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(左)昭和初期頃の赤獅子
(右)現在一番曳山赤獅子製作の直接の動機は刀町の木彫師、石崎嘉兵衛がお伊勢参りの帰りに京都祇園山笠を見て感動して帰郷の後、大木小助らと計画し、塗師、川添武右衛門らと共に曳山を造り、唐津神社に奉納したとされています。
赤獅子は製作されてからは江戸時代に1回、明治になって2回、昭和に3回の本格修理を経ていますが、今でも、当初の姿をよくとどめています。曳山全体の総高5.2メートル、総幅2.9メートル、総奥行き4.4メートルもある巨大な漆塗りの芸術品です。
曳山行事記録をみると、例えば「曳山」の用語では明治31年に「山」、明治33年に「曳山」、明治38年に「山笠」、明治41年に「山車」、大正7年に「山笠」、昭和8年に「山」、昭和25年に「山笠」、昭和39年に「山笠」、昭和48年より「曳山」となっており、変遷がわかります。
一番曳山刀町赤獅子は、御幣曳山であり、御幣の作り方の記録も出ています。大奉書7枚と傘紙12枚を用い、鯨尺で測り裁断の方法まで細かく図示されています。明治31年には唐津神社所有地に曳山小屋用地5坪を購入され、明治33年には11月9日に曳山行事を行ったことや、大太鼓は大人、締太鼓は5歳以上の子供が別々に受けもっていたらしいこと、神祭の法被が差し子のネル裏の付いたやや厚手のものであったことがわかります。
昭和3年の塗替え時の1330円の見積書、昭和9年の九州沖縄市長会への曳山出動記録などのほか、興味深いものとしては、明治33年の神祭の曳出しに遅れた人への罰金が大手口まで20銭、新大橋まで50銭、新堀まで80銭であったことや、明治34年の曳き手を一戸に一人出すこと、代理人の場合は20歳以上の人と条件を付けていることなどは、今と違って曳山曳きの人数がなかなか集まらなかったことを示しています。
しかし、戦後になって曳く人が多くなって、曳き綱も今では当時の3倍くらい長くなっているといわれています。
また、神祭で曳山を収めたら法被を脱ぎ、和服に着替えてからごちそうをいただきに回ったそうです。これは、神祭1日目の御旅所まで法被を着用するという一番曳山刀町の伝統ともなっています。
神祭行事の御先をはらい清めながら曳き進む一番曳山刀町赤獅子だけに、伝統が強く今に伝えられ、神聖な中にもよく保持されているといえます。
資料提供:
写真協力:
唐津市
唐津神社
曳山展示場