私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。
いよいよ夏、7月。久しぶりに大相撲7月場所が開かれる。
 もの心ついたら、すでに大相撲ファンだった私にとって、野球賭博、八百長問題等々、組織の存亡さえ危ぶまれる大問題に一喜一憂した。
 3月場所は前代未聞の中止、5月場所は技量審査場所と称して異例。やっと7月の名古屋場所から再スタートの場所になる。
 まさにファンにとっては“注目”の場所である。
 
昭和初期の大相撲は時代とともに どん底から黄金期へ・・・
(一)追憶
 昭和10年頃、当時、私は5歳頃だったろう。
 唐津に関西相撲がくるからと見物に連れていってもらった。
 かすかな記憶をたどると、場所は現在の唐津栄町の埋め立てた広っぱ。
 「デンチャン、あれが“天龍”だよ」と教えられた力士は、大銀杏の髷ではなく、断髪だった。子供心に不思議に思えてならなかった。
 長ずるに従い、“天龍”という力士に関心を寄せることになる。第2次世界大戦後、天龍は、民放のラジオの相撲解説を務めたことがあるし、また昭和32年、衆議院で「相撲協会の在り方」がとりあげられたとき、和久田三郎として、参考人として意見を述べたことがあるので、ご年配の方にはご記憶の方もおありでしょう。
 その後、いろいろ大相撲に関する資料をたどっていくと、“天龍”なる力士は、昭和の初めの大相撲にあっては、まさに「風雲児」だった。
(二)春秋園事件―力士32名が協会を脱退する。
 関東大震災から昭和6年の満州事変に至るまでの10年間は、昭和恐慌をはさんで、経済は不況に呻吟し、政治にあっては憲政・政友・革新、お互いあいせめぎ、社会主義運動も各地で労使の闘争が頻発し、日本の社会思潮は不安定であった。このような社会的背景の中で大相撲は、明治後期の、梅常陸から太刀山、栃木山、常ノ花へと引き継がれ、昭和になって新しい時代を迎えることになる。
 昭和5年4月29日(天皇誕生日)、相撲の歴史始まって以来という宮中での昭和天皇の天覧相撲が催され、玉錦に続くものとして、天龍、武蔵山等々の新進気鋭の若手力士の台頭もあって期待されていた。
 しかし、「好事魔多し」、東京大相撲史上、始まって以来、最大の紛争が起こる。
 昭和7年1月5日、番付発表の翌日。出羽ノ海部屋の関取衆は、「大井町の春秋園で支那料理を御馳走になる」と言い残し、三々五々、連れだって外出する。
 誘ったのは、関脇天龍であった。
 春秋園に集ったのは、出羽ノ海部屋の関取32名。宴の席上で天龍の口からはじめてこの会合の目的を知って、驚く。一同は天龍の「相撲社会の改革」を主張する熱弁に魅せられる。その勢いにつられ、加盟団結を誓い、春秋園に籠城し、協会への要求事項を集約する。
 直ちに、大ノ里(大関)、武蔵山(大関)、天龍(関脇)、綾桜(小結)の4力士は、協会に出向き、次のような力士側の10項目の要求書を提出した。
1. 相撲協会、会計制度の確立
2. 興業時間の改正
3. 入場料の引き下げ(大衆化)
4. 相撲茶屋の廃止
5. 年寄制度の順次廃止
6. 養老制度の確立
7. 巡業制度の改革
8. 力士の収入の増加
9. 冗員の整理
10. 力士協会の設立と共済制度の確立
 
大関 大ノ里 万助 関脇 天龍 三郎
身長164cm 体重97㎏
小兵、稽古熱心で大関へ 
身長187cm 体重116㎏
インテリ、美男で人気あり
 
 事態の悪化を憂慮した協会は、藤島(元常ノ花)、春日野(元栃木山)を春秋園へと向わせ、中心人物である天龍、大ノ里に翻意をうながすが、力士団は動ぜず、あらためて回答書を送ったものの、決裂する。
 数日後、武蔵山は、病院に行くと言い、春秋園を飛び出し、タクシーを呼び止め、監視役を振り払い、協会に帰参する。
 折から、国粋会の城戸会長、梅津理事長が調停の労を申し出て、一時、力士たちに軟化の動きがあったが、これをみた天龍は復帰した場合の不利を説き、調停案を拒否、彼は同志の足止め策として、全員に断髪を命じ、「新興力士団」を旗あげする。
 調停不成立の報が広がると、今まで傍観していた東方の力士(出羽ノ海部屋以外の力士)たちが、これに同調するように、鏡岩他10名が「革新力士団」を結成する。
 
(註)昭和初期の相撲界は出羽ノ海部屋の力士が約半分を占めていたので、西方が出羽ノ海部屋の力士、東方がその他の部屋の力士となり、現在のような部屋別総当たりではなく、東西対抗戦の形式をとっていた。
 
 かくして、新興力士団と革新力士団は、合併して日比谷音楽堂その他で「試合」と称して、新しい方式(トーナメント、一日数回取組む等)で興行する。
 一方、協会は、有力な幕内力士を失ったが、「数において足らざるを熱において補う」との決意を込め、多くの力士の勧誘にもめげず、「俺は師匠に殉ずる」と協会にとどまった大関玉錦を中心に新しい番付を発表し、2月22日から8日間、昭和7年初場所を敢行する。
(三)どん底から盛況へ
 かくて、大相撲界は分裂する。
 因みに、昭和7年1月5日発表の番付の幕内力士と大ノ里、天龍らの脱退後の番付を比較してみる。


※双葉山は十両で負け越しであったが、入幕し、その後69連勝。名横綱となる。
相馬基 著 「相撲五十年史」より
 
 昭和7年の相撲協会の春場所は、新興力士団の旗あげ人気に押され、興業も8日間、入場料半額にもかかわらず、惨憺たる状態、5月の夏場所も11日間、不入りが続き、その存続さえ危ぶまれていた。
 一方、新興、革新力士団もはじめは目新しく、お客さんを集めたが、一時的に天龍の思想に共鳴したものの、新しい相撲の形に飽きがきたのか、足が遠のいていく。やがて同志の結束も緩み、昭和7年の末から翌年1月にかけて幕内12名、十両10名が力士団を去り、協会に復帰してくる。
 
 昭和8年になり、1月春場所は、新横綱玉錦の人気や鏡岩、男女ノ川等20名の復帰力士の活躍、特に男女の川(朝潮改め)は横綱大関を倒し、全勝優勝もあり、春秋園の紛争前の賑わいを取り戻す。
 一度は奈落の底にあえいだ相撲界も玉錦をはじめとする残留力士の充実と復帰力士、武蔵山等の返り咲きにより愁眉を開いた。
 折からいわゆる「満州事変」に突入、好況に入り、国内は熱気に溢れていた。一方、相撲界も昭和11年1月場所7日目から不世出の名横綱双葉山の69連勝がはじまった。昭和12年、日中戦争と重なり、相撲界は未曽有の盛況を迎える。
(四)春秋園事件
 昭和初期、昭和ヒトケタの時代の相撲を振り返ってみた。
 当時は昭和恐慌、不況のどん底、各地で労使紛争が起こる。それで、当時の力士たちの中には“これではいけない”といった不安感がただよっていたのだろうか。
 当時、天龍は、ある新聞記者にこう語ったという。
 「われわれは相撲道のために、新しい生き方を考える。
 この運動が具体化したのは(昭和6年の)暮、26、27日頃であった。なんら糸口はなかったのだが、満州問題などで日本の更生が企てられている時に旧弊な相撲道も改革しなければならないと考えた。われわれの真心の叫びなのである」
と。
(相馬基 著「相撲五十年」より)
 
 しかし、俗っぽい世間の人々の中で、こんな噂が飛ぶ。
 昭和6年秋の関西場所の番付会議で武蔵山は小結で10勝1敗と8勝で大関に昇進。一方、天龍は6勝5敗、8勝3敗で残念ながら大関昇進ならず、この番付編成の不満が原因だとか。
 また一方に、大部屋、出羽ノ海部屋では、派閥があり、前出羽ノ海(もと常陸山系)と当時の出羽ノ海(もと両国)があり、その対立の結果だ、とか、天龍の背後には彼の後援者であった、もと左翼の闘士で、その後右翼に転向したM氏が存在している・・・・・・等々、まことしやかに語られていたという。
 
 戦後、民放ラジオの実況放送解説をしていた頃、天龍はこの春秋園事件についてこう回想している。
 「私の師匠のもと常陸山が、あと5年長生きしていたら、この事件は起きなかったでしょう。・・・オンタイであれば当時の力士が立派に生活できるよう待遇を改善していたでしょうから。しかし、当時の協会は、会計は不明瞭、どれだけ収入があり、いくら経費がかかったか、力士たちには全然わからない。親方衆は丼勘定で自分の分を取り、われわれには“ろく”な収入はなかったのです。みるにみかねて、あの運動をおこしたんですよ」と。
(石井代蔵 著 「大相撲見聞録」より)
 
 当時の三役、関脇天龍の給料は平均70円、東大生の初任給50円、私大出身が45円の時代。率直に言って、お役所の係長クラスの70円で力士は食えない。
 それなら、御祝儀を頂けばいいではないか・・・。「力士は、力の士」と書く。師匠常陸山からそう教え込まれた天龍にとって、御祝儀など真平御免だったのだろう。
 
 当時の幕内力士が大半が、天龍の傘下に集まったが、各力士とも内面的な心の葛藤に悩んだことだろう。それぞれの理由をもちながら、数年間悩みつつ、公明な正義感と個人的な感情(師匠や協会への)と不平が、時代の流れに沿いつつも、結局は国技館をもつ協会という組織の前に、昭和12年の暮れには、大ノ里、天龍などの引退者を除き、全員復帰、元の鞘におさまることになった。
 そして、翌昭和13年1月、双葉山は横綱となって、全勝街道を走っている。
 
 現在の時点で、これらの動きを顧みるとき、結局は「当時の世相を反映した完全な労働運動であった」。(石井代蔵 著 「大相撲見聞録」より)。 
 
 野球賭博、八百長問題と今、大相撲の世界は、大きな難問を抱え、七月名古屋場所が始まる。これは、現在の世相を反映しているとは言えまい。まさしく、個々人のモラルの問題である。さる2011年6月20日(月)の読売新聞のこんな詩が目についた。
こどもの詩 勝ち負けが決まるまで声かけるのが、応援。
それでも負けちゃったときに声かけるのが、励まし。
(長田弘)
  おすもう  田山桂太
 おすもうをみにいったよ
 みやびやままけちゃったよ
 みんなおうえんしたのに
 まけちゃったんだよ
 なんでかな 読売新聞2011年6月20日(月)
 力士諸君、こんなかわいい相撲ファンがいっぱい応援、励ましているんだよ。協会が、力士が、関係者全員の“自浄作用”で立派な“大相撲”を見せてもらいたいものである。
参考文献
「相撲今むかし」 和歌森太郎 著 河出書房新社
「土俵の華五十年 51年版 昭和幕内力士写真入名鑑」 実業之日本社
「相撲五十年」 相馬基 著 時事通信社
「大相撲見聞録」 石井代蔵 著 時事通信社
「相撲を見る眼」 尾崎士郎 著 東京創元社