私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 でんじろうコラムへようこそ。
 
 江戸時代といえば、鎖国時代。
 わたくしたちが日本の歴史を考えるとき、何かマイナスの印象をもっていたものだが、外国との交流が断たれると、逆に日本人として独自のものが生まれているようである。
 そのひとつが労働倫理だろう。このコラムで職業倫理、労働倫理を考えるときにとりあげた鈴木正三に続いて、石田梅岩が登場し、はじめて労働倫理が確立する。
 
労働倫理観に想う(その三)
~石田梅岩に想う~
 
(一)石田梅岩の生い立ち
 石田梅岩は丹波国、東懸村に生まれる。
 本名は勘平(1685~1744)。
 彼は中流の農業の次男。11歳のとき、京都の呉服店に奉公した。その後、一時は実家に戻るが、23歳のとき再び、京都の呉服商黒柳家に住み込む。黒柳家は熱心な浄土真宗の信者という典型的な商家、この中にあって、彼は真摯に仕事に取り組む一方、仏教、儒教、神道をはじめ、さまざまな思想探究の勉学に努め、「一種の変り者」と言われていたという。
 彼は「人間としてどう生きるか」ということと、「営利追求」の商業人としての乖離をどう解決するかに悩みつつ、自ら思索を重ね、その精神的基盤として、「心」を知らねばならぬと「石田心学」を確立することになる。
(二)江戸時代中期の商家の発展
 徳川時代に入り、政治が安定し、幕藩体制社会が確立し、小農の自立、農業生産力の飛躍的な発展、新田開発、農業技術の向上、これに伴う商業的な農家が生まれ、新しい時代に突入する。
 お米や各地の産物を流通させるための商工業部門が発展(お米や木材、その他の相場の発生など)する。
 このような動きは、各藩の基盤が何万石という米の生産高が中心であった武家社会にとっては、好ましからぬことであり、また、儒教の倫理からも、井原西鶴の小説に散見される奢侈(しゃし)の風潮には眉をひそめていた。
 一方、商業人、商家の中には、非道な買占め、売り惜しみ、あるいは政治権力と結んだ利権により暴利を貪ることへの非難もあった。
 例えば、江戸の市中の大半を灰と化した振袖火事(1657)を見た河村瑞賢が、まだ消えやらぬうちに、すぐさま木材の産地、木曽に赴き、ほとんどの木材を買占め、暴利を得た。こうした例は数多いという。
 これを現代風に言えば、“商業道徳”が欠如、いや未確立だったということだろう。
(三)石田梅岩の思想
 石田哲学の思想は、当時、収集できるあらゆる思想の学説を学んだあと、自らの思索のみを頼り、構築されている。例えば、儒教には欠けている天地創造の倫理に老荘の思想、陰陽説、太極、気、理、「心」、五倫、五常・・・等々を総合したのが「心学」というのだろう。
 そして「心」とはもともと善でも悪でもない、赤子のようなありのままの状態である。心、即ち、本心、・・・・・・その本心を省みて悟道の域に達する、・・・と説いていく。
(四)石田梅岩の職業倫理
 「心」に従うことが人間の道である、と説く。さらに、梅岩はより具体的に商業のあるべき姿として「正直」、「倹約」、「分限」を強調する。
 
 「正直」とは、儒教、仏教的な仁に加え、神明の清浄無垢の心であること。わが心は我物、人の物は人の物、貸したものは受け取り、借りたものは返せ・・・正直は結果的に信用につながる。現代的に言えば、良心、良識に従えといったところだろう。
 
 次に「倹約」。
 倹約は吝嗇(ケチ)とは異なる。
 分に応じて、物を使って正直に暮らすことである。
 私欲を貪り、奢りがあると個人としても、全体としても、歪が出る。すなわち、万物のあるべき姿の合理的な使用をすることが倹約である。
 
 「分限」
 倹約は財宝を節(ほどよ)く用い、我分限に応じ、過不足なく、物を捨てることをいとい、時にあたり、法にかなうように用いること。
 
 「倹約、分限」の中には、よく「始末しなさい」といわれたが、その「始末」に似た語感がある。
 「始末」とは初めと終わりのこと、経済活動における一貫した計画性というのが、本来の意味である。
 予算と決算を明確にし、無用な出費は断じてしないということである。
 
 以上、石田梅岩の思想、商人への明確な心構えを、私なりに要約してみて、現在の経営管理の原点が存在するような気がしてくる。
(五)石田梅岩、心学の影響
 石田梅岩は“心学”を確立した後、一般の庶民を教化すべく、塾をはじめる。享保14年(1729年)、梅岩45歳のときである。
 曰く、「○月○日開講、席料はとりません。これまで、ご縁のなかった方でも、ご希望の方々はどうぞ自由に入って、聞いてください。」
 しかし、このときは受講者3名。
 それから、8年後、元文2年(1737)、住居を堺に移し、自ら学んだことを平易に、たとえ話を入れながらわかりやすく話しかけ、いろいろな人々のよろず相談、質問に答え、多くの人々の共感を得ていく。
 それから、数年後、これらの質疑応答をまとめた心学の経典ともいうべき、「都鄙(とひ)問答」、「斉家論」が出版され、心学は梅岩の後継者、手島猪庵、中沢道二等によって、引き継がれ、流布していく。
 
 こうして、石田梅岩の“心学”は当時新しく発生し、成長過程に入っていた商業にたずさわっている人達に、道徳的な拠りどころを与え、勤倹力行の克己主義に徹し、その発達を促すことになる。
 このような雰囲気が三井家をはじめとする「家業」の意欲を促し、徳川中末期に向け、商工業が拡大することになる。
 この石田心学がモチーフとなり、日本的な職業倫理、労働倫理の基礎が築かれていくと理解してよいだろう。
参考文献
「日本人の職業倫理」 島田燁子 著 有斐閣
「商家の家訓」」 吉田豊 編訳 徳間書店
「日本歴史17」 奈良本辰也 著 中央公論社
「日本資本主義の精神」 山本七平 著 PHP文庫