私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。

 長い寒い冬、如月から弥生へ、春が待たれます。
 明治から大正時代の日本の醤油業界の中で、創業者七世宮島傳兵衞は、どう活躍して、今日の基礎を築いていったのでしょうか。先月に引きつづき考えます。
 
明治・大正時代の醤油業界と宮島醤油(二)
(四)明治・大正時代の醤油業(先月号に引きつづき)
 前月のコラムに述べたように、明治18年から、醤油に課税が行われる。つまり、醤油業界は大蔵省の管轄下におかれることになる。
 例えば、醤油業者は各自の商標登記を求められ、あるいは農商務省の指示により、各地に協同組合の結成を促され、明治20年には、東京醤油問屋組合が設立されている、等々。
 明治22年頃の東京市場は供給過剰により、製品安、原料高に苦しんでいたが、1府6県の醤油醸造組合と上記問屋組合とが共同して市場を調整し、この危機を乗り切ったこともあった。
 明治中期以降は、消費のバランスも自然に調整され、工場設備、科学的研究、機械の応用(ボイラー導入)、大蔵省醸造試験所(明治37年)の設立、各税務署主催の品評会など大蔵省の指導があり、また、日清、日露両戦後の景気もあって、業界はその基礎を固めていく。しかしながら、依然として、家内工業の域を脱することはできなかったようである。
 大正に入り、大正3年、第1次世界大戦が勃発し、大正7年アメリカの参戦により、漸く、同年11月、停戦となる。
 この間、戦争の圏外にあって、主に物資補給にたずさわっていた日本の経済は大きな影響を受けた。日本の食品業界は製粉 、ビール、食用油等々、この期間中に工場の設備、技術等を外国に学び、発展した。
 この中にあって、醤油業界は開戦当時は原料高、製品安に悩まされたが、大戦終息後の大正7、8年のインフレ、消費増加、あるいは仮需要が重なり一挙に活気を呈する。
 と同時に大正3年銚子、大正6年野田において個人経営の業者が合同し、会社組織となり、近代的な経営が確立する。御存知のように大正6年10月19日には茂木、高梨一族の合同による「野田醤油株式会社」が設立され、今日のキッコーマンの基礎ができた。
(五)醤油生産業の推移
 明治18年醤油税法の制定以降の生産石(こく)数を掲載する。
生産石数:「『醤油読本』深井吉兵衛著」より
日本の人口:総務省統計局資料より
[註]
1.明治18年より大正14年までの税法施行期間は一応、業者による生産の確実な石数ということができる。
2.明治18年より昭和7年の石数は、諸味(もろみ)なので約20%増が醤油の生産数とみなされる。
 
上記の表からみると、
日清戦争後の明治29~32年
日露戦争後の明治41~42年
第一次世界大戦後の大正8年前後、
この3時期における飛躍的増加が注目される。
 とくに、大正3年から13年までの10年間は、人口の13%増に対し、醤油諸味の生産石数の約50%増は、人口増のほかに国民の生活水準の向上を示していると思われる。
(五)そのころの宮島商店醤油部
 明治15年、傳兵衞は醤油醸造業を始める。当時は資金難だったのだろう。頼母子講(たのもしこう)で600円を調達。庫蔵(くら)の用道具は、休業道具を買い入れて発足する。仕込み高は180石(32,400リットル)、3年後の明治18年(醤油税制発布)には倉庫1棟を新築、その後、年とともに造石高は増える。しかし、明治19年に不幸にして、麹(こうじ)室より出火、麹室、倉庫を消失する。直ちにその翌日から復旧に着手、23日間で麹室、倉庫を完成。老後の思い出話として、その奮闘ぶりを孫たちに自慢していたとのこと。当時としては後発メーカーの宮島醤油だが、その後の売り上げ増、醤油業の将来には自信満々だったことを物語る逸話である。
 その後の醤油の販売高は日清、日露戦後毎の好景気、生活水準の向上に乗り、石炭の取引にともなう人脈、財務を活用しながら販売量と地域を拡大していく。
 ところが、醤油の販売数量を示す資料は社内には残っていないので、数量に関しては、いろいろの資料から推測するしかない。
 宮島商店は、明治36年に醤油部を作り、明治41年に現在の船宮本社工場を設けた。明治41年に伊万里支店、同43年に長崎支店、大正3年に戸畑支店と直方支店を拡張した。これらの支店は、それぞれの港に接しており、傳兵衞が得意とした海上輸送によって着実に販路を拡張していったのだろう。
 明治43年の税務統計、唐津地区の醤油製造区分表によると、2,000石の工場が1工場あり、これが宮島醤油であれば、明治43年に2,000石を超えていたことになる。また、大正6年には、約10,000石(1,800キロリットル)に達している。(大正6年、西海新聞より)
(七)宮島商店醤油部主任、福井実太郎氏、当時の生産技術
 明治15年の創業以来、生産石数は増加の一途をたどっていくが、その製造技術、工場の管理手法は、いかにして修得していったのだろうか。つねづね疑問に思っていたところ、西海新聞(大正4年?)に宮島商店の20年以上の永年勤続者として、「福井実太郎氏」が紹介されていた。

 「福井実太郎氏は、七世傳兵衞に嫁いだ福井ギン氏の甥にあたり、明治12年8月28日生まれ、7歳のときから、宮島傳兵衞に養われ、長じては宮島商店に勤める。
福井実太郎氏
 博多古小路町大山典四郎店に2年出張。さらに、兵庫県西宮の辰馬吉上門方(現在の白鹿酒造)にて酒造方法を研究後、帰唐する。さらに、福井実太郎に期待する傳兵衞から醤油醸造研究のため、千葉県銚子町深井吉兵衛方に出張すること1年余、そして、宮島商店に帰る。こうして、清酒、醤油の製造の現場を体験、豊富な知識をもって帰唐した福井実太郎氏を傳兵衞は直ちに醤油部の主任に任命する。今日宮島の酒、醤油の品質の向上に努め、名声をあげる」
 
 このように福井実太郎氏は、数年間、博多、西宮、銚子で清酒、醤油の製造技術の習得に専念されている。
 傳兵衞は明治30年に舞鶴酒造株式会社を買収している。福井氏がそれより以前に清酒製造技術の勉強のために出張していたとすれば、傳兵衞は以前から酒造部門への進出を志していたのではないだろうか。
 福井氏は、西宮から帰唐すると、直ちに銚子の蔵元のひとつ、「深井吉兵衛」へ出張を命じられ、1年間の修行に励まれる。考えてみると、まことに厳しい人事ではある。しかし、傳兵衞としては醤油業の将来には品質向上、生産の合理化が不可欠だと考えての決断だったのだろう。千葉県の野田、銚子は徳川時代から大消費地、江戸を背景に発達し、多数の醤油業者が競い合い、それぞれの秘法をもっていた。その習得に向かわせたのだろう。
(八)宮島醤油の基礎確立
 このように、福井氏は明治34年、清酒・醤油の生産技術をして、帰唐。その後、宮島商店醤油部主任として、その豊富な知識と貴重な体験を生かし活躍されることになる。
 明治に入り、徐々に発展してきた醤油業界は、日露戦争、第1次世界大戦の好況により飛躍的に伸長する。明治中期から大正にかけ、消費量は伸びつつも競争が激しかった時期に、福井氏はその力量を発揮され、今日の宮島醤油の基礎を築かれた。
 あらためて、傳兵衞の将来を見通した人材育成の炯眼に感心させられる。
 
 こうして筆をすすめていくと、私も幼いころから福井氏のことを耳にし、福井の“コトヲおばさん”から可愛がってもらった記憶が蘇ってくる。福井実太郎氏のイメージとしては、勤勉、実直、七世傳兵衞への信頼感等々であったが、、技術者としての手腕をもっておられたことを知り、あらためて敬服し、このような先人たちの努力があってこそ、宮島醤油の今日があることを肝に銘じている。
 
 福井実太郎氏が研修していた、銚子の「深井吉兵衛」は、大正3年、浜口家(浜口吉兵衛)、田中家(12代、13代の田中玄蕃)、深井家(深井吉兵衛・カギダイ)の醤油醸造元が合同して「銚子醤油合資会社」を設立した時の一員である。
 私がこの「コラム」を書くにあたり、そのほとんどを「『醤油読本』 深井吉兵衛著 有明書房 1956年発行」から引用させて頂きました。
 今を去る120年余、宮島醤油から福井実太郎が深井家に学び、現在、このコラムを深井吉兵衛氏(深井家の当主・15代であると思われる。)の著作を参考にしつつ、したためている。その奇遇に驚きつつ、謝意を表するものであります。ありがとうございました。