走らんか副社長
【醤油の産地へ 東行】

52区 松戸~八柱

関東で醤油の産地へ走る旅は野田、館林、土浦を巡って一段落したのだが、さて今回からは千葉県の松戸から東に向けて出発しよう。

JR松戸駅は駅のすぐ近くまで小高い丘が迫っているので、高低差の感覚がおかしくなる経験ができる。駅の東口を出てまっすぐ進むと大手量販店の2階に入る。そして、ビルの5階まで上がって入口とは反対側に出ると、なんとそこには地面があって大学のキャンパスと、その横には公園(松戸中央公園)がある。

この公園はかつて、陸軍の工兵学校があったところで、当時の建造物が残っている。石造りの正門と、その横にある電話ボックスの親分のようなものは、(そういえば電話ボックスを最近ほとんど見かけなくなったが)説明書きによると歩哨哨舎という聞きなれない名前だ。扉はなくなっているが、のどかな公園には似つかわしくなく、少々の攻撃には耐えられるようたいそう丈夫なつくりである。


近くに徳川慶喜の実弟昭武の住居だった戸定(とじょう)邸があるというので寄ってみる。屋敷内の木に赤い実がぶどうの房のように実っていて、「今年はイイキリがよく実りました」と説明に書かれている。イイキリとワルイキリがあって、これはイイキリだと言い切りますかと頭が混乱して、これが桐の仲間だと理解するのに少々時間がかかった。別の場所には飯桐と漢字で書かれていたが、昔、葉で飯を包んでいたので付いた名前らしい。この施設の職員の方は植物を大切に可愛がられているようで、歴史館の入口には「トチの実がなりました」と実が並べてある。イイキリにしろトチの実にしろ、私にとっておそらく生涯初めて接するものだな、としげしげと眺めていると、よほど物欲しそうに見えたのか、「アクを抜いたら食べられますよ。」と一個恵んでいただいた。

歴史館では、慶喜・昭武の兄弟を維新動乱の「敗者」ととらえた企画展が行なわれていたのだが、これがなかなか興味深かった。

私たちは徳川慶喜について、徳川最後の将軍で大政奉還を行なった人物、と歴史の授業で習っているが、慶喜自身は大政奉還という言葉を使っておらず、書状には「政権を朝廷に奉帰(かえしたてまつる)」と記している。ところが、「政権」はより上位の意味を持つ「大政」に、「帰」は本来あるべきところにかえったというニュアンスの強い「還」へと、政権を得た立場から見た言葉で歴史は伝えられている。

その大政奉還(あるいは政権奉帰)の舞台となった京都の二条城に、最近行く機会があった。たまたま小学生の一団と一緒になったのだが、ガイドさんが「さて次は、大政奉還があった部屋に行きます。」「はい、このお座敷で大政奉還がおこなわれました。」と説明しているのだが、まあ小学生のこと、ほとんどの生徒は興味なさそうな顔をしている。私はといえば、誰かが「先生!たいせーほーかんって何ですかぁ。」と質問してくれると、この無味乾燥の場が一気に盛り上がるのになぁ、と不謹慎なことを考えていた。


今回どこを出発点にしてどういうルートを走ろうかといろいろ考えていたなかで、松戸から北東へ向かう道は、かつて鮮魚(なま)街道と呼ばれていたことを知った。太平洋に面した銚子で獲れた魚を江戸へ向かって、まず利根川の水路、そして我孫子から松戸まで陸路、最後は江戸川の水路を使って運んでいたらしい。鮮魚と書いて「なま」と読むのはなじみがないが、生ものそのものを運んでいた街道なので、そう呼ばれていたということだ。冷蔵車がない時代に、急いで運ぶのはたいへんだっただろう。

そういうわけで、松戸は水戸街道途中の宿場町であるだけでなく、陸路と水路の中継点として発展し、水・陸それぞれの運送労働者たちが仕事を終えて楽しむための産業が栄えたのだ。コンパニオン募集中といった看板が駅の近くで目立つのも、江戸時代からの伝統が脈々と続いている証拠なのだと考えれば、少しは見方も変わる。

その鮮魚街道は今や普通の道路で、住宅街の中や工場の前を通って進む。唯一道路脇に庚申塔が立っているのを見つけて、やれやれ少しばかり歴史を感じるのであった。


いただいたトチの実を食べずに放っておいたら、最初はつるつるぴかぴかだったものが、だんだんごつごつに干からびてきた。

トチノキは栃木県の県木にされているように栃木ではおなじみの木だが、その実は栃木県の形に似ている。ような気がする。

2015年10月

今回の走らんかスポット