私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 でんじろうコラムへようこそ。

 暑い夏を迎える。
 8月15日は終戦の日。今年で69年、来年は70年。長い年月が経過したが、当時15歳の少年にとっては、今なおその日のことは、鮮明に脳裡に刻み込まれている。
 
15年戦争(その3)
 
一 昭和16年 日支事変から第2次世界大戦へ
 この年、昭和16年4月から、尋常小学校は「国民学校」と改称される。従って、私は「唐津市立外町国民学校6年生」となる。当時、何故国民学校になったのか、考える余裕もなく、満州国が生まれ、中国北部への進出も順調に進んでいるとばかり思い込み、伸びざかりの少年時代を満喫していた。
 今となって当時の歴史を繙くと、昭和12年に支那事変が勃発して5年、陸軍の内部には厭戦気分が漂っていたという。そのため、昭和16年1月に当時の陸軍大臣東條英機の名で陸軍の内部で「戦陣訓」なるものが、示達されている。その目的は、軍紀の粛清、一兵士としての倫理や規範、家族と郷土の輿望を担っているとの一体感を醸成しようとしたもので、簡潔な文章で綴られ、当時の陸軍のみならず、一般の人々にまで普及し、いよいよナショナリズムが、涵養されていたのである。
 例えば、敬神、孝道、敬礼、挙措、戦友道、率先窮行、責任、死生観と続き、一般によく知られているのは死生観、死を恐れるな、生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿かれ・・・と日本の兵士は窮極の瞬間まで戦い続けよと教え込まれていく。
 当時の軍部内は支那事変が長くなれば長くなるほど、兵士の疲労が重なる中、再度士気を高めようとするための「戦陣訓」であった。
 こんな話がどこからともなく、耳に入ってくると、少年たちの気分は高ぶってくるときがあった。
二 開戦、昭和16年12月8日
 「戦陣訓」が叫ばれるようになり、日本と米英両国の間が険悪な様相を呈してくるのは昭和15年9月の「日独伊三国同盟」が締結された頃からである。この条約では、仮想敵国はアメリカである。これ以前の日独防共協定のソ連からは大きく転換した。
 しかも、日本は日独伊三国同盟を結ぶ直前に強引に北部仏印(現在のベトナム)へ武力進駐したため(昭和16年7月)、米国は日本に対抗して、8月以降、綿と食料を除き、航空機用の石油をはじめ一切の輸出を禁じた。英、蘭も米国に従い、いわゆるABCD包囲網に囲まれ、日本は苦境に立たされる。
 その後も日米は交渉を続けていくが、すでに対立は深刻となっており、そして、運命の12月8日を迎える。
 
 当時、国民学校6年生の少年は日本と米国の仲が悪くなっていることは肌で感じつつも、遊び盛り、好きな相撲に熱中し、体位向上のためと称していろいろな大会で活躍したものである。
 12月8日、当日の朝はかなり冷え込んでいた。少し早めに登校したところ、すでに10数人の友人たちが廊下にたむろして、大声で話し合っていた。
 “ついにアメリカと対戦たい。”
 “絶対勝つサイ”と興奮気味、いきり立っていた。
 
 しかも緒戦での真珠湾攻撃、特殊潜航艇の功績、シンガポールをはじめ東南アジアへの進撃を伝えるNHKのラジオの“大本営発表”のニュースに酔いしれていた。
 そんな雰囲気の中、昭和17年(旧制)唐津中学を受験、内申書と口頭試問だけだったので、晴れて古い校門をくぐる。
 1年の1学期の夏休みも終わろうとした8月26日、父が夏風邪をこじらせ、あっけなく死去、はじめての肉親との離別は中学1年生にとってはやはりショックだったのだろうか、2学期の中間考査には成績が大幅ダウン、先生に励まされ立ち直る。
 一方、中学1年生の秋から、農村の人手不足から稲刈りの応援、以後、麦刈り、田植えをそれぞれ勤労奉仕、また学業の方も英語の授業が減り、軍事教練が増加する。
 また、日常生活も衣料、食糧、その他日常品も少しずつ不足となっていく。
 
 戦闘の経過をたどっていくと
昭和16年12月~ 勝利・・・ 真珠湾攻撃、シンガポール陥落
17年6月~ 挫折・・・ ミッドウェイ作戦失敗、山本五十六戦死
18年8月~ 崩壊・・・ ガダルカナル作戦敗退
19年1月~ 解体・・・ アッツ島玉砕、アメリカの物量作戦、サイパン、レイテ島
20年3月~8月 降伏・・・ 東京大空襲、沖縄、原爆へ
三 学徒動員生活
 以上の戦争の期間の3年8ヶ月は、中学1、2年、3年1学期までは勉強できたもののそれ以降は勤労学徒動員が続く。
 
 最も印象に残っているのは、中学3年生の昭和19年8月11日である。
 当日から、私たち唐津中学3年生は佐世保海軍施設部へ勤労動員を命ぜられ、長崎県南風崎(現在のハウステンボスの入口付近)の土木工事に従事する予定であった。
 ところが、前夜から末弟恭四郎の病状が悪化、当日未明、息を引き取る。このため、集合時刻より約30分早めに唐津駅に出向き、引率の先生に事情を報告。先生から数日間の休暇を頂き、後日、参加する。その後数日して担当現場が変更、佐世保の鷺之浦へ、港湾関係の土木関係に従事した。
 炎天下の作業ではあったものの、時間的余裕もあり、ときには数学、漢文、化学と担当の先生から簡単な授業をしてもらった。はじめて10数人ひと部屋の生活だったが、若いからか、事故もなく勤務。
 この勤労動員は12月17日解除。4ヶ月の勤務を終え、一時、唐津へ。
 
 その翌年、昭和20年に入り、2月20日、今度は大村第21航空廠へ。この工場は東洋一の航空機製造工場と称していたが、昭和19年、アメリカ軍の空爆により全壊(この空爆で唐津中学の1年先輩の2名が死亡)、すべて山間に分散されていた、植松の宿舎から片道数10分、それに10時間の過酷な労働、休日は2週間1回。
 しばしば、空襲警報、警戒警報、・・・その度に防空壕へ、3交代だったので、昼間に機銃掃射まで体験する。
四 昭和20年8月15日
 この動員生活を続けること6ヶ月。
 昭和20年8月15日午後、工場の前の広場に工場単位毎に集会、天皇陛下の玉音放送を聴く。雑音の中、やや高音の陛下の声だけは聞こえてもその意味はまったく分からず、工場長(海軍技術将校)が「戦争に負けたんだ」という意味の説明でやっと理解したのだろう。当日山間の工場を下りながら、友人と語り合ったが、今からどうなるのか、どんな国に、どんな生活になるのか・・・、全く想像がつかない。“ただ茫然”、頭の中は真白というのはこのことだろう。
 翌日「唐津に帰られる」という安心感、こんな厳しい作業と生活から解放される安堵感あるのみ。
 我が家に帰るが、空ッポ。隣の親しくして頂いていた小父さんに尋ねると、母と家族は田舎に疎開、さらに「山瀬」という高地まで逃げている。翌日その山瀬まで、お米を届けて下山。その後漸く家族一同、唐津の我が家へ兄傳兵衞帰宅。
 動員中に中学4年生に進み、漸く9月1日の第2学期に登校。軍関係に修学していた友人たちも学校に戻り、戦争は敗戦に終わったものの、若いだけに気持ちを転換することも早かった。
 終戦後の授業は、英語、数学、物理、化学のみ・・・
 今なお鮮明に記憶にあるのは、森校長の英語の授業の第一声が、アメリカを動かした名演説、
 「government of the people, by the people, for the people」
 (人民の、人民による、人民のための政治)だった。
 ここで、15歳の少年の胸に、戦争が終わったことを実感する。民主主義とは何かは当時全く理解できていないにもかかわらず、感情、Feelingとしては何かを感じていた。
五 むすび
 昭和6年の満州事変勃発から昭和20年まで15年間、ときどきのエポックとなる事象をたどりながら、自らの人生を重ねた感想文となった。
 歴史の年表をたどると、少しずつ、日本は戦争へのめり込んでいったことが理解できる。昭和5年生まれだから、記憶としては昭和12年の日支事変から何となく肌で感じていく。歴史を振り返ると皇紀2600年(昭和15年)、日本の国体、皇国史観への自己陶酔に耽り、単純素朴な時間と空間が生まれ、戦争という落とし穴に落ち込んでしまっていた。当時、客観的な観点、冷静な判断が欠如したとしか言いいようがない。
 現在、集団的自衛権について、冷静沈着に論争されている。今は仮定の論議だが、現実に日本として判断せねばならぬ危機がおとずれたときこそ、慎重、正確な判断、行動ができる国民でなければなるまい。
 最後は少々、堅苦しい議論になりましたこと、お許しを。
参考文献
「昭和の教訓」 保阪正康 著 朝日新書