「去華就実」と郷土の先覚者たち
第8回 曽禰達蔵
 
 
 明治4年(1871年)に唐津藩校英学塾「耐恒寮」ができた時、英語教師高橋是清は18歳、生徒のうち辰野金吾は18歳、他の学生の多くはそれより若かった。曽禰達蔵(そねたつぞう)は高橋より2歳年上であった。しかし曽禰が耐恒寮の中にあって落ち着いた雰囲気を漂わせていたのは、単に歳のせいばかりではなかったろう。下級武士階級の出身であった高橋や辰野と違ってインテリの出だったし、それに、20歳にして人生をやり直そうと耐恒寮の門をたたいた時、曽禰には既に常人の何倍もの人生経験があった。
明治30年代の曽禰達蔵
 
 
(1) 時代に翻弄された少年時代
 曽禰達蔵は嘉永5年(1852年)、江戸城下丸の内、大名小路の唐津藩邸に生まれた。父まさはるは藩主の傍に仕えて文筆を担当する役職(祐筆、ゆうひつ)だった。当時の唐津藩主は小笠原長国で国もとにあり、その世子(後継者)である長行(ながみち)が江戸にあって幕府の役人を務めていた。
曽禰達蔵は小笠原長行に気に入られ、10歳の頃から長行の小姓となる。長行は当時、徳川幕府の老中格として、外交を担当する幕閣を務めていた。今の外務大臣にあたる。後年、曽禰が記すところによれば、幕末の数々の外交事件、つまり生麦事件、下関発砲事件、鹿児島戦争などに際して外交交渉が頻繁に行われたが、江戸城内には外国人を入れなかったので、これらの交渉事は専ら外務担当幕閣邸で行われた。英国公使パークス(H.S.Parkes)、フランス公使ロセス(L.Roches、ロッシュとも書かれる)などが頻繁に丸の内の唐津藩邸を訪れたのを、曽禰少年は記憶している。
幕閣時代の小笠原壱岐守長行
 徳川幕府から明治新政府へと歴史が大きく動いたこの時期を、小笠原長行は旧体制の擁護者として振舞う。慶応2年(1866年)の第二次長州戦争に幕府軍指揮官として参戦し、長州軍の前に敗北する。次いで慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いを皮切りに、「戊申戦争(ぼしんせんそう)」と呼ばれる内戦が始まる。最後の将軍、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は薩摩・長州軍の前に敗走し、江戸城を退出したので、東京に明治新政府が発足する。唐津藩主小笠原長国も徳川慶喜にならって新政府に服従する。ここにおいて長行は徳川慶喜ならびに唐津藩と訣別する。幕府軍は彰義隊(しょうぎたい)を中心に上野の森で新政府軍と衝突する。
 この時、長行率いる幕府軍は、炎上する上野寛永寺より脱出した輪王寺宮(りんのうじのみや)を伴って東北に向い、常陸の国平潟から会津若松、次いで白石に達する。16歳の曽禰達蔵はこの軍勢の中にいた。白石において、輪王寺宮を盟主とする「奥羽越列藩同盟」政権が樹立され、総督に仙台・米沢両藩主、参謀に小笠原長行と板倉勝静がいた。東日本朝廷の誕生である。しかし明治政府の力は日増しに強まり、東北列藩は敗戦また敗戦という悲惨な戦いを余儀なくされ、奥羽越列藩同盟政権は僅か3ヶ月で崩壊する。会津若松城の落城に際しての白虎隊(びゃっこたい)の最期など、今に語り継がれる悲劇が次々に起こった。行き場を失った長行は榎本武揚の率いる幕府艦隊と合流し、海路函館へと向う。幕府軍は函館戦争において凄惨な最期を遂げる。しかし、この最後の戦いの場に曽禰達蔵はいなかった。
 小笠原長行が榎本武揚と共に、最後の決戦の地、北海道に向かった時、常に長行の傍にいたはずの曽禰達蔵は唐津に向っていた。長行が曽禰にそう命じたのだ。幕府軍の最期を悟った長行が曽禰の才能を惜しんだのだろう。主君から生きよと命じられた曽禰にとって、反政府軍指揮官の側近としての過去を持ちながら新政府の下で身を立てるという、生きにくい人生の始まりであった。
 
 
(2) 耐恒寮から工学寮へ
 明治4年(1871年)、唐津藩が藩校として英学寮耐恒寮を開設し、東京から高橋是清を招いた時、曽禰達蔵は第一期生として入学する。高橋は仙台藩の出身だったから、曽禰の立場を理解した。翌年、高橋が東京に戻るにさいして、曽禰は同行し、高橋家に住み込みとなる。翻訳などのアルバイトを紹介してもらいながら勉学を続ける。明治6年(1873年)、工学寮(後の工部大学校、東京大学工学部の前身)の第一期生入学試験が行われ、曽禰はこれに合格して寮生となる。
 若くして歴史の激動を体験した曽禰は、歴史家になることを夢見た。しかし、実家の貧窮のなか、ぎりぎりの生活をしていた曽禰にとって、食住完備、官費支給のうえ、卒業後の工部省勤務も保証されるという破格の待遇が用意された工学寮は魅力的だったろう。工学寮に進むことを決心し、その中では最も芸術性、人文性の高いと思われた造家学科(今の建築学科)を選んだ。
 明治10年(1877年)、英国から若き建築学者ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)が来日する。工学寮は工部大学校と改称され、コンドルが造家学科初代教授となる。造家学科はにわかに活気付き、辰野金吾、片山東熊、曽禰達蔵、佐立七次郎、宮伝次郎らが厳しい教育、訓練によってめきめき力をつける。コンドルと曽禰は同い歳であり、特に深い友情と師弟関係を持つに至る。
ジョサイア・コンドル
 明治12年(1879年)に工部大学校を卒業した後、曽禰は工部大学校(教授補、助教授)と海軍省(海軍兵学校建築掛、技師)とを兼務したり転勤したりして、後進の指導と海軍施設の建築にあたる。呉、佐世保と東京を行ったり来たりの生活が明治23年(1890年)まで続く。しかし海軍の仕事は、建築家として充実感を味わえるものではなかったようだ。
 
 
(3) 三菱と丸の内都市計画
 曽禰が少年時代を過ごした丸の内の武家屋敷街は明治5年(1872年)の大火により焼失し、陸軍省用地となったが、一帯は雑草生い茂る荒れ地と化していた。明治23年(1890年)、三菱社の岩崎弥之助は35万平方メートルというこの広大な土地をまるごと買い取り、世間をあっと言わせた。
 価格は当時の東京市の年間予算の3倍という金額であった。「何に使うのか」という記者の問いに、弥之助は「虎の放し飼いでもしようか」ととぼけてみせたという。この買い物は、三菱の二代目大番頭、荘田平五郎(しょうだへいごろう)が英国から弥之助に送った「マルノウチカイトラレルヘシ」という電報が決め手だったと伝えられている。欧米のビジネス街を知る荘田は、世界にその存在を発信できるビジネスセンターがわが国にも必要だとの思いを抱き、皇居と中央停車場(現在の東京駅)に挟まれる丸の内こそ、その場所だと確信した。
荘田平五郎
 帰国した荘田は早速、コンドル教授に助力を求め、コンドルは曽禰を呼び寄せた。曽禰は海軍を退職して三菱社に建築技師として入社する。こうして、荘田平五郎、ジョサイア・コンドル、曽禰達蔵という強力なチームがこの年のうちに結成され、首都の中心街の建設がスタートする。曽禰にとって、思い出の地の再開発計画を、恩師と共に任されることは嬉しいことであったろう。ロンドンの銀行街であるロンバート・ストリートがモデルとされ、軒高50尺、レンガと石造り、屋根を架すという原則が決められた。1−3号館はコンドルが、4−7号館を曽禰が設計した。こうして明治43年(1910年)ごろには「丸の内煉瓦街」と呼ばれるビジネスセンターが完成した。「文化の香りを」との思いから計画された帝国劇場も明治44年(1911年)年に竣工した。
丸の内煉瓦街は、震災、戦災を経て、今ではすべて取り壊され、跡をとどめない。写真でしか見ることができないが、赤レンガに尖がり屋根の建物が整然と並び、落ち着いた風格をたたえたオフィス街である。装飾を抑えた平板なデザインで街全体の格調と調和を求めたところに、コンドルと曽禰の主張が感じられる。この街全体が三菱の所有物であり、三菱はオフィスビル賃貸業をひとつの事業として成立させた。
大正時代の丸の内煉瓦街
(東京都都市計画局のホームページより)
 曽禰はこのかん、自社ビルの建設にも精力的に取り組んでいる。三菱社大阪支店、三菱銀行神戸支店、三菱合資会社門司支店などを設計し、ふるさと唐津には三菱合資会社唐津支店を残した。造家学科一期生のうち、辰野金吾は日本銀行、東京駅などの国家的モニュメントの建築に情熱を注ぎ、片山東熊は宮廷建築家として東宮御所を手がけるなど、目覚しい活躍ぶりだった。同期生二人に比して曽禰達蔵は海軍時代、やや不遇に見えたが、三菱の社員建築家という、自分にあった生き方を手にしたことで、その才能を開花させた。
 
 
(4) 曽禰中條事務所
 明治39年(1906年)、55歳になった曽禰は三菱合資会社を定年退社し、同社建築顧問となる。同時に東京九段に曽禰建築事務所を開設する。2年後には16歳年下の俊才、中條精一郎を招いて曽禰中條事務所と改める。以後の活動は中條との共同作業となり、またひとつ充実した創作の時期を迎える。学校、会社、庁舎、私邸など、沢山の作品が生み出されたが、慶応義塾創立50周年記念図書館(大正元年、1912年)をはじめとする慶応義塾の校舎群が名作として知られる。
慶応義塾創立50周年記念図書館
 
 
(5) 人柄と生涯をめぐって
 曽禰を知る人々は口々にその人格の高潔さを語る。同窓の辰野金吾とはいつも比較される運命にあるが、常にリーダーシップを発揮した辰野が、怒りっぽく周囲に恐れられる存在だったのに対して、曽禰は真摯、篤実そのもので、誰からも信頼され、尊敬された。辰野の生涯は国家を代表するという気概に貫かれていたが、曽禰は少年期の痛切な体験を経て、そうした意識を捨てていた。辰野は時代精神を体現した記念碑的な作品を好んだが、曽禰はより技術志向で、建築には合理性と機能性を求め、様式にはこだわらなかった。辰野の人生は分かりやすいが、曽禰のそれは複雑だ。真面目一徹で仕事一筋の人生だったことは二人に共通しているが、辰野の性格は激しく、曽禰は穏やかで慎重だった。だから曽禰は組織の中で働くことに向いているように見えた。三菱の社員を定年まで勤めたのも、個性派ぞろいの明治建築界のリーダーたちの中にあっては珍しいことだった。
 曽禰には「ナンバー2」というイメージがつきまとう。辰野が建築学会会長を務めた19期のうち10期間、曽禰は副会長としてその活動を支えた。辰野の引退後、まるで辰野の事業の後始末をするかのように3期だけ会長職を務めた。辰野が教授を務めた工部大学校においては、年下の辰野の下で助教授を務めた。丸の内都市計画においても、主要な期間、指導者はコンドルであり、曽禰は二番目だった。曽禰中條事務所では自らが指導者だったが、ほどなく若き俊才中條の補佐役に廻り、むしろ後進の指導に尽力した。
 スタープレーヤーの協力者として、あるいは会社員として主要な時期を過ごした曽禰は、明治のそうそうたる知識人群像の中にあって、ややひ弱に見える。「日本の建築 明治大正昭和」第7巻において、建築家、石田潤一郎さんは曽禰を「庇護される人」と特徴づけ、「曽禰にはおそらく、そうした甘えを許してもらえるような人徳が備わっていた」と述べている。また、「彼は時代との折り合いの悪さを、自らの人間性で補っていく」とも述べている。
 確かに小笠原長行、高橋是清、コンドルという人々は曽禰の才能と人柄を愛し、不遇とならぬよう心を砕いた。曽禰の仕事は、こうした尽力に支えられていた面もある。しかし、これは人望ある人にはよくあることだ。曽禰が建築界のリーダーとなることを避けたことは、別の側面からも見る必要がある。
 少年期に武士として彰義隊、白虎隊の凄惨な最期を身近に体験し、敗軍から脱出して生き延びた曽禰にとって、かつての敵軍である明治新政府のもとで陽の当たる地位に就くことには抵抗があったろう。曽禰は自らを権威と名誉ある地位から意識的に遠ざけ、地道に責務を果すことに自らの人生を限定していたようにも見える。
 「歴史家になりたかった」と繰り返し語っていた曽禰は、生活のために建築家となった。自分ではそのことを終生、悔いていたという。それでもくさらず誠実に生きて、数々の名作を残し、後進を育てた。建築界に残した人格的影響は大きい。現在の東京大学建築学科教授、藤森照信さんは、共感をこめて次のように記している。
 「明治の建築家としての曽禰達蔵の作風は異色である。明治という国家の時代に、彼は国家の大礼服であるネオ・バロック様式の影響を全く受けるところがなかった。明治の4人の建築家即ち、辰野金吾、片山東熊、妻木頼黄、曽禰達蔵の中で、彼だけは国家を建築で飾っていない。曽禰は活動の場を民間に求め、曽禰中條建築事務所という戦前における最良の設計組織を育て上げてゆく。そして、大仰・華美・生硬・威圧を激しく嫌い、気品と堅実を所員に求めた。これは、明治という時代から最も遠い質である。大正期の質といってよいかもしれない。時代への深い違和感がそうさせたのであろう。曽禰達蔵は、心の底で、江戸の大名小路を駆け続けていたのかもしれない。」(「日本の建築 明治大正昭和」第3巻より)。
 
 
(6) 三菱合資会社唐津支店
 ふるさと唐津の地に、曽禰の形見が残されているのは嬉しいことである。三菱合資会社唐津支店本館は明治41年(1908年)9月に完成した。唐津西港妙見埠頭の付け根部分にある。宮島醤油妙見工場から歩いて行ける場所である。明治末期の唐津西港は国内外への石炭積出港として栄えており、三菱合資会社は石炭の取引で利益を上げていた。
 大正8年(1919年)頃が全盛期で、パナマ運河を経由して東西を結ぶ世界一周の貨客船も唐津港に寄港していたという。この建物は現在は歴史民俗資料館(県重要文化財)として一般に公開されている。石炭を中心とした郷土の産業に関する展示がある。弊社創業者の祖父である6世宮島傳兵衞が、石炭問屋たちの争いごとの解決に奔走したことなども紹介されている。しかし、展示物の何よりも、建物こそが文化遺産である。
唐津市歴史民俗資料館
(旧三菱合資会社唐津支店本館)
南面
 白をモチーフとしたこの木造洋館は、とても愛らしく気品に満ちて、海辺の風景によく映える。現役で活躍していた頃は「三菱御殿」と呼ばれていた。
唐津市歴史民俗資料館
(旧三菱合資会社唐津支店本館)
東面
 海側の広々としたバルコニーが心地よい。そこに立つと、右に唐津漁港、左に妙見工業団地、正面には湾内を行き交う船が見える。海風と建物が一体化したような開放感が訪問者を包む。明治という時代の権威主義、事大主義とは別の、曽禰達蔵が愛した世界がある。
 
 
参考文献
● 藤森照信著、益田彰久写真 「日本の建築 明治大正昭和
  第3巻 国家のデザイン」 (1979年 三省堂)
● 石田潤一郎著、益田彰久写真 「日本の建築 明治大正昭和
  第7巻 ブルジョワジーの装飾」 (1980年 三省堂)
● 曽禰達蔵著 「曽禰達蔵詩歌集」 (1967年 曽禰武発行)
● 小笠原壱岐守長行編纂会 「小笠原壱岐守長行」 (1884年)
● 日本経済新聞社編 「20世紀日本の経済人」
   (2000年 日経ビジネス人文庫)