私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。

 秋、年々歳々、年を加うると、懐かしい友との集いは、心温まります。
 その中で、昭和28年から40年まで12年間、貝島炭砿に在籍し、激動の石炭鉱業に身を置いた期間は、貴重な体験でした。思い出すままに、書き綴ってみました。
 
貝島炭砿から学んだこと
想い出(貝島大之浦炭鉱労働組合冊子)より
(一)労働部、勤労第2課第3係
昭和28年頃、右端が私、新入社員の頃
 昭和28年、貝島炭砿へ入社。
 3ヶ月の研修期間の後、「労働部、勤労第2課第3係」の辞令を拝受する。業務内容は、「労使関係全般、労働組合との交渉関係」であった。
 当時、日本の労働運動は戦後の混乱を経て、石炭鉱業にあっては炭労(日本炭鉱労働組合)としてまとまり、全国的に、あるいはブロック毎に、あるいは各企業毎に紛争が絶えなかった。
 たまたま、昭和27年秋の入社(筆記)試験が大之浦で実施されたが、秋の賃金闘争でこじれ、63日スト、炭鉱一帯は不気味に静まりかえっていた。今考えると、その後の石炭鉱業の前途の兆(きざし)ともうけとれる。
(二)「鉱員賃金の一覧表」の作成
 新入社員の私に命じられた仕事は、当時の石炭のコストの中で最もウェイトが高かった「鉱員賃金の一覧表」の作成であった。概括的な賃金体系をマスターする。上司の係長は元数学の先生だったので、「出炭量と支払賃金総額との関連」について、最小自乗法により傾向線を導くこと等を教えて頂く。
 ついで、いろいろな問題で対労組の交渉に出席し、「議事録」の作成を命じられる。馴れるまでは少々難儀だった。
 とくに、数時間に及ぶ論戦を数枚の原稿用紙にまとめること、しかも相手方の発言の中核になる部分の発言をふまえて要約、表現することには、頭を悩まされた。
 「ミヤジマ君、このところ、労組の○○君はどう発言したかね」と相談される。
 さらに「労組の要求するところを箇条書きにまとめてくれ」。
 さらに「その要求項目に、どう回答したらよいか“案”をつくれ」とまで、だんだんと難しいことを要求されていく。
 今考えてみると、おかげで、相手の主張する点を正確に把握、表現するには、いかに細心の注意が必要であるかを学ぶことができた。
 特に協定書の作成にあたっては、誤解を招くような表現は避けねばならぬ一方、交渉の過程がにじんだ文言も必要なのである。
(三)第五坑、労務課
 勤労課の業務になじんで4年、昭和32年、第五坑“労務係”を命じられる。
 石炭鉱業はまさに労働集約的であり、且つ、現場は落盤、爆発など、危険を伴うものである。従って、この労働力をいかにして秩序正しく、安全に組織的にまとめて生産をあげるかは、経営の中核となっている。
 私が入社した頃は、戦後の混乱期は終わり、徐々にまとまっていた。
 炭鉱の労務係という役職は実に幅広く、他の産業には例のないユニークな労働管理組織である。
 私に課せられたことは、鉱員の住宅地区、いわゆるハーモニカ長屋約40棟、170~180世帯の管理である。ほとんど毎日巡回し、さまざまな苦情、要望を聞き、対処する一方、就業を督励、彼等が安心して働ける環境づくりに努めた。「休み」が多くなる人、病気になる人には治療を勧めたり、悩み(ときには、坑内の現場の苦情)を解決したり、冠婚葬祭の世話をしたり・・・の日常の生活から、ときには思想的な危険性への注意を払わなければならなかった。
昭和29年撮影、中央にハーモニカ長屋が並んでいる。
 まだ一人立ちできず、先輩の見習い中だった頃、私の担当区の一人が坑内にて落盤事故に遭遇。残念ながら死亡。さて、このことをいかにして奥さんにお知らせするか。幸に奥さんのお兄さんが近くに住んでおられたので、その人に一切を説明し、奥さんにはとりあえずご主人が事故に遭われた・・・」とだけ連絡。
 しばらくして、先輩と私とで、事故で亡くなられたことを奥さんにお知らせした。泣き崩れながら、必死にこらえられているご様子に胸が熱くなった記憶は今なお脳裏に鮮明である。
 短い期間ではあったが、重労働を重ねる労働者と、日常、個々の人間として接触できたことは今なお貴重な体験だったと反芻している。
 昭和33年5月、結婚。この五坑社宅での新婚生活は、30日ぐらい。ちょっぴりだが、妻は炭鉱での生活を体験し、共同浴場に入浴したことを時々話題にしていた。また、義父が贈ってくれたテレビがまだ貴重な時代。同僚たちがよくテレビを見に集ってダベったり、盃を交わしたものである。
 そんな、ある日の夕、突然、上司に事務所に呼び出され「九州石炭鉱業連盟」への出向を内示され、びっくり!
(四)九州石炭鉱業連盟での3年間
 「九州石炭鉱業連盟」とは、当時の石炭鉱業の経営者の団体として、労働組合(炭労、全炭鉱)に対応する団体である。
 ふりかえって、石炭鉱業は昭和20年8月の終戦と同時に、戦時中の強行採掘による荒廃と、中国、韓国人の労働者の帰国に伴う人員不足により疲弊の極みに達していた。
 その後、昭和23年になり、いわゆる鉄鋼、石炭の「傾斜生産方式」の政策により、政府資金の投入、労働者の確保、必要生活物資の優先的な供給等により、日本の産業復興の起爆剤として、一挙に立ち直り、出炭も増加、日本の産業復興に貢献する。
 その一方、当時の社会情勢を反映し、労働運動も活発となり、賃金、一時金交渉等は毎年難航、ストが長期化、中労委の裁定に持ち込まれることも、しばしばだった。
 これらの労働側の問題に対処するための団体であったので、中央での動向、各企業の労使関係等、情報連絡、交渉の援助等にたずさわり、労使関係の在り方について勉強させてもらった。
 連盟では、賃金課、最後の1年間は調整課に配属される。調整課では、「ミヤジマ君、“職場闘争”の勉強をしなさい」との指示により「職場闘争」に関する資料を蒐集(労働側の資料、裁判所の判例その他)と解説に終始した。
 現在では、「職場闘争」という労働側の戦術は死語に等しいが、当時昭和30年代の前半には、御存知「三池闘争」の基本的な戦術であった。
 例えば、各、小単位の職場で細部の業務指示に対し反論、その場で交渉、作業拒否の行動に出たりして、会社の指示系統に混乱を起こさせる、いわゆる「総資本対総労働」の美名のもとに、三池闘争へと連なっていく。
 これらは今から50年前のこと、現在は高度成長期を終え、その後の慢性的な不況、労使双方の理解も進み、「今は健全だなあ」と回顧できる。私がまとめた一冊の資料を開いてみようと、本棚を探すが行方不明。いずれ思わぬところから見つかるだろうが・・・。
(五)貝島炭砿への帰社―合理化対策に取り組む
 4年ぶりに昭和36年7月、貝島炭砿に帰社する。皆さんから温かく迎えて頂く。
 しかし、石炭業界は石炭の傾斜生産に助けられ、回復し、自立期を迎えたものの、朝鮮戦争休戦後の不況と高単価問題の影響で深刻な不況に陥っていた。
 貝島炭砿は、大之浦の東部開発への投資が、エネルギー革命に直面した客観情勢の悪化の中で、かえって企業の負担となり、昭和35年から、第1次合理化(坑木仲仕の請負化、職業規律の確立、労働力の再編成)にはじまり、ついで、昭和35年は約5億円の赤字決算、昭和36年には第2次合理化として、希望退職者募集。賃金の14.6%引下げ等々が提案され「合理化期」に入ることになる。
 このような大規模の合理化案の提出に勿論、労働組合としては猛烈な反対になる。
 九州石炭連盟から貝島炭砿に帰社、ついで、勤労課、第3係の主任として、この合理化案の計画から交渉、等々、事務局として昼夜を問わず、多忙な日々を送った。
 貝島炭砿は昭和35年(1960年)2月から、昭和41年(1966年)までの5年間に第1次~第6次合理案を実施している。残念ながら、力及ばず、昭和48年11月、大之浦炭鉱は閉山、筑豊、最後の炭鉱として名を残して消える。
団体交渉の様子。
合理化反対・家族ぐるみの総決起大会の様子。8000人が参加した。
 
 顧みると、第1次合理化から第5次合理化まで、対労組の交渉にあたり、勤めさせて頂いた。この間、会社としては社長以下、何とかして再起させたいと死に物狂いの努力を傾注されていることを目のあたりにして、一人の事務局員ながら、その意を体して頑張ってきた。一方、この合理化案を受ける労組側もまた真剣に交渉を重ね、妥結をするたびに、涙にむせられる場に、平の職員として胸を熱くしたものである。
 当時、お仕えした上司はすでに鬼籍に入られている。私は、今はからずも貝島OBで組織する“貝島会”の会長として微力ながら皆様方のお世話をする御縁にめぐまれ、在職中の御指導、御恩に報わねばと当時を回想している。
 去る2012年11月17日には、大之浦炭鉱を探訪しようと、元気な貝島OB会員、約40名が参加、秋雨の中、思い出話に花が咲き、なごやかな一日を過ごしてまいりました。