私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 でんじろうコラムへようこそ。
 
 会長職から相談役へ。
 何か、肩の荷を降ろしたような気もするが、入社以来、中小企業、とくに同族会社の経営はどうあるべきか、が念頭を離れなかった。
 たまたま昨年、このことについて日経新聞の記事が目にとまった。
 
同族会社の経営
 
(一)同族会社とは
 そもそも、同族経営といっても、商法上はレッキとした株式会社である。漠然と「創業者一族が株式を持ち、経営の実権ももっている会社」、いわゆる所有と経営が分離していない会社のことで商法上の規定はない。税法上、租税負担を軽減する恐れがあるので、特別な規定が定められているだけである。
 折にふれ、同族会社の経営の在り方にふれた論説を見つけようとするが、なかなか適当な文献に接することがなかった。
 平成25年3月18日、日本経済新聞の「経済教室」に東大教授柳川範之先生が次のように主張されたのを拝見、同族会社の経営の在り方を整理することができた。
 「同族企業の利点に注目、暴走防げば好業績も」
 
 まず最初に、いわゆる同族企業(family company)の成功例としては発展途上国のみならず、先進国であるアメリカにおいても非同族会社より業績が良いこと、カナダの学者が日本のファミリー企業が相続された場合に、相対的に業績がすぐれているとの調査結果(調査員の中に日本人は含まない)を紹介されている。
 柳川教授は、一橋大学の宍戸善一教授とともに、日本の老舗ファミリー企業の特徴を検討され、そこから浮びあがったのは、通常とは異なった仕組みによるガバナンス(統治)である、と次のように述べられている。
 
1.非金銭的なインセンティブ(誘因)が強い
 同族企業=世襲企業は、社員や外部から経営者を登用した場合より、業績が落ちると言われていた。しかし、企業を引き継いだオーナーであるだけに経営にあたって、後の世代に引き継がせようと強いモチベーション(動機づけ)を持ち続ける。従って、短期的な利益より、長期的、持続性を重視する。
 
2.家訓
 成功している老舗企業には、いろいろの家訓があるが、多くの場合、柔軟な家訓である。経営者を律するのは金銭的報酬だけでなく、社内文化などの非金銭的動機が重要なことは、近年重要視されている。
 
3.時代への適合性
 しかし、この家訓が硬直的であれば、後世の環境の変化に対応できない。時代の変化に対応して変化できる柔軟性を備えていることが重要である。
 老舗企業といえば、伝統を守るために硬直的な経営をしていると思われがちだが、多くの同族企業は、オーナーの意思決定が迅速である一方、在任期間が長く、長期的展望ができている。
 
 以上、柳川教授は「成功しているファミリー企業」の特徴を挙げておられる。
(二)宮島の経営は
 ふりかえって、宮島のルーツは七世宮島傳兵衞である。傳兵衞は幼にして祖父清左衛門傳兵衞から宮島家を引き継いだ。家業であった宿屋・料理店にもの足らず、石炭の売買を計画し、購入したばかりの大型船大麻丸で明治9年海軍省御用石炭を横須賀に納品後、翌10年その帰路遠州灘にて遭難する。その悲運から、安定し且つ新しい業種として醤油醸造業を思い立ち、石炭と醤油を両立していく。
 したがって、柳川教授が言われる非金銭的イニシアチブ(誘因)というより、起業家的精神の発露ともいうべき心意気だったであろう。
 その後、醤油工場の火災に負けず、直ちに23日間で修復、泰然としていた。
 一方、自らを律するに、営業面では誠に行動的。大阪、神戸、佐渡、関東等々、東奔西走、南船北馬の活躍。その営業力は抜群、浅野氏はじめ交友関係も広い。金銭的には自らもちろん、従業員には厳しく接したが、反面、必要なものには、大胆に、十二分に活用していた。(当時の従業員の談話より)
 このような雰囲気、華美を嫌い、実をとる。まさに社是“去華就実”であったようだ。
 さらに、機を見るに敏。石炭はリスクを伴うと思ったのか、石炭の採掘には深入りせず、もっぱら輸送、松浦川の川船で下す商売で利益を生む。
 その川船が唐津線の鉄道に押される頃、日露戦争前後、特に戦後、明治35~40年頃、醤油の販売が急伸し、明治15年創業した醤油工場が実を結ぶ。その炯眼には敬服させられる。幾多事業に携わっているが、石炭で築いた人脈を活かし、醤油へと「連続性のある転換」を遂げていく。
 こうして、明治から大正へ。宮島商店は合名から合資会社、さらに大正7年(1918年)に株式会社へと形を整える。
 
 七世傳兵衞の跡を継いだ、徳太郎は父七世傳兵衞に劣らず、起業欲旺盛、石炭採掘、地元唐津に金融機関の設立、北九州鉄道株式会社(現在の筑肥線)へ出資する一方、現在の宮島商事株式会社が取り扱っている産業火薬、雷管の販売を始めている。また、醤油工場を水主町から現在の場所へと移転し、直方、戸畑、長崎での支店開設も徳太郎の手によっている。
 しかしながら、大正末期から昭和にかけての不況に自らが手がけていた炭坑が赤字、筑肥線もいまだ完成せず、志半ばにして病没。
 跡を継いだのは、現在の傳兵衞(相談役)の父傳兵衞(甲子郎)である。
 
 父、傳兵衞は、宮島商店の負担になっていた、石炭鉱業、鉱業権、筑肥線への出資等を売却し、宮島商店の身辺を整理し、再建へ。
 このときの父傳兵衞の意志がどうだったか、母も亡く、記録もなく推測するほかはない。ただ、父は筑肥線の中で「宮島商店は石炭の採掘をやめれば金を貸すのだが・・・」という銀行員らしい人の噂話を聞いて、直ちに炭砿を手放したしたとのこと、こんな努力を重ね、危機を乗り越える。客観情勢としては、日本経済は、富国強兵の旗印のもと、経済力は増強していったであろう。このあと第二次世界大戦へと進むのだが、少なくとも昭和10年頃までは成長過程にあったろう。
 宮島商店はそのまま、第二次世界大戦を迎える。
 
 父、傳兵衞は昭和17年8月26日、夏の風邪を再発、肺炎であっけなく逝去。
 当時大学2年であった、現在の傳兵衞相談役(潤一郎)が社長に就任する。爾来、戦時下は叔父宮島庚子郎が専務として社長傳兵衞を助けるが、両人とも召集、その間は、支配人に留守を立派に守っていただき、昭和20年8月15日を迎え、戦後となる。
 当時はすべて統制時代、物資欠乏の時期を乗り越え、食糧公団も廃止され、自由競争の時代へと歳月は流れる。
 現傳兵衞相談役の在任期間は、昭和17年から現在まで72年(社長在任は57年)であり、宮島が明治15年に醤油醸造をはじめて132年、そのうちの約2分の1以上になる。
 このコラムの冒頭、柳川教授が同族会社の成功条件のひとつとして、非金銭的インセンティブ(誘因)を挙げられているが、実に70年を超える歳月をそのモチベーションを落とさず、矍鑠(かくしゃく)とされていることに敬意を表している。
(三)ファミリー企業への警告
 最後に柳川教授はファミリー企業に警告を発しておられる。
1.ファミリー企業の迅速な意思決定は拙速と紙一重の差である。オーナー企業は暴走しかねない。
2.また、少数株主や従業員の利益を搾取するような形でオーナー一族の利益を増大させる暴走や不祥事は当然問題視されなければならない。
 以上、同族(ファミリー)企業の在り方になぞらえて、宮島醤油の130年余の歴史をたどってみた。恐らく、数多くの幸運にも恵まれてきたのだろうが、歴代の社長の真摯な経営と従業員、関係者の絶大な協力のもとに、今日に至っていることに感謝の意をこめつつ、筆をおく。
追記
 また、資本と経営の分離、コーポレートガバナンス(企業統治)、さらにエージェンシーコスト(代理機関=エージェンシーに仕事などを委託する際に生じるコスト)については割愛しましたことお許しください。