私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 でんじろうコラムへようこそ。
 
 残暑とは言えないような猛暑が続きます。
 その猛暑を避けながら、先々月7月のコラムに引き続き、柿村重松先生の真摯な一生をたどってみました。
 7月のコラムも参照して頂ければ幸です。
 
柿村重松の一生
 
(一)唐津商業高校校歌の作詞
 唐津の人たちに柿村重松先生を紹介するとしたら、唐津商業高校校歌の作詞者ですよ、というのが最適である。
作詞者 柿村重松先生の書
遺稿集「松南雑草」より
 
 かねてから唐津商業学校から校歌の作詞を依頼されていた柿村先生は、昭和3年、その約束をはたされる。唐津町立商業学校は翌昭和4年4月に佐賀県立唐津商業学校となっている。当時の唐津商業は、舞鶴公園下の松浦川河口(現在は駐車場)にあったが、その10年後の昭和14年、柿村先生の御自宅のすぐ上に移転するとは思いもよらぬことだろう。
 歌詞は現代の生徒さんには、いささか難解な字句があるが、読み直すたびに味わいの深くなる、格調高い校歌である。
(二)帝国学士院恩賜賞授賞
(1)学士院賞とは
 柿村重松先生の最大の功績は、東京高等師範学校研究科卒業以来、学校教育に尽くすかたわら「漢文学が日本文学に与えた影響」をテーマとし研究を重ねられ、「本朝文粋註釈」を公刊したことにより、大正12年5月、「帝国学士院恩賜賞」を受賞されたことである。
 
(2)帝国学士院から日本学士院へ
 帝国学士院は、現在は日本学士院と改称されている。明治12年に東京学士会院が創設(定員40名)され、明治44年4月には「恩賜賞」、11月に「帝国学士院賞」を開設。第二次世界大戦後の昭和31年に「日本学士院法」が公布され、現在に至っている。
 設置目的は「学術上功績顕著な科学者を優遇するための機関として学術の発達に寄与するため必要な行事を行う」ためとある。因みに恩賜賞は設立以来、現在まで100年余で173名が授賞されている。それほど貴重な授賞である。
 幸に大正12年の柿村先生の恩賜賞の審査要旨を索引できた。その文面はすこぶる難解だったので、簡略、要約させていただいた。
 
(3)帝国学士院恩賜賞 大正12年
「本朝文粋註釈」ニ対スル授賞審査要旨(PDF:日本学士院WEBサイト内)
 本朝文粋ハ嵯峨天皇ヨリ後一条天皇ニ至ル200余年間ノ天皇、皇族、公家、丈夫ノ漢詩、漢文ヲ集録シタモノデアル。編纂ト趣旨ハ、主トシテ文章ノ典範(手本)ヲ示シタモノデ、イロイロナ諸作ノ詩28首ノ外、詔勅、表状、賦序、願文等37種、文体ノ模範トスルニ足ルモノ399篇ヲ採択シテアル。コレラ、詩文ハ後世ノ法トナリ、佳句ハスデニ当時諷誦サレテオリ、日本ノ文学ニ大キク影響シテイタニモカカワラズ、従来コノ本朝文粋ニ註釈を試ミタモノハ殆ンドナイ。コレハ文粋ノ書中ニ引用サレテイル故事、字句ハ、典據サレタモノガ多イ。従ッテ、当時ノ世相ヲ顧ルト、支那文学ノ影響ガ甚ダ大ナルト同時ニ、一面デハ、佛教信仰ガ上下ニ如何ニ浸潤シタコトガワカル。本書ニ註釈ヲ付与シヨウトスレバ、博ク内外ノ典籍ヲ渉猟シ佛典ニマデ及バネバナラナク、従ッテ、多クノ歳月ヲ費ヤシ、マタ大ナル努力ヲモッテ事ニアタラネバ成功ヲ期シ難イ。
 著者、柿村重松君ハ早クカラ心テ本書ノ研究ニ潜メ、先般「本朝文粋註釈」ヲ公刊サレタコト、ソノ業蹟ハ、實ニ荊ヲ開キ、樹木ヲ伐倒スノ気概ガアル。
 (中略)
 本書ヲ通読スルト、日本ノ歴史、法制及ビ佛教ニツイテ若干ノ遺漏、不備ノ点無キニシモアラズダガ、・・・本書ハ文学的面、トクニ本朝ノ漢詩、漢文ガ支那ヨリ影響ヲ受ケタコトヲ研究スルタメノモノデアル。本邦ノ歴史的考證マデ望ムノハ過当デアロウ。シカシ、一方、成語ノ典據ヲ検索スルノニハ、原書に據(よ)ルコトニ努メラレタコトハ多トスベキデアル。
 著者ハ地方ニアッテ教育ニ従事サレテオリ、各地ニ往来シテ図書ヲ検討スルニ自由ヲ与エラレナカッタガ、篤学ナル著者ノコト今後、尚、研究ヲ重ネ、増補ニ努メラレ、コノ研究ガ大成スルニ至ランコトヲ希ム。
 以上、コレヲ要スルニ、本著ハ著者ガ本朝文粋ニツキ多年真摯、周密ニ根本的研究ヲ重ネタル結果、本文ヲ校勘シ故事成語ノ出典ヲ明ラカニシ、意義ヲ釈シタルモノデ、本朝文粋は「千載ニシテ、一ノ忠臣ヲ得タリ」と言エル。
 著者ノ精神ハ全篇ヲ通ジテ、明白ニ認メラレ、ソノ努力ハ眞ニ推奨ニ征イシ、著者ノ研究ガ学界ニ寄与スル功績ハ実ニ多大デアル。
 
 以上は恩賜賞受賞決定までの審議過程だが、慎重な意見の交換の跡がうかがえる。
(三)柿村先生の生い立ち
(1)青少年時代
 柿村先生は明治12年1月4日、唐津市東十人町に、父柿村民治、母ハナの長男として出生。
 明治20年4月、唐津高等小学校入学、明治27年3月卒業。4月、唐津大成学校に入校(同校は翌年、実科中学校に、さらにその翌年、佐賀県立佐賀中学校唐津分校(3ヶ年)に改められる)。
 明治30年3月、唐津分校3年修了後、同年4月に漢文学を研究すべく上京。東京の二松学舎(現在の二松学舎大学)に入学する。
 柿村先生は自らの少年時代を回顧して「内気不器用ニシテ負ケズ嫌イ、学業ヲ好マズ、高等科ニ進ムニツレ、体操、唱歌ハ嘲笑ノ的ダガ、ソノ他ノ学科ハ断然群ヲ抜イタ」。特に国語、漢文を得意とされ、漢学、支那哲学を専門に研究すべく二松学舎に入学する。当時、創始者三島中洲が経営する学校で、唐津銀行の創始者大島小太郎もここで学んでいる。しかし、二松学舎では柿村先生が自ら学習しようとした意見が容れられず、私立京華中学校4年に転入、その翌年明治31年4月に東京高等師範漢文専修科へ入校。明治33年3月卒業。国語漢文科の教員免許を取得。
 熊本八代中学校の教諭に任ぜられる。
 残念ながら、明治35年発病、後年の大患の源となり彼を悩ますことになる。
 ついで、明治36年、長崎県師範学校に就任、鈴木操と結婚する。しかし、彼の学究の情熱は現職に満足せず、東京高等師範研究科に学び、明治38年卒業する。
 
(2)研究、教育、病気
 爾来、柿村先生の研究と教育と闘病の生涯がはじまる。
 明治38年、成城中学講師、発病、私立宏文学院(支那学生を教える)講師を勤めた後、明治39年、陸軍教授を任ぜられ、大阪陸軍幼年学校にて教鞭をとり、校務を処理しながら、余暇を学究に充当していく。明治38年ごろから「本朝文粋註釈」の筆をとっている。
 柿村先生自身が、「生殖の時代」だったと云われるように、家族もふえる一方、本朝文粋註釈、その他の著書も多く、研究にも没頭できた充実した期間であろう。
 しかし、残念ながら、大正5年5月、大阪陸軍幼年学校の検査で結核菌が検出され、約10年間勤務した陸幼を退職することとなる。
 10年間の長期にわたり生活した大阪では多くの友人、知人に恵まれ、その後も長い交際が続いていたようである。
 大正5年の梅雨期に郷土唐津の生家に帰郷、その後2年余り、養鶏、菊作りと療養に努め、病状の回復とともに「本朝文粋註釈」の研究が続けられている。
 その後、大正7年には、呉中学へ、さらに熊本中学兼済々黌の教諭を勤めつつ、「本朝文粋註釈」を中心とした学究が続けられる。
 大正9年、恩師服部宇之吉博士(東大教授、漢学の近代的研究の先駆者)に、「本朝文粋註釈」の原稿をお見せし、批判、意見を請うたところ、服部博士は、本著を高く評価され、その他の恩師先輩等とともに、本書の発刊に尽力された。その結果、啓明会の資金援助、出版は内外出版社に決まり、大正10年3月下旬に組版に着手することになる。爾来、柿村先生は、最後の校正に不眠不休、多忙を極め、ほぼ校正が完了せんとした、その年の12月、夫とともに、本書の刊行を念願していた妻、操は三女出産に際し、産褥熱のため急逝。ときに35歳。その悲哀を秘めて、翌大正11年4月に本書は発刊することができた。
 一方、柿村先生の人格と学識を高く評価されていた服部博士は、柿村先生の将来を考慮し、(旧制)高等学校教員検定試験の受験を勧め、柿村先生はこれに応じて受験合格、大正11年3月には新設された旧制福岡高等学校に教授として就任する。新学期の4月1日から教鞭をとり、一方「本朝文粋註釈」が完成しており、服部博士は、本書を皇太子殿下に献上、同年11月には、帝国学士院受賞が決定、さらに翌大正12年5月、同恩賜賞授与が決定する。
 以上、大正9~12年の数年は、柿村先生の身辺は大きく広がり、恩賜賞授賞に大きく輝き、幸福の絶頂であっただろう。ここに至るまでの服部博士はじめ皆様への感謝とともに、病弱の夫をいたわり励まされた妻操への悲哀の念は言語に尽くし難いものがあったであろう。
 妻の命脈絶えるとき、遺骸を擁して、
 「苦労をかけてすまなかった、お前より外に妻はない」と感涙にむせんだという。
 
 恩賜賞授賞は、学士会関係をはじめ、各方面で祝賀会が行われた。勤務先の福岡高等学校での恩賜賞受賞記念「第1回学芸講演会」をはじめ、唐津市の久敬社関係15名、地元唐津の有志30名余にその他漢文学界等々、祝賀会が行われる。
 残念ながら、この年の10月から発熱が続き、大正13年になり、学校長に願い出て、3学期を療養するも、回復せずやむをえず退職することとなる。
 柿村先生の福岡での生活は学校と下宿の往復だけだったとのこと、その帰路、ある教授が、
 「校長が『君を学校の国宝だよ』と言っていたよ」と言うと、すかさず、
 「国宝ではない、骨董品だよ」と笑って通している。
 時の秋吉校長は柿村先生を
 「わが校が君を有するのは学校の名誉、福岡の名誉だ」と称し、柿村先生も「この校長のためには犬馬の労も辞せず」とお二人の信頼感は強かったようである。
 
 かくして大正13年4月から療養生活に入る。この大正13年4月、長男峻(たかし)氏は福岡高等学校に入学されている。
 以降、晩年は郷土唐津東十人町に帰り静養を続ける一方、「倭漢朗詠集考証」、「不動心論」を著述したり、冒頭に掲げた唐津商業高校校歌を作ったりの余生であったが、病あらたまり、昭和6年7月30日、愛用の机に喀血、絶命、一生を終える。
合掌
参考文献
「松南雑草」 柿村重松 著
「柿村重松の業績とその日本漢文学研究」 町泉寿郎
「恩賜賞に輝いた『本朝文粋注釈』」 柿村峻 著 末盧国4号