私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。

 父、宮島傳兵衞が昭和1年急逝。当時私は中学1年生。爾来70年、兄弟姉妹8人相集い、70年忌の法要をすませる。
 父の死を想い起こしつつ・・・
 
宮島家のことなど
(一)父の死
 昭和17年8月26日、未明。
 夏の夜、うとうとと、なかなか眠れない。
 「デンジローさん、起きて・・・」
 お手伝いさんの慌ただしい声に飛び起きる。
 当時、私は中学1年生、子供心にも、家の中がざわめき、父の病状が悪化していることを感じていた。
 すぐに、中2階の父の枕元へと急ぐ。看病に寄り添っていた母にうながされて父の顔をのぞき込む。
 ゴーゴー、と目を閉じたまま、大きな鼾を繰り返している。ときどき、母が差し出す綿の水をチュチュと吸っている。
 母が「大きな声で『オトウチャーン』と呼んでごらん」という。
 言われるままに、「オトウチャーン」と耳許で大きな声で叫ぶ。
 すると、鼾を止めて、「オウー」と反応してくれる。
 しかし、またすぐゴーゴーと、もとにもどる。母にうながされて、何度か呼び起こすが、少しずつ声に力がなくなっていった。
 母、叔父、姉たちと見守る。
 脈をとっていた叔父が、「あっ止まった」と沈痛な声でつぶやく。
 「3時○分だ」、一瞬、静寂。
 気がつくと、母が父の体を清拭している。
 ふと父の分厚い胸に、大きな青い斑点がみえる。ああ、苦しかっただろうに、とぼんやりしていると、夏の朝は早い。窓越しに薄明るくなっていく。私は静かに目を閉じた。
 
 父は、夏の風邪をこじらせ、一時は治っていたが再発。肺炎となり、昭和17年8月26日、逝去。享年47歳7ヶ月。
 すでに、日本は米英両国と戦端を開いていたものの、緒戦の戦勝気分に酔っていた頃である。
 当日は、台風が襲来、東京にいた長姉、長兄、次姉は間に合わず、通夜の夜は停電の中。蝋燭の灯の中で、叔父 庚子郎が宮島家のルーツを熱っぽく語ってくれた。その一言一句は当時中学1年生だった少年の胸に響いている。
 
(二)70年忌法要
 父、傳兵衞が亡くなって以来の過ぎ去りし歳月は70年。去る8月26日の祥月命日に父 傳兵衞の70年忌の供養と平成元年に亡くなった母の25年忌と合わせて、法要を営んだ。
 快晴、炎熱下にもかかわらず、兄弟姉妹、それぞれ自力で宮島家の菩提寺、浄土寺に相集う。
 長姉92歳、長兄(現傳兵衞)90歳、次女、三女、次男、四女、三男、最年少は五女75歳まで、男3、女5の計8名。(残念ながら、末っ子四男は、昭和19年夭逝)。
 和尚さんは、「親の70年忌の法要を8人のお子さん全員そろってとは、何と珍しいこと(すばらしいこと)ですよ」と、しめやかな読経。
 引き続き、お斎は父の甥が創めたおなじみの料亭にて、両親の冥福と宮島家の繁栄を祈って“献杯”。
 交わす会話は、やはり幼い頃の思い出話になる。
 お正月にはタクシーに分乗して、三社(箱崎、香椎と宗像?)参りが楽しみだったね。虹の松原の木陰で、野外パーティーと、当時としてはゼイタク・・・? 父の食事のとき、夏の暑い夜、女の子は、団扇であおいだのはきつかったね・・・。
 昭和20年8月16日の夕、敗戦の不安から、「アメリカ兵が上陸する。女子、子供は疎開せよ」との風評がたち、相知からさらに山瀬へ・・・との逃避行等々。(会長コラム第52回「山瀬 終戦時の追憶」)
 思い出は尽きず・・・。
 「父も母も私たちを立派に育て、しかもこうしてお互い長寿・・・ありがたいことね」と語り合いつつ散会。また逢える日を約束しながら・・・。
 
(三)父の時代、祖父の時代
 こうして父を偲ぶと、父は昭和16年、宮島醤油創業60周年のお祝いをした翌年に急逝している。
 宮島醤油は明治15年に醤油醸造業を創めて、130周年を迎えている。
 
 この機会に宮島家の累代をたどってみた。
 
(1)七世宮島傳兵衞(曾祖父)
 嘉永元年(1848)生まれ
 17歳にして、宮島家富田屋(魚類商兼料理店)を継ぐ。石炭商をはじめ、唐津炭を関西方面に売り出す。明治10年大麻丸が遭難する。明治13年唐津炭の松浦川積下し。明治15年、醤油醸造業により、「宮島」の基礎を築く。宮島家中興の祖。大正7年(1918)没。
 七世宮島傳兵衞は、祖父 清左衛門が逝去した元治元年(1864)、弱冠17歳にして富田屋を継ぐ。家業だった魚類商兼料理店を継ぐが、その進取の気性で石炭の販売、石炭の川下し、醤油醸造業、その他八面六臂の活躍をして成功。今日の宮島の基礎を築く。
 その一方、日本内外の各地を旅行し、中国大陸、ひいては明治42年に当時としては珍しく、世界一周し、見聞を広めるとともに私財を投じ地域社会への奉仕にもつとめる。息子の徳太郎、明治十郎夫妻、子孫たちとの別れの盃をかわし、自らの一生を省みて「立派にやった」のひと言を残して、永眠する。
 
(2)宮島徳太郎(祖父)
 父、七世傳兵衞を助けるとともに、事業拡大に努める。醤油工場を整備、水主町から本社へ移転。伊万里、長崎、戸畑、直方に支店開設。火薬類の販売、唐津火工品の開設。炭鉱経営、唐津貯蓄銀行の設立等を手がける。昭和不況の中で、昭和3年没。
 次いで、七世傳兵衞の嫡男、徳太郎は、明治3年6月28日生。明治23年、下関商業を卒業後、父 七世傳兵衞の業を助ける。おそらく明治30年前後からは、創業地水主町の本店にて宮島商店の創めた事業を統括し、さらに明治29年には石炭興業に関連して、「火薬の販売」を創めている。また醤油業においても、発祥の地、水主町から現在の船宮の本社、工場への移転を計画、生産力を増強し、伊万里、長崎、戸畑、直方と販路を拡大したのも、徳太郎の力によるものである。
 宮島商店は事業の拡大とともに、組織を整えていく。明治43年には合資会社宮島商店、大正7年には、株式会社宮島商店を設立する、いずれも徳太郎が代表社員、代表取締役に就任している。
 このように、徳太郎は、宮島の事業の拡大と基礎を固めているのであるが、その晩年には、彼が精魂を込めた事業が、日本全体の経済不況とも重なり、多難な時期を迎えていくことになる。
 そのひとつが北九州鉄道である。
 博多~唐津間に鉄道を作ることは、唐津の町民にとって長い間の願望であった。徳太郎も他の有志とともに出資、会社を設立、重役をして経営に参加するが、予想以上の難工事により業績は悪化し、株価はほとんど無きに等しくなった。
 もうひとつは炭鉱の経営である。
 事業欲旺盛な徳太郎は大正3~4年頃、相知の奥の平山で炭鉱をはじめる。しかし残念ながら、炭層は薄く、平山から相知駅までの5kmを運ぶ運賃など、第一次世界大戦の好況時にあっても採算が取れず、大正11年に閉坑する。
 しかし、これにも懲りず、今度は肥前町の高串で再度、石炭鉱業に挑む。この炭鉱は海に近く、運搬は好都合だったが、炭質が悪く、また不況も重なり、石炭は売れず、さらに出水事故、坑内は水没して万事休す。大正14年に閉山する。
 
 徳太郎の重なる失敗で会社の経営は一段と苦しくなる。しかし、それは経済人にとって当然背負うべき運命ではあったが、徳太郎夫妻にとってはさらなる不幸が待ち受けていた。
 それは、三男傳三郎、四女由子の死であった。
 三男傳三郎は先天的な心臓病に加えて、肺を患い大正15年1月7日、逝去、23歳。
 翌昭和2年、徳太郎自身が肝硬変にて入院、治療、退院療養中であった。四女由子は、縁あって浦元家の養女となり、養父母の寵愛をうけ、福岡女専を卒業後、東京の姉支那子夫妻の家に寄寓していたが、不幸にも腸チフスに罹り、昭和3年3月18日、急逝する。行年23歳。
 若い二人の死は、父 徳太郎に精神的、肉体的な影響を及ぼしたのか、再入院するも病革(あらた)まって、昭和3年6月3日、59歳の生涯を終える。
 
(3)父 宮島傳兵衞
 昭和3年、徳太郎の跡を継ぎ、傳兵衞を襲名。昭和初期の不況の中、社内の合理化に努め再建。
 昭和17年8月47歳7ヶ月にて没。
 9月現相談役が宮島傳兵衞を襲名、社長となる。
 父 傳兵衞(甲子郎改め)は、昭和3年6月3日、徳太郎の後を継ぎ、昭和3年6月4日、株式会社宮島商店の取締役社長に就任する。ときに、34歳。
 父 傳兵衞は明治28年1月24日、父徳太郎、母ツルの長男として出生。幼名甲子郎(かしろう)、昭和3年8月29日、傳兵衞を襲名する。
 唐津中学をへて、大正5年3月大阪高等工業学校醸造科卒業。
 父 傳兵衞が宮島商店を引き継いだ昭和3~5年は不況の真っただ中、彼に与えられたのは、宮島の再建であった。
 まず、思い切った整理をする。
 そのひとつは、所有していた株式を全部処分する。最も重荷になっていた北九州鉄道の株も15円で売却、役員も退く。
 さらに徳太郎が買い集めていた、石炭鉱区(数百万坪)も放棄し、鉱区税の重い負担を免れた。
 最も重要なものは、再建のための資金であった。
 父 傳兵衞が博多からの帰りに、北鉄の筑肥線にのっているとき、彼の席に若いサラリーマンが二人乗っていた。そのうちの一人が窓外の“宮島醤油”看板を見ながら、「あの宮島醤油という唐津の醤油屋がねえ、ウチに資金を借りに来たことがあったが、炭鉱をやっていたので貸さなかったんだよ」と話していたという。
 この二人は、日本興業銀行福岡支店の行員さんだったとのこと。
 「世の中は狭いものだね」と父 傳兵衞は、苦笑しながら、弟 庚子郎に話していた。恐らく、この話から、思い切って、炭鉱の経営を断念したのだろう。
 一方、あらためて、日本興業銀行福岡支店に融資を申し入れ、ほぼ契約がまとまりかけたとき「ではお貸ししますので保証人を立てて下さい」という。
 このとき、父 傳兵衞は「私は他人のために、保証判をつかないことを信条としています。したがって、他人に保証人を頼むことはできません。せっかくのお話ですが・・・」と言って帰ってきた。
 ところが、数日後、追っかけるようにして、「お貸ししましょう」となった。
 そのとき(昭和7年)に借り入れた金額は30万円。現在の金額に換算すると10億以上なるだろうか。
 父 傳兵衞はこの借入金の一部で唐津銀行のからの借入金を返済し、また一部を醤油工場の設備の改善に充当する。
 当時、日本興業銀行と取引できるということは、金融関係全般、ひいては一般の経済界取引の上で、信用されるという無形の効果があったとのこと。その後も日本興業さんには陰に陽にお世話をして頂いたようである。
 こうして、父 傳兵衞は社内の合理化に努め社業を整え、昭和初期の恐慌、宮島の苦境を乗り越えた。醤油・味噌は日用品。常に海陸軍の軍需工場として指定され、火薬は石炭採掘の必需品、昭和初期から戦争突入までは、日本経済も宮島の社内も緊張感が漂っていたことだろう。
 父 傳兵衞も、創業60周年を迎え、私立の宮島実業学校を設立する等、人材教育に力を尽くし、また数多くの公職にあって活躍していたが、昭和17年8月、47歳7ヶ月の生涯を終える。
 
 父 傳兵衞逝去後、当時大学2年生であった、現相談役が傳兵衞を襲名、社長就任、その後、今日に至ることになる。

 宮島傳兵衞(現相談役)

 社長-会長-相談役を通算70年務めている。
第二次世界大戦前後の宮島のことは、会長コラム60回「宮島醤油の社歌・遺言に想う ~戦時下の宮島醤油」(2008年6月)に書きとどめているので、引き続き読んで頂ければ幸いです。
 父の70年忌に因んで、御仏前に捧げる。
合掌
参考文献
 「思い出の地 私の小さな自叙伝」 宮島庚子郎
 「宮島醤油創業周年100周年記念誌」