
 そして、正式に明治6年小笠原家の後嗣となり、長生と称し、従五位に叙せられるとともに、文武両道、蛍雪の苦を積み、明治17年に子爵を授かった。同時に海軍兵学校に入学、海軍大学を経て晴れて海軍軍人としての途を歩み、日清戦争では黄海海戦に参加し、小学読本「水兵の母」のモデルとなる等の活躍の後、日本海海戦に臨むことになる。
(五)東郷平八郎と小笠原長生への評価
 思えば、日本海海戦の奇跡的勝利から、すでに一世紀を超えた現在、その事実認識、歴史的評価は、第2次世界大戦後、大きく変化するのは当然であり、東郷平八郎と小笠原の関係も後世の史家の間で検討されている。
 
 今から10年前の1999年7月20日に、奇しくも、2冊の本が発刊されている。
  講談社現代新書「日本海海戦の真実」 野村實 著
  ちくま新書「東郷平八郎」 田中宏巳 著
 明治天皇に奉呈された「極秘明治37、38年海戦史」が、戦後30数年を経て、皇居内から発見され、防衛庁に移管された。講談社の「日本海海戦の真実」は、この史料をもとに、バルチック艦隊と遭遇するまでの連合艦隊内部の動揺、大本営の対応、さらに「丁字戦法」は、必ずしも参謀秋山真之のみの発想ではなくまた、東郷の決断にも疑問がある等々、その真相が研究されている。
 ちくま新書の「東郷平八郎」では、「東郷が日本海海戦の凱旋将軍として名声が高まり、聖将と呼ばれ、“神格化”されていく。これは、小笠原の文筆の力であり、これに加うるに、新聞、雑誌、マスコミの発達がこの神格化への風潮を助長した」と主張されている。また、「寡黙の提督」と言われた東郷と一心同体だった小笠原の政治的活動ぶりにもかなりの紙幅を費やされている。
 
 今、私の手許に当時のベストセラー(?)だったであろう、大正15年刊「東郷元帥詳傳」、昭和5年刊「撃滅」の2冊がある。
 
   
東郷元帥詳傳     撃滅
 
 拾い読みすれば、漢文調の美辞麗句が散りばめられ、さぞかし、当時の国民の共感を呼んだことだろう。
(六)チョウセイさん
 小笠原長生は、私たち郷土の唐津藩主、小笠原家の嗣子として、唐津の人からは、敬意を表して「長生様」、私の母は生家が藩医のせいもあろうが、親しみを込めて、「チョウセイさん」と呼んでいた。
 昭和15、16年だったろうか、私は小学校5、6年生。すでに日支事変は勃発、世界の情勢は急を告げんとする頃、唐津神社前の武徳殿(今の曳山会館)で、長生様の温顔に接し、時局講演を聴いた記憶が蘇ってくる。
 すでに過去の人、歴史上の人物になった長生だが、今なお、私の会社の応接室には、「去華就実」の長生の書が、堅実な経営に徹せよ、と無言の教訓を垂れている。
「去華就実」  為宮島大人 小笠原長生書
 
 また、唐津市民の家々には、なお数多く、その流麗、雄渾な書を見うける。そのひとつひとつに慶応、明治、大正、昭和の疾風怒濤の歴史の中を生き抜いた、小笠原長生の生涯を偲びつつ、一方では、日本海海戦、日露戦争の勝利がもたらしたであろう国家主義への途へと歩んだ日本の歴史をもう一度噛みしめている。
参考文献
坂の上の雲 司馬遼太郎 著 文春文庫
日本海海戦の真実 野村實 著 講談社現代新書
東郷平八郎 田中宏巳 著 ちくま新書
小笠原長生と其随筆 原清 編纂 小笠原長生公九十歳祝賀記念刊行会
撃滅 日本海海戦秘史 小笠原長生 著 実業之日本社
東郷元帥詳傳 小笠原長生 編著 忠誠堂