私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 でんじろうコラムへようこそ。

 ここ数か月、15年戦争をたどりながら、自らの幼い時代をたどってしまい、つい堅い「読みもの」になったようです。
 今月は、肩の力を抜いて・・・と思って綴りました。気軽に読んでいただければ幸いです。
 
「食」随想 戦前から戦後までの食糧事情
 
一、西瓜(スイカ)の思い出
 漸く、もの心がついた頃、炊事場をのぞくと、四斗樽に大きなスイカが、プカプカと水に浸っている。
 「今日のおやつはスイカだ」とほくそ笑む。
 私たちの兄弟姉妹は、4男5女、合計9名(うち末弟は夭逝、現在は8名)その真中、5人目が私である。最年長と最年少の差は約20才。
 お昼すぎるとほぼ全員集合、母は襷掛け、大きなスイカを取り出し、スイカ割にかかる。幼い子供たちは固唾を呑みつつ、見つめる。包丁が入り見事に真二つ。真っ赤に熟れている。
 それからもう一度、包丁を入れて4切れへ。
 その後は幼い子供から順々に切り分ける。年齢順に適当に厚くしながら、それぞれ○○チャン、△△チャンと手渡す毎に“ワァ”と喜びながらカブリつく。
 夏の日の、ささやかな一家団欒のひとときである。母はうまく一切れの厚さを考えながら、年齢に見合った厚さに切り分けていた。
 型は変わらず、その厚さで量を調整していたようである。
 小3~4年頃、戦前の夏休みの楽しい思い出の一コマ。
二、お弁当から学校給食へ
 小学校3~4年生の頃から、弁当持参の通学となり、学校での昼食は待ち遠しい。
 30~40人のクラスで先生も一緒に“イタダキマース”!
 今日のおかずは何だろう?と楽しみだった幼いころが懐かしい。
 好物の“メンタイ”が一切れころがっているだけで十分。空腹だから、隣の友人の弁当のオカズなどのぞく時間もなく、記憶は全くない。
 “ゴチソウサマでした”!と手をあわせるや否や運動場へ一目散、思い切り遊んだ。
 当時は、アルミの弁当箱が多かった。梅干しが入った“日の丸弁当”は、梅干しの酸のため、少し使うとアルミが傷んで穴が空く・・・何か淋しい思いがしたものである。
 中学に進学すると食べ盛り、弁当箱が大きくなっても足りないくらい。遠くからのバス、汽車通学の友人たちはお昼まで待てずに2、3時限後には“早メシ”が流行していた。
三、勤労学徒動員中の食事
 中学3年の8月から3か月、中学4年は3月から8月までそれぞれ団体生活、朝夕は食堂での食事である。食べ盛りの少年たちである。おいしい、まずいという前に満腹するかどうかであった。もちろん、米に大豆、麦が混ざっている。
 食事の時間になる前に当番が一人1テーブル7~8人ずつ各自のお茶碗につぎわけることになっていた。あるとき、早めに食堂に行くと、当番のH君がつぎわける作業中だった。何気なくその様子をみているとひとつの茶碗だけにご飯を多量に詰め押さえている。その後、表面はみんな同じ量に見えるようにしてある。よく見ると、自分の分だけ多量に、ということの様だった。
 私は、思わず声をかけようとしたが、思いとどまった。彼に恥をかかせるだけだ・・・もしかしたら自分も自分の分だけ少しでも多くしたい――そう考えているうち、食事はそのまま間もなく経ってしまった。
 今を去る、70年前の私だけの記憶。その友人はすでに逝くなっている。何か、もの悲しく私の胸の中にしまっておくべきだったかもしれない。
四、戦中、戦後の食糧不足
(一)昭和20年8月15日、終戦を告げる玉音放送をきいて、当時の日本人は、しばし呆然、今からの日本がどうなるのか不安に包まれていた。
 空襲警報も警戒警報もない、安心感はあったが、さて、少し落ち着いて考えてみると食糧はあるのか・・・
 私は“唐津”という環境に恵まれていたものの、戦後1年くらいは近郊の農家の人たちを頼って、お米やさつまいも等を少しずつ分けてもらっていた。母、姉とともにいわゆる“買い出し”に行った記憶がよみがえってくる。唐津でも、食糧に難儀するのだから東京をはじめ、日本の主要都市はほとんど壊滅状態、そこで生活する人々の窮乏生活は、想像を絶するものがあった。
 
(二)憲法改正か、食糧配食か
 昭和21年6月の帝国議会に、吉田首相は「我が国は、民主主義的平和国家建設という大事業を控え、目前の問題として出来るだけ速やかに食糧問題を解消せねばならない」と述べ、早急に食糧問題に取り組むことを宣言する。平たく言えば、「憲法より“めし”」だ。戦争放棄や基本的人権よりも「3合配給」が国民の切なる要求であった。
 昭和15年から主食は配給制度になっていた。終戦直後の大都市の成人男子の配給量は、1日297g(2合1勺)、しかも、じゃがいも、さつまいも、大豆、脱脂大豆が配給されるとその分だけ減らされる。また、野菜には1人1日75g、魚は4日に1度イワシ1匹程度、カロリー計算すると1200キロカロリー、この配給量では生活できない。都市では、焼跡地、空地で野菜つくったり、または闇市場で不足分を補わざるをえなかった。
 さらに農家は戦時中の無理な供出がたたり、供出をしぶり、そのうえ石炭不足のため輸送量が減少し、遅配まで重なり食糧不足は深刻化する。
 こういう苦境をみて、吉田首相は昭和22年3月、自ら総司令部と交渉し、62万トンの食糧の放出を受け、この危機をしのぐ。
 続いて、昭和21年11月~22年10月までの1年間の放出量は主食代替品として161万3315トン、缶詰4万3474トンにのぼり、徐々に食糧事情は回復してくる。この占領軍の食糧放出量はその後の日本人の食生活にどんな影響を与えただろうか。その論議は別として、配給事情が好転し始めたのは、昭和23年11月頃で、漸く1人あたり383g(2合7勺)約3合の配給ラインに近づき、徐々に混乱は治っていく。
 
(三)高等学校での寮生活
 日本国中が空腹をかかえていた頃、私は昭和21年9月に福岡の高等学校(旧制)に入学、2年間の寮生活を送った。寮の食事では、勿論不十分。朝、食堂に行くと、直径3~4cm、長さ10cmくらいのさつまいもが1本、大きなお皿に転がっていた。それでも、「弊衣破帽」のバンカラ高校生としての青春を謳歌していた。汽車で約2時間くらいだから、毎週唐津の実家へ。一週間分の食糧を大きなリュックに背負って仕入れ、飯盒で煮炊き、満腹すれば、友人、先輩とともに談論風発、時には寮歌、乱舞・・・・その上、部活ではバレーボールと青春三昧の日々は今なお楽しく追憶している。
 入学した年の10月だっただろうか、学校の授業が約1週間休みとなった。実家に帰って、体力をつけて来いとの趣旨である。およそ、今日では考えられないことだろう。
 しかし、先に述べたように、昭和23年の年末頃からは念願の3合配給に近づき、安定をしてくる。
 今、かえりみると、食糧難に喘いだのは、昭和17年頃から昭和23年頃まで、約6~7年だった。これもすべて戦争が原因であることは明白である。しかし、その期間のうち昭和21年の食糧メーデーは、政治の不安と重なり、大衆運動から革命運動へ発展しかねない雰囲気であったが、当時、マッカーサーはこれらの活動に「警告」を発し、事態は収拾されている。
 現在の食生活を静かに考えると、戦前戦後の耐乏生活は、まさに「今昔の感」驚くのみ。今は全く、幸福なものである。
参考文献:「日本の歴史26 よみがえる日本」 蝋山政道 著 中央公論社