私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。

 3月11日、東日本大震災から、はや6ヶ月。大地震、大津波は原子力発電所を襲い、日本経済の根幹を揺るがし、今後の私たちの生活観、価値観への反省、自覚を促す。
 今後の日本のエネルギー源の在り方は・・・
 
節電に想う 陰翳礼讃に学ぶ
陰翳(いんえい)とは「うすぐらいかげ、くもり。転じて、平板でなく深みのあること。翳はかげりのこと」
(一)灯火管制
 原子力発電の安全神話が崩れると、電力の供給力に不安が起こる。皆さん、節電してください・・・と言われると、突然、戦時中の「灯火管制」の時代に呼び戻される。
 
 昭和14、15年頃だったろうか。母が、今日は灯火管制だからとつぶやきながら、光が洩れないように、窓にカーテンをひいたり、電灯に円筒形の布をかぶせたりしていた。
 子供心に少し暗くなるのは陰気で、嫌だなーと思ったものである。
 戦時下の「灯火管制」を調べてみる。
 戦時態勢に入ったとき、夜間、敵機の来襲に備え、滅光・遮光・消灯すること。準備管制、警戒管制、空襲管制に分かれている。
 昭和13年4月に実施規則制定とあるので、昭和12年の支那事変勃発後、しばらくしての制定である。
 この灯火管制のもと、小学5年生か6年生の頃だろうか、母に連れられて「火のヨージン」カチンカチンと夜回りの加勢をした初冬の夜が思い出される。
(二)照明弾の不気味さ
 昭和20年、大村第21海軍航空廠に学徒動員として働いていた梅雨時のある夜。昼間の厳しい労働で夜はぐっすり眠ってしまう。突如、“空襲警報”のサイレンに眼をこすりながら起きる。防空壕へ向かおうとした瞬間、パーッと明るくなる。満月より明るい。空を見上げると、大きな光の塊がゆらりゆらり、あわてて宿舎にもどる。じっと息を呑んで外をうかがう。爆音もなく、あたりは静寂。しばらく不気味な時が過ぎる。再び暗くなる。ふーと大きくため息をつく。
 食べて、働いて、眠りこける毎日だった。安心したのか、すぐに眠ってしまう。
 アメリカ軍の敵情視察だったのだろう。
 その後は終戦まで2、3ヶ月、照明弾はこの1回限りだった。
(三)坑内実習「全く光のない空間と時間」
 昭和28年、貝島炭鉱に入社、事務系での入社だったが、坑内実習として、技術系の方に、坑内を見学させてもらった。
 坑道で、係員の方と腰をおろして休む。
 「ヘッドランプを消してごらん」との問いに実習生3人、スイッチを切る。途端に“暗闇の世界”だ。「全く光のない空間、時間」は経験したことがない。真の暗闇、一瞬思わずすくむ。
(四)陰翳礼讃(いんえいらいさん)
 電力不足、節電、照明と考えていると、ふと谷崎潤一郎の随筆「陰翳礼讃」を思い出し、本棚から見つけ出し、読み直す。
 この随筆は、「経済往来」、昭和8年12月号、翌9年1月号に掲載されたものである。したがって、約80年前、満州事変が起こってから、2年後、日本国内が少しずつ本格的な戦争へと歩み出した頃である。
 80年前に書かれたものとは思えぬ程、問題の取り上げ方は鋭く、論調もみずみずしい。
 まず、日本の家屋の由来、特色にふれる。
 「日本家屋は、寺院・宮殿でも庶民の住宅でも、軒下の部分と、軒から上、屋根の部分を比べると、屋根の部分が重く堆(うずたか)く、面積が広い。日本の気候は湿度が高く、横殴りの雨風を防ぐためには庇(ひさし)を深くする必要があったのだろう。しかし、このために、家に入れば、どうしても光が入らず、暗くなっていく。お座敷を墨絵にたとえるなら、障子は墨が淡いところ、床の間は濃い部分で、清楚な木材と壁で凹んだ空間を仕切り、そこに引き入れられた光線は、そこ、ここに朦朧な隈をつくる。活け花、遠い棚の下の薄い空間(陰翳)には沈みきった閑寂を感じさせる。」
 また、金箔の効果について
 「寺院、大きな家屋の奥の方には、金襖、金屏風や仏像などが安置してある。これらを側面から見つめると、いくつかの部屋を通ってきたお庭からの光線は、黄金により、静かに輝きを増している。昔の人たちは、黄金が薄暗い光のレフレクターの役目を果たしていることを知っていたのである。」
 「同じ理由で、僧侶が纏う金襴の袈裟は仏前の燈明により、仏像とともに、いよいよ荘厳味を増すことになる。また、同じように、能衣装や歌舞伎の化粧。メイクアップでも、薄明りの中では、日本人の肌の色ともよく調和し、役者の風姿をもりあげる。」
 「能、歌舞伎の陰翳と美しさは、今こそ舞台でしか見られないが、昔は、実生活とあまりかけ離れていなかっただろう。」
 と今の近代的な照明は、あまりにも明るく、すべてをあからさまにし、その美しさをかえって殺しているのではなかろうかと指摘する。
 
 いろいろの角度から、われわれの先人たちが培って作り上げた陰翳の世界、その中にひそむ美を見失っているのではと最後に説明する。
 「パリーから帰ってきた人の話によると、欧州の都市に比べると、東京、大阪の夜は格段に明るい。パリーでは、シャンゼリゼェの真中でも、ランプを灯す家がある。おそらく、電灯を贅沢に使っているのは、アメリカと日本だろう。日本は何でもすぐアメリカの真似をしたがると云う。」
 昭和8年の“話、警告”であるが、何とも、現在の私たちには、まさに耳の痛い話ではある。谷崎潤一郎は最後に、
 「見えすぎるものを闇に押し込み、無用の装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない。一軒ぐらいという家があってもよかろう。まあ、どういう具合になるか。ためしに電燈を消してみることだ。
 と提案している。
 ・・・皆さん、ちょっと部屋を暗闇にして、しばし瞑想してみては―。手もとは暗くとも、秋のお月さんが、ひときわ、明るさを増すことは確かです。
 「蛍の光、窓の雪」の熟語が蘇ってきました。