私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 でんじろうコラムへようこそ。

 7月、梅雨から盛夏へ。そして、8月15日、終戦の日は69年目を迎える。僕が育った15年間は全く戦争の連続だった。
 
15年戦争(その2)
 
一 日支事変
 6月のコラム(前回)は、昭和元年から昭和10年まで、年表を繙きながら、考えてきました。この昭和ヒトケタの10年間に日本は世界の大恐慌に堪え、金融危機を乗り切りながら、昭和8年には満州事変へと苦悩の10年を経過している。
 その後の日本に大きな転機をもたらしたのは、多くの人々は、昭和11年2月26日、いわゆる「2・26事件」であると指摘する。
 私は、昭和5年1月生まれだから、その1ヶ月後、昭和11年の4月に外町小学校の校門をくぐっている。
 「陸軍の若い兵隊さんが、政府の偉い人を殺して・・・」ぐらいのことは聞いたかもしれないが、子供心には全く記憶はない。
 日常の生活も、満州事変の頃から3~4年経過しているのだが、何も変わらず広い校庭を走り回っていただろう。
 やや長じて学校で「今度の総理大臣はコノエさん(近衛文麿)という殿様だった人だよ」と聞かされたことは、耳朶に残っている。
 今、歴史書を開くと、「昭和12年6月4日、第3次近衛内閣、成立」。新内閣設立後、わずか1ヶ月後に、「昭和12年7月7日北京郊外盧溝橋で日支両軍衝突し、日中戦争がはじまる」と。
 満州国建国後、日本(関東軍)は満州と中国、北部へと侵略を続けたため、この地区の日中関係には一触即発の険悪な空気が漂っていたのである。この盧溝橋事件に際しては不拡大論もあったが、すでに陸軍の強硬論はもとより、新聞、ラジオ、ひいては一般国民の中にあっても積極論が多く、華北への派兵を決定、全面戦争へと傾き、戦火はさらに上海、南京へと拡大していく。(この年の12月南京の大虐殺が発生している。)
 
 この戦火が広がる中、政府は「国民精神総動員実施要綱」を決定、軍備費の調達の特別会計をはじめ、輸出入の措置等、対策をとるとともに、「国民精神総動員運動」を開始する。政府・マスコミは「暴支膺懲(ぼうしようちょう:乱暴な支那を懲らしめよう)」と称し、今度の事変(戦争)を聖戦とし、「挙国一致、尽忠報国、堅忍持久・・・」のキャッチフレーズを掲げ、戦意を盛り上げようとする。
二 日本の國体、奉安殿
 当時、私は小学校2~3年生。何とはなしに、戦争の雑音を肌で感じるようになる。
 外町小学校に“奉安殿”が建てられたのは、この頃だったろうか。外町小学校はゆるい坂道を数十メートル歩くと正門の広場の左側に(宮島公園の裏側)、高さ数メートルの石垣の上に神社風の天皇陛下の御真影(写真)をお祭りする奉安殿が作られた。当時の外町小学校は児童数約600人、国の祝日、新年拝賀式、天皇節(天皇誕生日)、紀元節(建国記念日)、明治節(文化の日)等には、校長先生の訓示、東方(宮城)遥拝の式があった。
 思い出すのは「教育勅語」。校長先生が一歩一歩、階段を登られ、開扉、天皇陛下の御真影が見える。箱に入った教育勅語(明治23年10月30日発布)を重々しく取り出され、朗読される。
 一同低頭して、「朕惟フニ我ガ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト・・・」と、うやうやしく読み上げられる。児童は頭を垂れ、静かに聞き入る。「ギョメイ、ギョジ(御名、御璽)」と終われば、「ナオレ」で漸く頭を挙げる。
 当時は大日本帝国は「天照大神の神勅を奉じて万世一系の天皇が永遠に日本を統治する。・・・この大義に基づき、一大国家として億兆心を一つにして、克く忠孝の美徳を発揮するのが我が國体の精華である。天皇は現人神(あらひとがみ)であり、われわれ日本民族は世界で冠たる民族である。
 だから、一徳、民族が心を合わせれば、必ず戦争には勝つ・・・」と。
奉安殿の跡
 当時の奉安殿は、戦後早い時期に撤去され、その跡は汚水処理施設になったと聞いている。この写真は私の外町小学校卒業記念写真。右側の後方に奉安殿の扉が見えている。(昭和17年3月の写真である。筆者は最後列中央部)
 
 今、こうして当時を想い返してみれば、10歳前後の児童には、批判する能力もなく、他によりどころなく、放課後には“戦争ゴッコ”に戯れていた。
三 愛国行進曲
 こんな堅苦しい雰囲気を察してか、政府は「愛国行進曲」を募集した。その目的は国体観念を高潮し、士気を昂揚する威厳あるもの」を募集。締め切りは、昭和12年10月20日、応募数、実に57,576首の中から厳選の結果、新しい国民歌が誕生する。
 愛国行進曲
 作詞 森山幸雄(鳥取県詩人) 作詞 瀬戸口藤吉(軍艦マーチの作曲家
一.見よ東海の空あけて  旭日高く輝けば
  天地の正気溌剌と  希望は躍る大八洲
  おお晴朗の朝雲に  聳ゆる富士の姿こそ
  金甌無欠揺るぎなき  わが日本の誇りなれ
二.以下略
 
 この歌は、昭和13年いまだ15年戦争の初期でもあり、明るく爽快な行進曲である。覚えやすく、広く軍隊、国民の間でもよく歌われていた。因みにレコード会社の6社から売り出され、たちまち100万枚売れたという。
 70年前の歳月が経つが、今なお、口ずさむことができる。
 しかし、この歌が流行すればする程、世の中の悪ガキどもは、すぐ替え歌をつくる。「見よ、父チャンのはげ頭、よくよく見ればヒゲ3本・・・」と茶化す余裕もあったようだ。
四 皇紀2600年、昭和15年
 昭和8年の満州事変から昭和12年の日支事変と時が進み、小学校3年、4年生頃までは、大人の社会も理解できず、遊びに熱中していたが、昭和15年、小学5年生のとき、担任の先生が日支事変に召集令状をうけられ、出征された。日の丸の旗を振って送る。いやでも身近に戦争を意識せざるをえなくなる。
 とともに神武天皇がこの国で即位してから123代の昭和天皇まで、昭和15年は2600年にあたる。この年は随所に皇紀2600年のポスターが目についた。
 私の年代、ちょうど10代の純真な少年にとっては、いやでも燃え上がるものである。その国是とするところは、「八紘ヲ一宇トナス肇国ノ大精神」で世界を作るのだ。天皇を中心とするのが日本の理念であると説く。
 八紘とは四方と四隅(世界)、一宇(家)、即ち、世界を一の家とする。
 その精神に基づいて、日本の国論を一元化しようと「大政翼賛運動」を起こし、政治団体、農民団体、労働組合まですべての階層の人々が、この翼賛会に入会することになる。
 昭和15年に文部省は「皇国2600年史」と「國体の本義」を発行。国民の教化に全力をあげることになる。
 昭和15年、皇紀2600年は私は小学5年生。「八紘一宇」というった難解な4字熟語も何度か聞いているうちに理解できた気持ちになり、体位向上と体育に夢中になり、真面目な少年だった。とくに体育は相撲とともに鉄棒に熱中、大車輪の大技をこなす程、進歩していた。
 今、当時の10~11歳の少年がどんな心境であったか、素直に冷静に客観視することはできかねる。というのも、70年余の歳月はいくら努力してもその後の人生が影響しており、当時の心境を再現することは、不可能かもしれないだろう。ただ、当時皇国史観を、オカシイなと思いながらも、無心になって信頼していた12歳の少年時代を“いとおしい”気持ちで眺めている。
 思うに、当時はすでに国全体が陶酔状態に陥り、昭和16年12月8日の第二次世界大戦、参入の日を迎えることになる。
 引き続き、次号へ。
参考文献
「父が子に語る日本史」 保阪正康 著 ふたばらいふ新書
「昭和の教訓」 保阪正康 著 朝日新書
「あの戦争と日本人」 半藤一利 著 文芸春秋
「戦争観なき平和論」 保阪正康 著 中央公論新社
「定本 日本の軍歌」 江口圭一 著 小学館