私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 でんじろうコラムへようこそ。

  残暑きびしい晩夏、夕食後のひととき、妻の「伊勢神宮にお参りしましょうよ」との誘いにのって、某旅行会社のツアーに参加、二泊三日のささやかな旅を楽しんできました。一行は夫婦16組32名、人生経験豊かな皆さんで、最高齢は元陸軍少尉90歳、落ち着いた雰囲気で伊勢路を満喫してきました。
 
遷宮を前に、伊勢神宮参拝
新しい第一の鳥居、いよいよお参りする。
お榊が目を引く。
 
 第一日、博多発、新幹線は“新神戸駅へ”。前日の京阪地区は暴風雨だったとのこと、ウソのような快晴、北野の異人館等を散策の後、バスにて六甲山の中腹は有馬温泉へ。鉄分を含んだ赤黒い源泉は長い車中の疲れを癒してくれる。
 第二日、大阪の難波から、近鉄のデラックス特急車で大和路を走り抜け、鳥羽へ。ひと休みのあと、伊勢神宮外宮へ向う。
 
外宮 参拝
 「この橋は20年毎に新しくなります。それは、遷宮のため解体した柱、その他を使って、架け替えるからです」とのガイドさんの説明に、思わず、足もとをみつめ、静かにその感触を味わう。しばし、敷きつめられた砂利の道を歩き、鳥居を仰ぐ。参道に並ぶ燈籠は木の香も芳しく、すがすがしい。
参道の玉砂利を踏みしめながら。
 
鬱蒼たる森の中に、
新しい鳥居と建物が光る。
 外宮正殿に二礼二拍手一礼、新旧両正殿、その他は工事中。正殿まではかなりの距離があるが、すでに完成した部分の鰹魚木(かつおぎ)の金箔が深い森を背景に夏の陽光に美しく輝いている。
 外宮を出るところに式年遷宮の資料を集めた「せんぐう館」が完成していた。そこには、神宝装束の調整工程、遷宮祭の模様等が展示してあり、その技術に驚き、見事な芸術性に感銘をうける。
 さらに壮観だったのは、外宮正殿の側面の原寸大の模型が展示してあったことだ。伊勢神宮では、神明造りの正殿近くまでは入れず、遠くから礼拝するにとどまるが、実物大の棟の高さ10.15m、床の高さ2.27mを見上げると、瞬間、圧倒され、ゆっくり見直すと、敬虔の念がただよってくる。
外宮側面図
 学芸委員の方から「桧」は木曽の官有地の桧とのことと説明を受ける。伊勢の神域の中に数百年後の将来のため植林をはじめられたとのこと。20年に一度とはいえ、準備は8年前から手がけるとのこと、建築の技術は完全に継承されているとのこと。それらを反芻しながら、第二夜は、英虞湾、奥深いリゾートホテル。昨日は山里、今日は海辺の夕を楽しむ。
 
内宮 参拝
        なにごとのおはしますかはしらねども
              かたじけなさになみだこぼるる
 ご存知、西行法師のあまりにも有名な和歌。日本人の気持ちを素直にうたいあげている・・・等々さまざま。
 そして、一方、江戸時代には、
 「伊勢へ行きたい、伊勢路が見たい、せめて一生一度でも」と物見遊山をかねたお伊勢参りに賑わった時代もある。
 こんな気持ちがいくつもないまぜになって、伊勢にお参りする。私の年代(昭和ヒトケタ)、伊勢神宮、天照大神は天皇へとつながる皇国史観の中で育つものにとっては、やはり「なにごとの・・・・・・」感情が潜在的に残っている。
 宇治橋を渡る前の由緒書きの掲示板がある。
   皇大神宮(内宮)
 御祭神 天照大御神
 御鎮座 垂神天皇二十六年

 天照大御神は皇室の御祖神であり、歴代天皇が厚くご崇敬になられています。
 また私たちの総氏神でもあります。
 約二千年前の崇神天皇の御代に皇居をお出になり、各地をめぐられたのち、この五十鈴川のほとりにお鎮まりになりました。
 二十年ごとに神殿をお建て替えする式年遷宮は千三百年続けられてきました。今回の御遷宮は平成五年十月二日に行われました。
 
いよいよ、内宮へ。宇治橋を渡る。
 宇治橋をわたり、玉砂利を踏む感覚は、緊張感をさそう。数々の燈籠はすでに、木の香もかおるほど新しく、鳥居も遷宮にあたり、古い正殿の棟柱を譲りうけたもの、古くなった鳥居は、地方の神社へと引き継がれていく・・・といった合理性に肯く。
大正天皇御手植松を右に参道を、第一鳥居へ。
鳥居(神名鳥居は、最も古い)
 鬱蒼たる森の中に、今、遷宮の工事も残すところ1ヶ月、白い作業服の方々が、真剣に、土木、建築の作業に勤しんでおられた。
御稲御倉
 神宮神田で収穫した稲を納める。この社は、唯一神明造りで、お米の神様、稲魂が祭られている。
手水舎。20年経過している。
 
 伊勢神宮の正宮の社殿の中心は正殿と称され、内外宮とも5重の垣板に包まれ、唯一神明造の古代の様式を伝え、萱葺の屋根には10本の(外宮は9本)鰹魚木がのせられ、4本の千木の先端は水平に切られている。
 この正殿を取り巻く空間は、日本で唯一最高に清浄、神聖、そして神々しい空間であろう。
 この様な様式が完成されたのは、明確でないようだが、弥生時代の、掘立式高床穀倉から発生したものであろう。清流の五十鈴川、鬱蒼たる森林の自然と調和し、簡素ながらも古代木材建築の粋を集めた建築は、日本の原文化の真髄であろう。
 伊勢神宮の神域は広大ではあるものの、そこに集う神々の数もすごい。
 内宮の皇大神宮と外宮の豊受大神宮の本宮が2宮。この2宮に所属する別宮(内外宮の近親の神)が14宮、その外に摂社43社、末社24社、所管社42社、合計125社がおわします。これらは時代とともに増えたのだろうか、五十鈴川周辺以外に沖積平野と山岳地帯にまで拡がっている。
二礼、二拍手、一礼を終え、
静かにお帰りになる。
新しい社殿に手を合わせる。
 
 次に、技術伝承論として、例えば、この神明造りを繰り返し、正確に再現する技術を習得するには、下働き20歳まで、40歳で中堅、60歳で棟梁となる。従って、20年毎に新築するのが最適の期間であると。
 一方、古代人は手足10本ずつ、合計20本だから、20年以上は数字として数えにくかったから・・・
 もうひとつ、最近注目されている学説として、
 「20年という制度化は、古代に使われていた暦法と、現代の旧暦で、20年に1回、元旦と立春が重なる。そのめでたい年に遷宮をしたのだろうという説」がある。
 素人にもなにか肯けるような興味ある説と思われ、さらなる研究で解明されんことを期待したい。
 
 私にとって、3回目のお伊勢参りであったが、もう一度考え直してみると、伊勢神宮のスケールの大きさ、その歴史と継続性等に驚嘆した。まず、土地、建築物は勿論のこと、長い歳月の中で、遷宮とともに、日常の神事、朝前夕前の大御饌、祭、歳旦祭(1月1日)、建国記念祭、年間最大のお祭りとして神嘗祭等々の行事を、伝えられた様式を守りながら、毎日毎日を、毎年毎年を、伊勢神宮を守っている人々がある。
 ほんの1~2日でのお伊勢参りで、その伊勢神宮を知るのは勿論、無理であるが、あらためて、日本の歴史の中にあって、天皇の存在(天照大神から平成天皇まで、日本の政治、経済的動乱を乗り切り、今日まで、存在していること自体に、意義がある・・・とあらためて考えさせられている。
 
 三日目のお昼には終了。“おかげ横丁”で食事を楽しみ、買い物を終え帰路に着く。
 おかげさまで、内宮、外宮を礼拝し、清々しい体験をした。日本の歴史の中での伊勢神宮について、常に関心を抱き続けていきたいと念じている。
参考文献
「伊勢神宮 森と平和の神殿」 川添登 著 筑摩書房
「伊勢神宮」 所功 著 講談社学術文庫