私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。

 3月11日の大震災の痛手いまだ癒えぬうちに、台風15号が日本列島を襲う。不順な天候の夏を終え、彼岸を過ぎれば、新涼。10月のコラムは、100回目。平穏な秋を祈りつつ、初心に帰って、筆をとりました。
 
コラム、100回を顧みて
(一)お褒めの言葉に感謝
 「会長コラム毎回拝見していますよ」
 「よく調べて、勉強してあり、考えさせられます」
と思いがけない人たちから声をかけて頂く。
 素直に「ありがとうございます」とお礼を申し上げる。
 また、数多く方からメールなどで感想文を送っていただく。
 「会長さんのコラム楽しみです。自分のおじーちゃん?!のような感覚もあり、読んでいて深いなーと思います」
 「病気だったとのこと、いつまでも頑張ってください」
 「会長コラム、面白い」
 「会長似顔絵がカワイイ・・・」
 「80歳というご年齢に驚き・・・、若々しい手ですね、文章の雰囲気も若々しい」等々。
 
 このような、お褒め、励ましの言葉に元気づけられ、いつの間にか、100回を数えていた。顧みると、思いつくままにテーマを選んでいるため、全く統一性がない。身近な日常の些事から、宮島醤油、宮島家の歴史だったり、時事問題、戦時中の体験だったり、お読みになる方々はさぞかし戸惑われたことだろう。
 100回を期に、もうしばらくは、勉強をして、このコラムを続けていきたいと念じている。
 
 ご感想をお寄せいただいた方々に、紙面をかりて、厚く御礼を申し上げますとともに、今後とも、皆様方の御指導の程、よろしくお願い申し上げます。
(二)コラムがとりもつ縁
 コラムも100回を続けているうちに、すばらしい「出会い」に遭遇する。
 それは、コラム第1回の「一升瓶の話」(2003年7月)のこと。
 コラム100回目のテーマは何にしようか、と久しぶりに第1回から第99回までを回想していた。9月の初め、担当の堀内が、「会長、『びんの話』の山本孝造さんからお手紙を頂きました」と報告にきた。
 あらためて、第1回を読み返してみる。
 
 醤油業界では、長い間、容器の90%は一升瓶だったが、核家族化が進み、重い、冷蔵庫に入らない、処理に困る、等々の理由から、大型小売店、スーパーの売り場では1リットルのペットボトルへと急速に変化していた。
 このような事情から新しい工場を建設するにあたり、一升瓶での生産を断念せざるをえなくなった。(会長コラム第1回「一升瓶の話」より)
 
 その“一升びん”に醤油メーカーとしての愛着もあり、コラムの第1回のテーマに選んだ。
 たまたま、唐津の近代図書館で、「びんの話」の本が目にとまり、その中の資料から、拙文にまとめた。
 それから4年後(2007年7月)に熊本県球磨郡の近代史を研究されている菖蒲和弘様が、鉄道「鹿児島線」の工事現場から古い一升びんを採取され、その一升びんの歴史の研究を思い立たれたとのこと。たまたま、私のコラムを検索され、宮島醤油ホームページ担当の堀内との交信がはじまっていた。
 ところが、2011年9月2日に「びんの話」の著者、山本孝造様から当社会長、堀内宛に、「たまたま娘が貴社のホームページを見て教えてくれました。『びんの話』を、御高覧頂き、・・・云々」との御丁重なお礼のお手紙と資料を頂き、恐縮しているところである。
 おかげさまで、「びんの話」の山本孝造先生、球磨の歴史研究の菖蒲和弘様、宮島醤油の三者がお互いに資料、情報を自由に交換できるようになったこと、その出会いを喜んでいる。
 山本様からは、「びんの話」以外の論文、その他の資料を頂き恐縮している。
 
 「びんの話」を発刊された10年後、山本先生は「桶と樽 脇役の日本史」(小泉和子編 法政大学出版局)の第3章に「樽から壜へ」と題して、なぜ桶樽から一升壜へ転換したかを、詳細に解明されている。その“さわり”の部分を紹介する。
 
 要するに、古今東西の各種の「容器」が成り立つには、実に多様な要素・要因が複合的に絡み合うのである。その諸要素とは、材料・物性・加工法・製造体制・生産性・経済性・衛生性・取扱性・運搬性、さらに使用(購入)者の心理性・生活習慣など・そして用済み後に廃棄しやすい廃棄性などである。なかんづく、製造上の「経済性」がとかく最優先されやすくて、「容器の種類や形状」が選択・決定されてきたと考えられる。
 「酒樽」から「一升瓶」への転換は、このような諸要素・要因が時代・社会の変化を受けた結果であった。
 
 このように山本氏の研究は、幅広く、深く、研究心は旺盛、コツコツと地味な研究の積み重ね・・・とそのライフワークには、頭が下がる想いである。
 再び、このコラムを書くにあたり、唐津の図書館から「びんの話」を借りてきた。その著者紹介をみると、
 1930年生まれ(アレ、私と同年生まれだ)。戦時中の陸軍幼年学校最後の入学の生徒、新制高校第1回、まさに同年代と急に親しみを感じる。その後は、「工業デザイン」の道へと進まれた。とくに昭和30年、東京通信工業(現在のソニー)へ入社、「SONY」のマークの原型作成にたずさわられ、活躍されたようだが、独り歩きしたいとソニーを退社。昭和41年に独立、ヤマモトデザインサプライを自営、爾来今日まで40数年、「びんの話」、「樽から壜へ」と容器の研究に没頭されている。その御苦労談は、日本経済新聞1990年11月14日付、最終頁の文化欄「びんびん伝わる先人の魂」に詳しい。
 9月2日に頂いたお手紙には、「びんの話著者・びん変遷史研究生 山本孝造」とあり、自称肩書にはまだまだ研究を続けるのだとの前向きな姿勢とそのお人柄が滲みでている。
(三)わが社に残る一升びん
 わが社の工場には、一升びんは、ほとんど見受けないが、幸いに大きな一升びんとキッコーミヤの入った一升びんが残っている。
 1.大きな一升びん
    (一升びん型の一斗びん)
 わが社が醤油の包装工場を改築したとき、工場の一隅にあった、高さが標準の一升びんの約2倍、80cmの一斗びんを5本大切に保存してある。
 さて、なにに使われていたのか、現相談役の宮島傳兵衞(89歳)と、販売促進の業務を担当されていた横井禎さんの二人にその由来を尋ねた。お二人の話を総合すると、唐津の栄町に、大相撲が巡行に来たとき、勝力士、清水川に賞品として提供したとのこと。昭和30年頃(?)とのこと。
中央:一斗びん
右:キッコーミヤ入りの一升びん
左:現在の1.8リットルペットボトル
びんに貼られていたラベルが
剥がれ落ちたもの。
古いラベルの見本帳より
上記のびんにはこのデザインの
ラベルが貼ってあったと思われる。
 たぶん、宣伝用、各種イベント、ギフト等に使われていたのだろう。製造年月は不明。
 ちなみに、栓は木栓。容量は一升びん10本分=1斗=18リットルである。
 
 2.キッコーミヤ入りの一升びん
 当社にもう1本、古い一升びんを保存している。
 メモが貼り付けてあり、「平成3年、虹の松原にて発見、佐伯正行さんより」と。
この2種類の一升壜はいずれも、製造年月は不明。戦時中、戦後には製造されていないだろうから、戦前の作品だろうか?
キッコーミヤ入りの
一升びん
入  升  壱
油  キッコーミヤ  醤
店  商  島  宮
 
 以上、山本先生の“びんの話”に、刺激され、コラムを書いているうちに、当社の大きな一升びん、キッコーミヤ入りの一升びんに想い至る。
 ご参考までに。