私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
  会長コラムへようこそ。

 宮島家、中興の祖、七世傳兵衞の活躍は、唐津炭田の石炭を売り出すことにはじまっている。ところで、この石炭をどうして運んだのか、不明なところが多かったが、古い新聞記事の切抜帳から、その一端をのぞくことができた。
 
石炭・醤油の物流 ~明治から大正へ~
(一)七世宮島傳兵衞、古稀のお祝い、「七寿丸」
 宮島本宅が伝える写真集の中に、この「七寿丸」の写真がある。七世宮島傳兵衞の古稀(70歳のお祝い)は大正6年だから、当時、国内の移送は帆船だったのである。
 ひと月ほど前、従弟が「父(私にとっては叔父庚子郎)の書類の中にあったよ」と大正時代の新聞の切抜帳を持って来てくれた。その中に「七寿丸新造祝宴」の見出しの西海新聞(?)記事がある。
 記事を要約すると、
 「宮島合資会社が一萬金を投じ、今春来天草鬼池港赤松定松氏監督の下、新造中の西洋型帆船七寿丸が、その工を終え、回航。去る26日、午前10時、無事唐津東港(満島)に入津。宮島石炭商店(舞鶴公園下)前に、其の雄姿を横たえている。これ確かに宮島家の誇りがひとつ増したことであろう。
 社主宮島父子(七世宮島傳兵衞と徳太郎)はその慶びをともにすべく、平素親交厚き紳士、石炭船舶同業者60余名を28日、満船飾した同船上甲板に招き盛宴を催した。・・・(盛会の状況説明)・・・。黄昏、電燈光輝くまでの歓会であった。
 因みに同船の長さ70尺、幅27尺、屹水は11尺、屯数150t、3本帆檣(マスト)、乗組員は船長沖中寅一、以下7名。初荷は松尾谷石炭50萬斤を満載の上、尾張名古屋に回漕するとのこと。彼女よ(七寿丸よ)、長しへに祝福多かれ」
 と七寿丸とそのお祝いの状況を伝えている。
(二)石炭の販売と水運
 七世傳兵衞は幼にして、魚類商と飲食店の富田屋を継ぐが、これに甘んずることなく、石炭商その他をはじめる。
 しかし、石炭を採掘することよりも、その石炭を販売することの方に関心があったようである。
 徳川末期から明治維新を経て、明治6年、日本坑法が発布され、条件付きながら漸く唐津炭田の石炭採掘が認められた。
 徳川末期から明治初期の石炭輸送の流れをみると、輸送経緯は次の4段階になる。
 (1)切羽(採掘現場)から坑口へ
 (2)坑口から土場(川端積場)へ・・・・・・大八車
 (3)土場から河口積出港(唐津満島)へ・・・・・・ひらた舟
 (4)河口積出港から需要先まで・・・・・・大型帆船、蒸気船
(三)七世傳兵衞の石炭販売
 七世傳兵衞は石炭を販売するのに最終段階の(4)への進出を試みた。明治元年に兵庫、阪神へ、長崎へ。明治7年には、東京へ。この間、住栄丸(リースか?)、住福丸、富運丸を購入している。さらに、大量輸送を目論んだのか、住福丸、富運丸を売却し、大型船の大麻丸を買い求める。この大麻丸を修理した後、明治10年に石炭を満載、品川着。たまたま、西南の戦役がはじまり、大いに利益を得るが、帰路、遠州灘にて、遭難、挫折する。
 このリスクを乗り越えるべく、唐津での営業は、醤油醸造業をはじめる。一方、石炭の輸送業は、帆船による関西関係への移出を残しつつ、(3)の川下しへと重点を移し、成功することになる。
 
 石炭産業は「輸送産業」といわれる。
 そのためにはいかに経費を削減するかが問題であった。
 七世傳兵衞が川下し業をはじめたのは、明治13年。現在、宮島商店における川下し業の実態はほとんど不明であるが、西海新聞(大正6年頃か)に宮島商店の20年以上の功労者のうち、次の3名の人物評が掲載されているので、紹介する。
 
1.高木元治氏
 愛媛県越智郡出身、明治10年1月、高木氏28歳の時、志を立て、唐津に来たり、宮島商店に入社。石炭運搬船水夫を務め、宮島商店が石炭部を設立した明治24年には、水夫長へ、さらに大正元年10月には、段平船水夫取締役となり、大正の初期に活躍されている。
 なお、氏の長男、高木利吉氏も、明治32年に入社、七世傳兵衞の信頼厚く、大正初期には、全店会計部長を務められる。
 高木利吉氏は、七世傳兵衞、徳太郎、八世傳兵衞、そして第二次世界大戦前中後には現相談役の傳兵衞の4代の社長のもとで、宮島の基礎を堅められた功労者である。
 私たちも幼少の頃から、可愛がってくださった記憶は今なお懐かしい。
 
2.橋本梅吉氏
 橋本氏は、徳島県杉野郡撫養町に明治6年に生まれ、明治27年に唐津に来て段平船水夫を務め、大正元年には水夫長となり、宮島商店のため尽くされた。
 氏は明治38年日露戦争、旅順開城に先立つこと3時間。敵軍のために重傷を受け、乃木将軍より感状を受け、戦後勲8等を受賞。
 足の不自由にも関わらず、努力された。
 なお、梅吉氏の奥様は、高木元治氏の長女にあたる。
 
3.村尾杢郎氏
 氏は明治9年、愛媛県新位郡多喜浜村生まれ。明治29年、20歳の時、帆走丸という帆船に乗り組み、内地沿岸を航行中、唐津に寄港、脚気のため、下船。世話する人があり、宮島商店に入社。段平船の水夫となり、宮島商店のため、忠勤を励み、水夫小頭となり、勤続20年(大正6年現在)となる。快活にして頓智に富み、人に愛される。
 明治初期の唐津炭田の出炭は、徐々に増加し、上荷輸送は明治27、28年が最高で、上荷船(段平船、ひらた舟)は、その数1,700~1,800という。その中で宮島商店の所有がどれだけあったかは不明だが、徐々に増加し、明治21年に「造船所設立す、理由川下石炭益々盛大になるにしたがい、造船所必要且利益と見るより」と自伝に書いているから、相当盛んだったようだ。。
 一方、石炭の輸送にあたっては税金がかかっていたので、抜荷等の不正もあり、その取締も強化されていたという。川下しは急流を下るのだから、多数の水夫を抱え、技術と体力を要するし、現代風にいえば、労働管理も経営上の問題であったことだろう。
 その中にあって、上記3名の方々には、20年以上の永年勤続者、誠実な方だったであろうと敬意をもって、資料を読んでいた。
 
 宮島家の事業もかなり伸長していた明治30年頃に、「宮島家々憲」が検討されたらしく、その草案が残されている。
 その内容は精神的な家訓、一族の結束の規定、営業上の決算の処理統括等々が決められている。
 当時の営業部(事業内容)は、石炭部、醤油部、雑貨部、倉庫部の4部。それぞれの部の決算利益金の処理が決められており、石炭部は積立金滞借準備金(貸倒準備金)、水夫準備金、船舶準備金として積み立てることを定めている。このことから石炭輸送には船舶と同様に“水夫”の確保がいかに重要な要素となっていたかがうかがわれる。
 
(四)松浦川水運と鉄道輸送(現在の唐津線)
 ひらた舟の水運に頼っていた石炭輸送も、明治20年頃から鉄道輸送への声があがり、現在の唐津線が完全に開通するのが、明治45年。従って、大正中期頃までは「川下し」と鉄道が共存していたようである。
 傳兵衞は唐津興業鉄道株式会社へ積極的に投資した形跡はないが、明治28年頃には、株主に名を連ねているので、いずれは川下しが鉄道に代わることを十分に承知していたであろう。
 この七寿丸の就航が大正6年である。その当時までの国内の輸送はまだ帆船が中心だったのだろう。
 また、古稀のお祝いの新聞記事には、「当時、宮島傳兵衞は明治になり石炭の将来を見こし、石炭採掘、販売を試み成功し、古稀(70歳)に至り、明治15年にはじめて、醤油の生産高も年内1万石を超え、清酒も■(不明)千500石、船舶業、雑貨等を取扱い・・・・・・」とあり、長崎、伊万里、戸畑、直方と支店を開設できたのもこの水運業の力が基盤となっていたからだろうと考えられる。
 明治から大正の宮島醤油における物流の変化をたどるうちに社会の構造の変化に対応して頂いた先人の先見の明に驚かされる。
参考文献
「石炭産業の史的展開」 坪内安衛 著 文献出版
「唐津炭田の輸送体系の近代化-唐津興業鉄道株式会社の成立と石炭輸送-」 東定宣昌 著