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	<title>「去華就実」と郷土の先覚者たち | 宮島醤油</title>
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	<description>創業明治15年・佐賀県唐津市</description>
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		<title>「去華就実」と郷土の先覚者たち　第36回　終わりに</title>
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		<dc:creator><![CDATA[ad110ji76j]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 01 Dec 2004 00:00:35 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[知る・楽しむ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>「去華就実」と郷土の先覚者たち 第３６回　連載を終えるにあたって ３年間にわたって毎月連載してきました「『去華就実』と郷土の先覚者たち」シリーズを終了いたします。 宮島醤油の社是である「去華就実」は中国の故事から引かれた [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<div class="center-block pad-top50 mar-right-15 mar-left-15">
<div class="container">
<div class="kyoka">
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-2 col-md-8 mar-bot30">
<h1>「去華就実」と郷土の先覚者たち</h1>
<h2 class="text-center">第３６回　連載を終えるにあたって</h2>
<hr />
<p>３年間にわたって毎月連載してきました「『去華就実』と郷土の先覚者たち」シリーズを終了いたします。</p>
<p>宮島醤油の社是である「去華就実」は中国の故事から引かれた言葉ではなく、明治時代に日本で作られたものです。明治４１年（１９０８年）の「戊申証書（ぼしんしょうしょ）」（明治天皇が国民に訴えた文章）に使われていますが、それが最初なのかどうか、もともと誰が作った言葉なのかは分かっていません。しかし後に宮中顧問官となった小笠原長生（唐津藩主の後継者）が弊社創業者である七世宮島傳兵衞にこの言葉を書き贈ったことや、唐津藩藩医の子である天野為之がこの言葉を早稲田実業学校の校是と定めたことなどから、郷土の人々の関与が示唆されていました。そのルーツを調べてみようというのが、この連載の出発点でした。</p>
<p>結局、ルーツ探しの旅は明確な結論を得ることなく終わるのですが、明治という時代を駆け抜けた郷土の先人たちの足跡を追ううちに、しだいに、その方々の生涯を発掘して紹介することの方がずっと有意義だと思うようになりました。このため、一年以内に終わろうと思っていた連載が３年間３６回を数えるほど長く続いてしまいました。紹介した先人たちは、天野為之、大隈重信、高橋是清、辰野金吾、曽禰達蔵、掛下重次郎、麻生政包、吉原政道、大島小太郎、奥村五百子、高取伊好、竹内明太郎、竹尾年助、長谷川芳之助、吉岡荒太、林　毅陸、志田林三郎、黒田チカ、宮島傳兵衞の１９人です。原則として学術と産業分野の方に限定したのですが、こうして調べて行くと、郷土の先人たちの努力の上に我々の今があるのだということがひしひしと痛感され、自らを省みる機会ともなりました。</p>
<p>私自身について言えば、連載中に会社の業務もしだいに忙しくなり、２００４年の３月には社長職に就きました。忙しい社長業の合間に連載を書くのは大変な面もありましたが、読者の方々から励まされることも多くて、むしろ楽しい時間を過ごすことができました。ここで学んだことをこれからの会社経営に生かして、先人たちに恥じない立派な会社を作ってゆきたいと思います。</p>
<p class="text-right">2004年12月1日<br />
宮島清一</p>
<hr />
<p>長い間のご愛読、ありがとうございました。社長の連載記事はこれにてしばらくお休みします。</p>
<p>連載の最後に七世宮島傳兵衞の生涯を記しましたが、その中で、経済史家である神山恒雄教授のご研究を紹介しました。同教授の論文を収録した冊子が若干部数ありますので、希望される方にはお分けしたいと思います。</p>
<p>お名前とご住所を明記の上、こちらからお申込みください。</p>
<h1><a href="https://www.miyajima-soy.co.jp/contact/#form"><i class="fas fa-envelope fa-1x" aria-hidden="true"></i>　お問い合わせフォーム</a></h1>
<p>尚、部数に限りがありますので、ご希望に添えない場合がございます。悪しからずご了承ください。</p>
<hr />
<div class="row mar-top50">
<div class="col-xs-4 col-md-4">
<h2 class="text-left"><a href="kyoka35">前へ</a></h2>
</div>
<div class="col-xs-4 col-md-4">
<h2 class="text-center"><a href="https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column_category/kyoka">目次へ</a></h2>
</div>
<div class="col-xs-4 col-md-4"></div>
</div>
</div>
</div>
</div>
</div>
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			</item>
		<item>
		<title>「去華就実」と郷土の先覚者たち　第35回　宮島傳兵衞　（五）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[ad110ji76j]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 01 Nov 2004 00:00:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[知る・楽しむ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>「去華就実」と郷土の先覚者たち 第35回　宮島傳兵衞　（五） 七世宮島傳兵衞の生涯についての記述を今回で終了します。 山高帽を被って ポーズをとる傳兵衞 （１９）経営改革 事業の規模と領域が拡大するにつれ、組織の整備が必 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<div class="center-block pad-top50 mar-right-15 mar-left-15">
<div class="container">
<div class="kyoka">
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-2 col-md-8 mar-bot30">
<h1>「去華就実」と郷土の先覚者たち</h1>
<h2 class="text-center">第35回　宮島傳兵衞　（五）</h2>
<hr />
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-9">
<p class="mar-top30">七世宮島傳兵衞の生涯についての記述を今回で終了します。
</p>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-3">
<img fetchpriority="high" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_01.jpg" alt="" width="400" height="566" class="kyoka-img size-full wp-image-9696" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_01.jpg 400w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_01-212x300.jpg 212w" sizes="(max-width: 400px) 100vw, 400px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20">山高帽を被って<br />
ポーズをとる傳兵衞</div>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（１９）経営改革</h3>
<p>事業の規模と領域が拡大するにつれ、組織の整備が必要になった。傳兵衞が取り組んだ経営改革については、前出の神山教授が研究されている。まず明治２９年（１８９６年）、「内部」を設立した。経営企画と資産管理を行う機関である。石炭部、醤油部などに対する本家からの投資額を決め、その投資額に対する配当を各部から受け取った。各部を独立採算制事業部としたのである。</p>
<p>次いで明治３７年（１９０４年）、「宮島家家憲草案」が作られた。これは草案しか残っていないから、正式に制定されたものかどうか分からない。ともかく草案によれば、同族５人以内からなる「同族会」を組織して、これを最高議決機関とする。財産は同族の共有として分家を認めない。同族内の「戸主」が「内部」を統括する。議決機関である同族会と執行機関である内部とを区別したのである。</p>
<p>明治４３年（１９１０年）、合資会社宮島商店を設立した。資本金は１０万円であった。３７年（１９０４年）の改革では「内部」が資産管理と事業統括の両方を行ったが、この年の改革では、会社組織である宮島商店が事業統括を行い、「内部」の業務は傳兵衞の個人資産を管理することに限定した。会社事業と資産管理とを分離したのである。神山教授によれば、一連の改革は当時の三菱、三井など財閥が行っていた経営改革を参考にしたものだという。</p>
<p>さて明治４３年（１９１０年）に合資会社宮島商店を設立するにあたり、長男の徳太郎を代表社員とした。次いで次男の明治郎（明治１０年生まれで、明治十郎とも呼ばれる）が米国から帰国すると独立させ、酒造と酒販売の事業を任せた。６年前に作った「家憲草案」を自ら改めて明治郎に分家（新家）を認めたのである。こうして６２歳の傳兵衞は第一線の事業から退いた。</p>
<hr />
<h3>（２０）世界一周旅行</h3>
<p>傳兵衞は出張や旅行を好んだ。商談、視察のための出張として、満州、朝鮮、台湾、上海、漢口、広東、香港、シンガポールなどに出かけた。仕事を離れた物見遊山としては、妻と共に讃岐、日光、伊勢、大和などに出かけ、妻を失った後には馬で阿蘇に登った。病気療養には別府を選んで滞在した。親友で炭鉱家の古賀善兵衛とは滑稽な耶馬溪（やばけい）旅行をした。「昔を忘れぬため」と称して、善兵衛は柳行李（やなぎごうり）、紺の風呂敷包みに紺の脚半（きゃはん）、傳兵衞はしゅす張りのこうもり傘に赤のケット（毛布）、浅黄のパッチ、紺の脚半といういで立ちで、行く先々で怪しまれながら、珍道中を楽しんだ。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-7">
<p class="mar-top30">旅行好き傳兵衞の集大成は明治４２年（１９０９年）の世界一周旅行である。観光も兼ねていたとはいえ、主たる目的は投資と事業拡張のための視察であったという。３月１８日、東洋汽船会社の千洋丸という１万２千トンの高級船に乗って横浜を出帆した。ホノルル経由でサンフランシスコに着き、そこに滞在していた次男の明治十郎と会った。以後は息子同伴の旅となり、米大陸を横断して大西洋を渡ってロンドンに着いた。</p>
<p>郵船会社のロンドン支店に田中富太郎という青年が勤務していたので、彼の案内でロンドンを視察した。田中は傳兵衞と同じ水主町の出身で、生家は宮島家のごく近所であった。傳兵衞は次いで欧州大陸に渡り、フランス、イタリア、スイス、ドイツ、ロシア各国を視察し、シベリア鉄道でユーラシア大陸を横断してウラジオストックに辿り着いた。そこから敦賀港に渡って、７月２日、唐津に帰った。３ヵ月半に及ぶ大旅行であった。</p>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-5">
<img decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_02.jpg" alt="" width="400" height="546" class="kyoka-img size-full wp-image-9697" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_02.jpg 400w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_02-220x300.jpg 220w" sizes="(max-width: 400px) 100vw, 400px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20 mar-bot20">ナイアガラでの傳兵衞（右）と明治十郎（左）。<br />
実は同じ背景で何種類かの写真がある。つまり前景と背景とをくっ付けた合成写真である。新しいもの、奇抜なものを好む傳兵衞の性格がうかがわれる。</div>
</div>
</div>
<p><img decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_03.jpg" alt="" width="500" height="371" class="kyoka-img size-full wp-image-9698" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_03.jpg 500w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_03-300x223.jpg 300w" sizes="(max-width: 500px) 100vw, 500px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20">英国での記念写真。<br />
左端が田中富太郎、右端が明治十郎、その隣が傳兵衞。</div>
<p>　</p>
<hr />
<h3>（２１）古希の祝いとその後</h3>
<p>大正６年（１９１７年）の５月、傳兵衞は古希（７０歳）を迎えた。お祝いに「七寿丸」という船が造られるなど、少し豪勢過ぎるお祝いが行われた。傳兵衞は自宅に３００人の人々を呼んで自祝の宴を催した。ここで正式に家督を徳太郎に譲り、また、地元への感謝のしるしとして、奨学資金一万円を郡に寄付した。こうしてほぼすべての事業から引退した傳兵衞は、翌大正７年（１９１８年）９月に死去した。		</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_04.jpg" alt="" width="400" height="295" class="kyoka-img size-full wp-image-9699" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_04.jpg 400w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_04-300x221.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">傳兵衞古稀の祝いに建造された「七寿丸」</div>
<p>景勝地として名高い虹ノ松原の中に唐津市民の共同墓地があるが、傳兵衞の墓もそこにある。没後、東町の自宅前にある小高い丘の上（宮島公園）に銅像が建立されたが、第二次世界大戦中、土台だけを残して政府に供出された。戦後の昭和２７年（１９５２年）、従業員有志によってその土台の上に「彰徳碑」が建立され、今に至っている。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_05.jpg" alt="" width="600" height="459" class="kyoka-img size-full wp-image-9700" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_05.jpg 600w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_05-300x230.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">傳兵衞の銅像</div>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_06.jpg" alt="" width="800" height="592" class="kyoka-img size-full wp-image-9701" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_06.jpg 800w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_06-300x222.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_06-768x568.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_06-624x462.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">銅像の土台の上に建てられた「彰徳碑」。<br />
写真は昭和２７年（１９５２年）の除幕式。</div>
</div>
</div>
<p>宮島商店本体の事業は徳太郎が継承し、酒事業は明治郎が受け継いだ。塩の松浦塩販売、炭鉱の宮島鉱業、電気雷管の唐津火工品など、いくつかの個別事業会社もそれなりに順調に継承された。ロンドンで傳兵衞を案内した田中富太郎は帰国後、傳兵衞の孫トヨと結婚し、次いで本町の立花家に家族養子の形で入り、立花富太郎を名乗った。現在の「水野旅館」の当主立花徹三さんは富太郎の息子である。		</p>
<hr />
<h3>（２２）傳兵衞に関する仕事と研究</h3>
<p>傳兵衞の事跡を研究するうえで最も重要な史料は「自伝」である。手書きの難解な毛筆文字で書かれており、おまけに独特の表記や言い回しもあって、現代人には読みづらい。それを解読して評伝の形にまとめたのが「七世宮島伝兵衛」（宮島庚子郎著）である。庚子郎（こうしろう）は傳兵衞の孫であり、自身は鉱業家として杵島炭鉱の坑長などを務めた。宮島醤油・宮島商事の役員も務めた。	</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_07.jpg" alt="" width="500" height="416" class="kyoka-img size-full wp-image-9702" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_07.jpg 500w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k35_07-300x250.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 500px) 100vw, 500px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">傳兵衞「自伝」の冒頭</div>
<p>明治学院大学経済学部の神山恒雄教授はこれらの史料を研究し、独自の調査結果をも加味して、「七代宮島傳兵衞・宮島醤油の創業者」を書かれた。氏は傳兵衞の事業転換の巧みさを指摘している。傳兵衞は遠隔地海運からスタートした事業を明治１０年代に「石炭の川下し」へと拡げた。この時代、国内輸送の手段は帆船から汽船へ、更に陸上では鉄道輸送へと大きく変化しつつあった。しかし変化は急激には起こらず、新旧の輸送手段がしばらく共存した。こうしたなかで傳兵衞が行った、帆船による遠隔地輸送と川舟による近距離輸送は、いわば隙間（ニッチ）産業であった。</p>
<p>時代の転換期に現れる隙間産業は、一時的に大きな利益を上げるが、長続きしない。そこで傳兵衞は第二の大転換を図る。それが醤油であった。傳兵衞は、自身の石炭輸送業が長続きしないことをたぶんよく理解しており、それに代わる「永遠の商売」を求めて醤油醸造業を始めた。この見識が正しかったことは、その後の宮島醤油の発展が証明している。</p>
<p>神山氏は、傳兵衞の事業展開の手法を「連続性を伴った転換」と特徴づけている。その通りだと思う。一見、大きな転換と見えることでも、よく見るとそこには従来の事業で培った経営手法、人脈、商圏等がうまく活かされている。明治期という変化の激しい時代を生き抜く事業家として、特に必要な資質であったと思われる。</p>
<hr />
<h3>参考文献：</h3>
<ul>
<li>七世宮島傳兵衞著　「自伝」</li>
<li>宮島庚子郎著　「七世宮島傳兵衞」　（１９４４年初版印刷、１９９３年復刻印刷）</li>
<li>神山恒雄著　「七世宮島傳兵衞　－宮島醤油の創業者－」　日本史学会年次別論文集１９９１年版・近現代１　（１９９２年、日本史学会）　</li>
<li>宮島醤油株式会社編　「七世宮島傳兵衞」　（２００２年）</li>
<li>日本産業火薬史編集委員会編　「日本産業火薬史」 （１９６７年、日本産業火薬会）</li>
<li>清水荘一著　「西日本火工品のあゆみと日本火薬」（１９８３年）</li>
</ul>
<hr />
<div class="row mar-top50">
<div class="col-xs-4 col-md-4">
<h2 class="text-left"><a href="kyoka34">前へ</a></h2>
</div>
<div class="col-xs-4 col-md-4">
<h2 class="text-center"><a href="https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column_category/kyoka">目次へ</a></h2>
</div>
<div class="col-xs-4 col-md-4">
<h2 class="text-right"><a href="kyoka36">次へ</a></h2>
</div>
</div>
</div>
</div>
</div>
</div>
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			</item>
		<item>
		<title>「去華就実」と郷土の先覚者たち　第34回　宮島傳兵衞　（四）</title>
		<link>https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka34?utm_source=rss&#038;utm_medium=rss&#038;utm_campaign=kyoka34</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ad110ji76j]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 01 Oct 2004 00:00:46 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[知る・楽しむ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>「去華就実」と郷土の先覚者たち 第34回　宮島傳兵衞　（四） 着物姿の七世宮島傳兵衞 石炭と海運から発した事業は、醤油醸造という新しい分野へと展開したが、いっぽうで炭鉱との深い結びつきを生かして、傳兵衞は産業火薬事業を始 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<div class="center-block pad-top50 mar-right-15 mar-left-15">
<div class="container">
<div class="kyoka">
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-2 col-md-8 mar-bot30">
<h1>「去華就実」と郷土の先覚者たち</h1>
<h2 class="text-center">第34回　宮島傳兵衞　（四）</h2>
<hr />
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-4">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_01.jpg" alt="" width="499" height="693" class="kyoka-img size-full wp-image-9688" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_01.jpg 499w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_01-216x300.jpg 216w" sizes="auto, (max-width: 499px) 100vw, 499px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">着物姿の七世宮島傳兵衞</div>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-8">
<p class="mar-top30">
石炭と海運から発した事業は、醤油醸造という新しい分野へと展開したが、いっぽうで炭鉱との深い結びつきを生かして、傳兵衞は産業火薬事業を始めた。</p>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（１５）明治後期における輸送環境の変化</h3>
<p>明治２２年（１８８９年）、唐津港は国の特別輸出港に指定され、明治２９年（１８９６年）には木製の松浦橋が完成した。石炭の積み出し拠点として、唐津東港（現在の東唐津から唐津城址公園の一帯）は活況を呈し、公園下に置かれた宮島商店石炭部も栄えた。ところが明治後期にはこの環境に大きな変化が訪れた。鉄道の発達である。明治３２年（１８９９年）、厳木（きゅうらぎ）町から西唐津港までの鉄道が開通し、４５年（１９１２年）には山本・岸岳間の支線も整備された。唐津炭田から唐津港への石炭輸送の手段は川舟から鉄道へと一気に変わった。３６年（１９０３年）には久保田において九州鉄道と繋がったことにより、佐賀、長崎、福岡へも鉄道輸送が可能になった。明治学院大学の神山恒雄教授（産業経済史）によれば、唐津港への石炭輸送総量に占める川舟輸送の比率は明治３５年（１９０２年）の７０％から、４４年（１９１１年）には１０％へと落ち込んだ。港の様子も変わった。川舟から大型船への積み替えを行う唐津東港の利用は激減し、いっぽう、鉄道輸送の拠点である唐津西港（妙見）に大量の石炭が集積された。三菱、三井、貝島ら財閥各社は唐津西港に相次いで支店を構えた。東港はすっかり淋しくなった。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-2 col-md-8">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_02.jpg" alt="" width="800" height="600" class="kyoka-img size-full wp-image-9689" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_02.jpg 800w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_02-300x225.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_02-768x576.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_02-624x468.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20 mar-bot20">鉄道と関連施設が整備され、石炭積出港として賑わう唐津西港。大正年間の写真である。<br />
（写真提供：唐津市）</div>
</div>
</div>
<p>川舟輸送に重心を置いていた傳兵衞の事業はこうして再構築を余儀なくされた。この時期、傳兵衞は帆船３隻を保有していたので、問屋業と、そして再び遠隔地海運に熱心に取り組んだ。地元の環境が変化したといっても、海軍省、浅野商店など大口への販売は堅調だった。新たに神戸のギールス商会、長崎のアルベス商会などと関係を持ち、大連、上海などへの輸出も行った。明治３８年（１９０５年）には石炭販売のため上海に出張した。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-6">
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</div>
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_04.jpg" alt="" width="600" height="816" class="kyoka-img size-full wp-image-9691" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_04.jpg 600w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_04-221x300.jpg 221w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" />
</div>
</div>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-12">
<div class="kyoka-cap text-center">明治２４年、東松浦郡役所が傳兵衞に<br />
対して発行した「石炭問屋」証書</div>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（１６）炭鉱向け火薬の販売</h3>
<p>輸送を中心とした石炭商売が時代の変化に直面してやや困難になったなかで、傳兵衞が打った次の一手は火薬事業であった。明治２９年（１８９６年）、炭鉱向けに火薬類の販売を開始した。ダイナマイトはスウェーデンのアルフレッド・ノーベル（Alfred Nobel）によって１８６７年に発明されたものだが、我が国へは明治１２年（１８７９年）英国人モリソン（James Pender Mollison）によって初めて持ち込まれた。ダイナマイトを国内鉱山における岩盤の発破に使う試みは、明治１４年（１８８１年）、三池鉱山での麻生政包の仕事に始まるとされている。</p>
<p>ダイナマイトの国内販売については、当初、モリソン商会が総代理店であったが、鉱山におけるダイナマイトの有効性が明らかになるにつれ、国内有力者が相次いで販売権の取得に乗り出した。渋谷商店が明治１５年（１８８２年）に販売権を得たのに続いて、明治３０年代までに三田商店（東北）、粟屋商店（大阪）、宮島商店（九州）、牛尾商店（九州）が相次いで参入した。</p>
<p>危険物なので、火薬の輸送と火薬庫の管理には特別の設備と細心の注意が必要である。初期においては危険ゆえに自動車輸送が禁じられ、舟と馬車が使われた。しかし物流の専門家である傳兵衞にとって、これは得意分野であった。傳兵衞によって始められた火薬事業は、息子徳太郎の時代になって更に成長した。唐津炭田だけでなく、佐賀、長崎、福岡、山口各県の炭鉱が全盛期を迎えるに伴って、宮島の火薬事業も栄えた。この事業は第二次世界大戦後、宮島商事株式会社に継承され、こんにちに到っている。</p>
<p>しかし昭和３０－４０年代に実施されたエネルギー政策の大転換によって、我が国の石炭産業は大幅に縮小された。そして最後まで残った国内二鉱山のうち、長崎県の池島炭鉱が平成１３年（２００１年）１１月に、北海道の太平洋炭鉱がその２ヵ月後に相次いで閉山したことによって、我が国の石炭産業は終結した。我が国最後の炭鉱となった池島炭鉱は、長崎県琴海町の池島から東シナ海方向に掘り進められた海底炭鉱である。ここに最後まで火薬を納品したのが宮島商事であったことは、今では歴史上の事柄となった。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-2 col-md-8">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_05.jpg" alt="" width="900" height="600" class="kyoka-img size-full wp-image-9692" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_05.jpg 900w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_05-300x200.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_05-768x512.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_05-624x416.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 900px) 100vw, 900px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20">現在の池島（写真提供：長崎県観光連盟）</div>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（１７）唐津火工品製作所の設立</h3>
<p>産業用爆薬として、ダイナマイトが従来の黒色火薬等に比べて特に優れているのは、起爆感度が鈍いことである。打撃では爆発しないし、火をつけても静かに燃えるだけである。ダイナマイトを起爆するには、「雷管」と呼ばれる起爆装置（小型爆薬）が必要である。明治時代にダイナマイトが産業用に実用化され始めた頃、雷管は、英国のグラスゴー・ノーベル社とドイツのハンブルク・ノーベル社製のものが使われていた。明治４０年、清水貞介、清水荘次郎らは神戸の奥平野において、これらの輸入雷管を加工して電気雷管を試作した。導火線の代わりに電線を使い、電気信号によって起爆するのである。しかし清水らの最初の事業は販売不振のため失敗に終わった。そこで、本格的な商業生産をめざす電気雷管工場は産炭地に作るべきであるとの考えが生まれた。大正２年（１９１３年）、初の国産電気雷管製作会社として、「清水合名会社」が福岡県糟屋郡多々良村に設立された。このとき原料となる工業雷管をドイツ、イギリスから輸入したのが、宮島商店（唐津）と牛尾商店（福岡）と記録されている。このあたりのいきさつは、株式会社ニシカの会長である清水荘一さんが書いておられる。</p>
<p>その後、日本各地にいくつかの電気雷管工場が作られたが、大正５年（１９１６年）、唐津市東町に設立された「唐津火工品製作所」もそのひとつである。この会社の設立の経緯を少し述べておこう。清水荘次郎は最初、和歌山県で電気雷管の製造を始め、九州の炭鉱向けの販売を宮島商店に委託した。傳兵衞は唐津炭を大阪に運んださいの帰り船で電気雷管を九州に移送した。九州の産炭地での火薬使用量が増え、遠距離輸送も不便なので、九州に工場を作ることになり、清水が技術を、宮島傳兵衞・徳太郎が資本である土地と工場を提供する形で「唐津火工品製作所」が設立された。工場は醤油工場に隣接しており、醤油と電気雷管が同じ敷地内で製造されるという、世にも稀な工場が唐津に出現することになった。</p>
<p>唐津火工品は創業間もない頃５棟の工場を持ち、従業員４８名、年間生産量は２１万個ほどで、販売先は貝島炭鉱（高島、崎戸、美唄、夕張）、三井三池鉱山、満州鉄道等であった。唐津火工品は後に西日本火工品と社名を変え、現在の株式会社ニシカに至っている。唐津工場は平成年間まで電気雷管を製造した。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-5">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_06.jpg" alt="" width="600" height="816" class="kyoka-img size-full wp-image-9693" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_06.jpg 600w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_06-221x300.jpg 221w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20 mar-bot20">宮島式電気雷管の品質証明書。<br />
「証明書　一、宮島式電気雷管。右は当社豊国、多久両炭鉱用として使用中のところ、その発火、効力とも確実なるものと認む。右証明候也。大正７年０月９日　明治鉱業株式合資会社」</div>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-7">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_07.jpg" alt="" width="800" height="625" class="kyoka-img size-full wp-image-9694" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_07.jpg 800w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_07-300x234.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_07-768x600.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_07-624x488.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20 mar-bot20">醤油と電気雷管を同じ敷地内（道路で隔てられてはいるが）で作るというのは、傳兵衞の事業の特質を極めて象徴的に表している。石炭と海運の事業で培った人脈、商圏、物流網と物流技術を活かして、醤油など調味料と火薬、電気雷管などを販売していったのである。</div>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（１８）明治後期における宮島商店の事業構成</h3>
<p>明治後期、傳兵衞の事業は多角化した。明治４０年（１９０７年）の「佐賀県商工名鑑」に宮島商店の広告が掲載されている。当時の事業形態を示す史料として貴重である。また、現在も商標として使われている「キッコーミヤ（亀甲宮、六角形の中に宮）」がここで使われている。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_08.jpg" alt="" width="300" height="461" class="kyoka-img size-full wp-image-9695" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_08.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k34_08-195x300.jpg 195w" sizes="auto, (max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20 mar-bot20">明治４０年（１９０７年）の「佐賀県商工名鑑」に掲載された宮島商店の広告。</div>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<p class="mar-top30">宮島商店は三部制を敷いており</p>
<table class="kyoka-table mar-top30 mar-bot30">
<tbody>
<tr>
<td style="width:90px;">石炭部：</td>
<td>石炭輸出商、東京海上保険株式会社代理店、東洋汽船株式会社代理店、東京浅野商店石炭部代理店</td>
</tr>
<tr>
<td style="width:90px;">醤油部：</td>
<td>醤油味噌製造</td>
</tr>
<tr>
<td style="width:90px;">雑貨部：</td>
<td>鉄砲、火薬、ダイナマイト類一切、度量衡、札幌ビール、スコップ、浅野セメント、佐賀セメント、除虫油、其外雑品</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>と記されている。</p>
<p>この史料に表現されているように、明治後期から昭和初期にかけて宮島商店の事業を支えたのは、石炭、醤油、火薬という三本柱であった。</p>
</div>
</div>
<p>雑貨部は他にもいろんな商品を扱っているが、その中に「度量衡」というものがある。幕府時代には物の重さ、長さ、容積などを測る器具の尺度（度量衡）が不ぞろいであったが、明治維新後は政府の定める厳密な尺度に統一されるようになった。そこで傳兵衞は明治６年（１８７３年）、測定器具の較正、及び較正済み器具の販売を手がけた。傳兵衞の、時代の流れを見抜く先見性と商才を示す例である。</p>
<p>そのほかの事業を挙げておこう。傳兵衞が海運に乗り出した明治初期においては、和紙が重要な商品であった。唐津藩紙方役所と関係を持ったことは、初期の事業展開における重要な鍵であった。明治２７年（１８９４年）、傳兵衞は唐津の舞鶴酒造を買収し、酒造りと販売を始めた。明治３４年（１９０１年）に１００石以上を生産したとの記録がある。これが後の宮島酒造株式会社となる。醤油の原料確保を念頭に置いて、塩の問屋を始めた。これが後の松浦塩販売株式会社となる。浅野総一郎との共同事業として、捕鯨にも取り組んだ。</p>
<p class="text-center">（次号に続く）</p>
<hr />
<div class="row mar-top50">
<div class="col-xs-4 col-md-4">
<h2 class="text-left"><a href="kyoka33">前へ</a></h2>
</div>
<div class="col-xs-4 col-md-4">
<h2 class="text-center"><a href="https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column_category/kyoka">目次へ</a></h2>
</div>
<div class="col-xs-4 col-md-4">
<h2 class="text-right"><a href="kyoka35">次へ</a></h2>
</div>
</div>
</div>
</div>
</div>
</div>
</div>The post <a href="https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka34">「去華就実」と郷土の先覚者たち　第34回　宮島傳兵衞　（四）</a> first appeared on <a href="https://www.miyajima-soy.co.jp">宮島醤油</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>「去華就実」と郷土の先覚者たち　第33回　宮島傳兵衞　（三）</title>
		<link>https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka33?utm_source=rss&#038;utm_medium=rss&#038;utm_campaign=kyoka33</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ad110ji76j]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 01 Sep 2004 00:00:20 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[知る・楽しむ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>「去華就実」と郷土の先覚者たち 第33回　宮島傳兵衞　（三） 傳兵衞はいよいよ醤油醸造という新事業に乗り出す。 （１１）醤油醸造を開始 大麻丸の遭難以来、常に傳兵衞の脳裏にあったのは、より堅実な事業へのシフトであった。遠 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<div class="center-block pad-top50 mar-right-15 mar-left-15">
<div class="container">
<div class="kyoka">
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-2 col-md-8 mar-bot30">
<h1>「去華就実」と郷土の先覚者たち</h1>
<h2 class="text-center">第33回　宮島傳兵衞　（三）</h2>
<hr />
<p>傳兵衞はいよいよ醤油醸造という新事業に乗り出す。</p>
<hr />
<h3>（１１）醤油醸造を開始</h3>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-7">
<p class="mar-top30">
大麻丸の遭難以来、常に傳兵衞の脳裏にあったのは、より堅実な事業へのシフトであった。遠隔地海運や石炭採掘という「ハイリスク・ハイリターン」の事業を続けながら、運輸業の中心を松浦川の川下しへと移し、石炭も採掘よりは問屋業に専念する方向へと舵を取った。しかし何といっても最大の出来事は醤油醸造を始めたことであった。「自伝」には、「拾五年中　醤油造業設立す　醤油は日用品にして永遠宮島家の商売将来見込み付て此業起す」とある。傳兵衞が熟慮の末、「永遠の商売」を目指してこの業にあたったことが分かる。
</p>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-5">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_01.jpg" alt="" width="500" height="653" class="kyoka-img size-full wp-image-9687" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_01.jpg 500w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_01-230x300.jpg 230w" sizes="auto, (max-width: 500px) 100vw, 500px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20 mar-bot20">傳兵衞の「自伝」中、醤油醸造の開始を述べた部分。</div>
</div>
</div>
<p>全く新しい事業なので設備投資金が要る。川下し事業も始めたばかりで、当時の傳兵衞には資金的な余裕がなかった。そこで「頼母子講（たのもしこう）」を起した。これは原始的な資金融通組合である。会員が定額資金を定期的に持ち寄り、毎回、会員の一人に対して資金提供をする。この方法で６００円を調達し、休業中の醸造家から蔵道具類を購入した。明治１５年（１８８２年）３月、今の唐津市水主町と大石町にまたがる土地（宮島商店本店）に醸造蔵を建て、１８０石（３２．４キロリットル）の諸味を仕込んだ。早春に仕込むのは、水が冷たくて雑菌の繁殖が抑えられるからである。夏の高温で発酵が進み、秋には熟成されて醤油となる。新しい事業の門出を祝って、翌１６年（１８８３年）には醤油屋としての開店式を行った。幸いに傳兵衛の醤油はよく売れた。明治１８年（１８８５年）には倉庫を新築し、石高も年々増えていった。</p>
<p>ところが幸運は永く続かないもので、明治１９年（１８８６年）２月１６日、麹室（こうじむろ）より出火し、麹室と倉庫が全焼してしまった。かつて大麻丸遭難の時、傳兵衞は大ショックのあまり、三日三晩寝込んでしまったが、今度は違った。火事のその日より復旧作業を指揮し、僅か２３日間の工事で麹室と倉庫を新築してしまった。この早業は傳兵衞にとって生涯最大の自慢話であった。新事業を始めて４年、３８歳の傳兵衞の気力充実ぶりが伺われる。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-1 col-md-10">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_02.jpg" alt="" width="800" height="565" class="kyoka-img size-full wp-image-9678" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_02.jpg 800w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_02-300x212.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_02-768x542.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_02-624x441.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-bot20">宮島醤油創業の地。</div>
<div class="kyoka-cap mar-top-20">唐津市水主町２４０８番地と大石町２４１２番地にまたがる一帯。明治１５年（１８８２年）にここで醤油醸造が開始されたが、明治４２年（１９０９年）以降、工場は順次現在の本社工場の地に移され、昭和９年（１９３４年）に本社機能も移された。その後は松浦塩販売会社などとして使われた。</div>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（１２）新工場の建設</h3>
<p>佐賀県唐津地方の醤油造りにはもともと、他の地方と比較して格別優れた伝統があったわけではない。家内醸造から発した小規模生産者から教わりながらの技術研鑚であったと思われる。明治３６年（１９０３年）、京都で開かれた内国勧業博覧会において、醤油の品評キャンペーンが行われることになった。全国から２，８００点の醤油が出展された。傳兵衞も出展したところ「三等」を受賞した。三等以上の賞を受けたのは２００点（全体の７％）、九州からは１１点であったことから、この頃には傳兵衞の醤油は品質的にかなり進歩していたことが分かる。</p>
<p>生産の拡大に対応するために、傳兵衞は新堀（今の船宮町）に新工場を建てた。「新蔵（しんくら）」と呼ばれたこの工場は、明治４２年（１９０９年）に稼動を始め、以後大正年間を通じて順次充実された。水運のプロである傳兵衞の工場らしく、工場内に運河があり、製造された醤油は工場敷地内で船積みされ、すぐ裏の松浦川河口から玄界灘へと搬送された。いっぽう北九州の戸畑にも新工場を建てた。洞海湾に面したこの工場もまた、優れた水運拠点であった。物流の専門家が興した醤油業というのが、宮島醤油の際立った特質であった。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-7">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_03.jpg" alt="" width="800" height="542" class="kyoka-img size-full wp-image-9679" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_03.jpg 800w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_03-300x203.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_03-768x520.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_03-624x423.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" />
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-5">
<div class="kyoka-cap mar-top30 mar-bot30">工場の見取り図「株式会社宮島商店　醤油醸造場」。<br />
昭和初期に描かれたものと思われる。</div>
</div>
</div>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-7">
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_04.jpg" alt="" width="800" height="586" class="kyoka-img size-full wp-image-9680" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_04.jpg 800w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_04-300x220.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_04-768x563.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_04-624x457.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" />
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-5">
<div class="kyoka-cap mar-top30 mar-bot30">大正期における工場増築の様子。<br />
記録によれば大正１０年、第１６号倉庫の棟上とある。大正年間には、こうした増築が繰り返し行われた。</div>
</div>
</div>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-7">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_05.jpg" alt="" width="600" height="459" class="kyoka-img size-full wp-image-9681" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_05.jpg 600w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_05-300x230.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" />
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-5">
<div class="kyoka-cap mar-top30 mar-bot30">戸畑工場。<br />
戸畑工場は大正３年（１９１４年）に設立された。この写真は大正６年（１９１７年）のものである。戸畑工場では醤油醸造が昭和３０年代まで行われ、それ以後、生産は本社工場に集約された。以後、戸畑支店は販売と物流のみを扱うことになった。</div>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（１３）販売網の構築</h3>
<p>販売戦略として、傳兵衞は自ら築いてきた炭鉱と水運の商圏を生かした。明治３６年（１９０３年）に宮島商店醤油部を拡張し、同４１年（１９０８年）に伊万里支店、同４３年（１９１０年）に長崎支店、大正３年（１９１４年）には戸畑支店と直方（のうがた）支店を開設した。長崎支店の開設にあたっては、かつて慶応年間に佐賀藩が開いた藩校致遠館の土地と建物を買い取り、それをそのまま支店として使った。ここは副島種臣、大隈重信らが宣教師フルベッキから英学を教わった場所であり、副島と大隈は途中から教師も兼ねた。大隈らの教育者としての出発点とされる由緒ある場所で、傳兵衞は大胆にも醤油の瓶詰めや販売を行ったのである。今はその場所に早稲田大学による記念碑が建っている。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_06.jpg" alt="" width="662" height="447" class="kyoka-img size-full wp-image-9682" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_06.jpg 662w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_06-300x203.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_06-624x421.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 662px) 100vw, 662px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20 mar-bot20">明治４１年（１９０８年）に開設された伊万里支店。<br />
この写真は大正９年（１９２０年）のものである。</div>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_07.jpg" alt="" width="800" height="557" class="kyoka-img size-full wp-image-9683" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_07.jpg 800w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_07-300x209.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_07-768x535.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_07-624x434.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20 mar-bot20">宮島商店長崎支店。<br />
明治４３年（１９１０年）、かつて佐賀藩校英学塾致遠館が置かれていた土地と建物に開設された。この写真は昭和年間のもので、旧致遠館の建物がそのまま残っている。この建物は昭和４１年（１９６６年）に解体された。</div>
</div>
</div>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_08.jpg" alt="" width="800" height="560" class="kyoka-img size-full wp-image-9684" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_08.jpg 800w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_08-300x210.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_08-768x538.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_08-624x437.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20 mar-bot20">長崎支店の建物。<br />
致遠館時代には中庭の建屋で授業が行われていたらしい。宮島商店では、ここで醤油の瓶詰め作業を行った。</div>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_09.jpg" alt="" width="800" height="581" class="kyoka-img size-full wp-image-9685" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_09.jpg 800w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_09-300x218.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_09-768x558.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_09-624x453.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20 mar-bot20">長崎支店の古い木看板。<br />
「醤油」と大書して、「株式会社宮島商店醸造　本店佐賀県唐津町　支店長崎県五島町」とある。宮島商店が株式会社組織になったのは大正７年だから、それ以降の製作である。</div>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（１４）統計で見る宮島醤油</h3>
<p>明治学院大学経済学部教授の神山恒雄さんは、明治・大正期における傳兵衛の醤油業の足跡を研究されている。神山教授が「主税局統計年報」、「佐賀県統計書」などをもとに分析されたところ、佐賀県における醤油の移出入バランスは大正３年（１９１４年）に逆転している。つまり本格的な醤油醸造業が育っていなかった佐賀県においては、明治期を通じて醤油は他県から移入されており、移出される量は少なかった。いっぽう大正期に入ると、佐賀県は圧倒的な移出県となる。宮島醤油の新工場が年々拡張され、また北部九州各地に支店が開設されたのがこの時期に当たる。明治３８年（１９０５年）の統計によれば、佐賀県に千石（１８０キロリットル）以上の生産高の工場はなかったが、大正９年（１９２０年）の統計では、九州で唯一、５千石（９００キロリットル）以上の生産高を誇る工場が佐賀県にあるとされている。宮島醤油は九州最大の醸造家になったのである。生産高はその後も増え続け、大正末期には1万石（１，８００キロリットル）を超え、昭和１４年（１９３９年）には１万８千石（３，２４０キロリットル）に達した。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-2 col-md-10">
<table class="kyoka-table mar-top30">
<tbody>
<tr style="background-color:#ccc;" class="text-center">
<td>和暦年</td>
<td>西暦年</td>
<td>生産</td>
<td>移入</td>
<td>移出</td>
<td>県内需要</td>
<td>自給率</td>
</tr>
<tr>
<td>明治9年</td>
<td>1886</td>
<td class="text-right">5,539</td>
<td></td>
<td></td>
<td></td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>明治28年</td>
<td>1895</td>
<td class="text-right">4,062</td>
<td class="text-right">3,544</td>
<td class="text-right">355</td>
<td class="text-right">7,251</td>
<td class="text-right">56.0%</td>
</tr>
<tr>
<td>明治36年</td>
<td>1903</td>
<td class="text-right">8,013</td>
<td class="text-right">2,037</td>
<td class="text-right">1,910</td>
<td class="text-right">8,140</td>
<td class="text-right">98.4%</td>
</tr>
<tr>
<td>大正2年</td>
<td>1913</td>
<td class="text-right">14,914</td>
<td class="text-right">1,152</td>
<td class="text-right">6,564</td>
<td class="text-right">9,502</td>
<td class="text-right">157.0%</td>
</tr>
<tr>
<td>大正9年</td>
<td>1920</td>
<td class="text-right">21,521</td>
<td class="text-right">2,015</td>
<td class="text-right">6,463</td>
<td class="text-right">17,073</td>
<td class="text-right">126.1%</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<div class="kyoka-cap">明治、大正期における佐賀県の醤油の統計（単位は石＝１８０リットル）。<br />
神山恒雄教授が各種統計をもとにまとめられたもの。</div>
</div>
</div>
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_10.jpg" alt="" width="451" height="348" class="kyoka-img size-full wp-image-9686" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_10.jpg 451w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k33_10-300x231.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 451px) 100vw, 451px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20">佐賀県における醤油の需給関係グラフ</div>
<div class="kyoka-cap mar-bot20">上記表をもとに作ったもの。１９０３年（明治３６年）頃に佐賀県は移入県から移出県に変わり、それ以後は県内需要、県外への移出とも、大きな伸びを示している。</div>
<p class="text-center">（次号に続く）</p>
<hr />
<div class="row mar-top50">
<div class="col-xs-4 col-md-4">
<h2 class="text-left"><a href="kyoka32">前へ</a></h2>
</div>
<div class="col-xs-4 col-md-4">
<h2 class="text-center"><a href="https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column_category/kyoka">目次へ</a></h2>
</div>
<div class="col-xs-4 col-md-4">
<h2 class="text-right"><a href="kyoka34">次へ</a></h2>
</div>
</div>
</div>
</div>
</div>
</div>
</div>The post <a href="https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka33">「去華就実」と郷土の先覚者たち　第33回　宮島傳兵衞　（三）</a> first appeared on <a href="https://www.miyajima-soy.co.jp">宮島醤油</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>「去華就実」と郷土の先覚者たち　第32回　宮島傳兵衞　（二）</title>
		<link>https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka32?utm_source=rss&#038;utm_medium=rss&#038;utm_campaign=kyoka32</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ad110ji76j]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 01 Aug 2004 00:00:37 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[知る・楽しむ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>「去華就実」と郷土の先覚者たち 第32回　宮島傳兵衞　（二） 住福丸と富運丸という二隻の持ち船を得た傳兵衞は、全国規模の海運家として雄飛する。 七世宮島傳兵衞 （６）海運の全国展開 幕末期の唐津炭田には、様々な経営形態の [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<div class="center-block pad-top50 mar-right-15 mar-left-15">
<div class="container">
<div class="kyoka">
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-2 col-md-8 mar-bot30">
<h1>「去華就実」と郷土の先覚者たち</h1>
<h2 class="text-center">第32回　宮島傳兵衞　（二）</h2>
<hr />
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-9">
<p class="mar-top30">住福丸と富運丸という二隻の持ち船を得た傳兵衞は、全国規模の海運家として雄飛する。	</p>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-3">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_01.jpg" alt="" width="400" height="490" class="kyoka-img size-full wp-image-9659" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_01.jpg 400w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_01-245x300.jpg 245w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">七世宮島傳兵衞</div>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（６）海運の全国展開</h3>
<p>幕末期の唐津炭田には、様々な経営形態の鉱山があった。御用山と呼ばれる幕府直営鉱山、九州雄藩の経営する肥後山、薩摩山、久留米山など、小笠原藩（唐津藩）の経営する御領山、その他の私有山などである。傳兵衞は肥後山の経営者である宗田信左衛という人物に気に入られ、肥後山の御用商人となった。廃藩置県によって宗田は肥後山の所有者となり、引き続き傳兵衞に石炭を供給した。いっぽう薩摩山には薩摩藩出身の波江野文右衛門という主任がいて、この人物も傳兵衞の事業に協力した。こうして、唐津炭田で採掘される石炭を神戸・大阪に移出するのが、しだいに傳兵衞の事業の中心となって行った。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<p class="mar-top30">薩摩山の波江野文右衛門はその後、関西に出て、五代友厚らと共に淀川航路を経営した。波江野と五代はわが国で初めて、河川輸送専用の蒸気船を建造して運航した。淀川丸と名づけられたこの船は、河川輸送用に特別に船底が浅く設計されており、４０－５０人乗りの船であった。波江野と知己であった傳兵衞は、淀川丸の燃料として石炭を売り込み、それに成功した。</p>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-offset-1 col-md-4">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_01.jpg" alt="" width="400" height="500" class="kyoka-img size-full wp-image-9668" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_01.jpg 400w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_01-240x300.jpg 240w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20">五代友厚<br />
明治期大阪財界の指導者で、大阪商工会議所の初代会頭。<br />
国立国会図書館<br />
「近代日本人の肖像」より</div>
</div>
</div>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<p class="mar-top30">いっぽうこの時期、土佐藩出身の岩崎弥太郎率いる三菱社が勢力を拡大しつつあった。波江野の紹介により、明治６年（１８７３年）、傳兵衞は唐津炭を初めて三菱社に納品することができた。神戸に硫酸製造所が建設されるに際しては、そこに石炭を納めるルートを開拓した。明治９年（１８７６年）には、三菱が経営する和歌山県の炭鉱の石炭を勝浦港から運び出して神戸居留地の中国商人に届け、その販売仲介をも行った。
</p>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-offset-1 col-md-4">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k15_09.jpg" alt="" width="500" height="543" class="kyoka-img size-full wp-image-9347" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k15_09.jpg 500w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k15_09-276x300.jpg 276w" sizes="auto, (max-width: 500px) 100vw, 500px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">岩崎弥太郎。<br />
三菱財閥の創始者<br />
国立国会図書館<br />
「近代日本人の肖像」より</div>
</div>
</div>
<p>こうして関西のビジネスは唐津炭の販売という枠を超え、一部は輸出にまで関与し始めた。そこで明治６年（１８７３年）に宮島商店神戸支店を、同１０年（１８７７年）には大阪支店を開設した。関西での地歩を更に固めるために、傳兵衞は大阪三十四銀行の役員であった渡辺庄助・野田吉兵衛と３人で「株式会社三名社」を発足させ、自ら専務を務めた.</p>
<p>明治３年（１８７０年）、岩崎弥太郎は東京、大阪、高知を結ぶ国内航路を開設し、同年、神戸、長崎、上海を結ぶ航路も開かれた。明治５年（１８７２年）には郵便蒸気船会社（後の郵便汽船三菱会社、日本郵船会社）が設立され、いよいよ和船（帆船）から汽船へと時代が変わり始めた。明治７年（１８７４年）、傳兵衞は東京深川にある郵便蒸気船会社の倉庫に石炭を販売納品した。これが唐津炭の東京進出の最初であった。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-4">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_03.jpg" alt="" width="500" height="600" class="kyoka-img size-full wp-image-9670" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_03.jpg 500w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_03-250x300.jpg 250w" sizes="auto, (max-width: 500px) 100vw, 500px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20">浅野総一郎<br />
浅野財閥の創始者<br />
国立国会図書館<br />
「近代日本人の肖像」より</div>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-8">
<p class="mar-top30">
明治８年（１８７５年）、横浜で石炭商をしていた浅野総一郎と知り合い、浅野を通じて王子製紙や後の浅野セメントなどに石炭を納品した。その後老齢に到るまで、傳兵衞と浅野総一郎は永い交遊を持った。</p>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（７）父子の再会</h3>
<p>堀田新兵衛という人が大阪中之島に住んでいた。新兵衛は唐津出身で、幼い頃長崎で西洋人に雇われて以来、外国人相手の商売をした。当時は大阪川口の寄留地に店を持っていた。この人の計らいで、傳兵衞の大阪出張時に、当時横浜にいた父喜兵衛の旅の都合をつけさせ、中之島の堀田邸にて親子対面が行われた。明治４年（１８７１年）のことで、面会は２度行われた。</p>
<p>離縁された父と、父なき家を支えて成功者となりつつある２５歳の息子が、１７年ぶりに対面するというのは、どんなものだろうと気になるが、「自伝」には感情的な記述はなく、交わした会話の内容も記されていない。ただ、「父は郷里唐津へ墓参のため帰唐の途なり。尤もこの節頃は幾分手元宜敷折からならんと察せられたり」と、父の暮らし振りを気遣っている。縁を切られたと言っても、船乗りとしての共通の志を抱く父子である。この頃の傳兵衞の行動を見ていると、父の果たせなかった夢を追っているように見える。</p>
<p>この年、祖母トヨが亡くなった。これを機に傳兵衞は富田屋の家業であった魚屋、料理屋、及び鉱業者向け宿泊所のすべてを廃止して、石炭商と海運業に専念した。祖母、母らが最も心配していた方向へと突き進んだのである。<br />
　</p>
<hr />
<h3>（８）大麻丸の遭難</h3>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<p class="mar-top30">明治８年（１８７５年）、傳兵衞は持ち船である住福丸と富運丸を売却し、２，２００石という、当時としては最大級の和船である大麻丸を購入した。石炭５５万斤（３３０トン）を積むことができた。伊予国の小田忠吉を船長に雇い、唐津から海軍省御用石炭を積んで、横須賀に向けて初航海をした。若き傳兵衞の海運業はまさに順風満帆であった。</p>
<p>翌明治９年（１８７６年）の１２月、石炭を満載して唐津を発った大麻丸は、明治１０年（１８７７年）正月、品川港に着いた。東京で販売に奔走していると、西南戦争が勃発して石炭の価格が急騰した。１万斤（６トン）あたり３８円で売れ、傳兵衞は大きな利益を上げた。</p>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_04.jpg" alt="" width="500" height="567" class="kyoka-img size-full wp-image-9671" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_04.jpg 500w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_04-265x300.jpg 265w" sizes="auto, (max-width: 500px) 100vw, 500px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">大麻丸の鑑札</div>
</div>
</div>
<p>得意の絶頂にあったこの東京出張の帰りのことは、詳細に記録されている。傳兵衞は陸路唐津へ向かうことにしたので、大麻丸は小田忠吉が率いて２月１７日午前６時に品川沖を発ち、午後には伊豆長州呂港に入った。船員たちの骨休めと、食糧その他の積み込みをしたのだろう。ここにしばらく滞在し、３月２日、同港を発った。遠州灘に出ると午後６時頃から風雨が強まり、午後１０時には北西からの大暴風雨となった。航行を諦めて碇を下ろし、じっと耐えることにしたが、１２時ごろ舵が破損し、浸水が始まったので、ついに帆柱を切断した。</p>
<p>やがて暴風雨は治まったが、舵と帆柱を失った大麻丸は南へ南へと漂流を続け、５日後の３月７日、八丈島海域に達した。翌８日、乗組員たちは手漕ぎの小舟に乗り移って小島に上陸した。八丈島本島から３里余りのところにある小島で、小島鳥打村と呼ばれていた。乗組員は全員助かったが、大麻丸は岩場にぶつかって大破し、積荷は全滅した。</p>
<p>傳兵衞にとって、この遭難はショックであった。得意の絶頂から一転して事業存続の危機に立たされ、さすがに三日三晩、布団を被って寝込んでしまった。</p>
<hr />
<h3>（９）石炭の川下し</h3>
<p>大麻丸の遭難は、遠隔地への石炭輸送業の持つ潜在的な危険性を傳兵衞に思い知らせた。これを機に傳兵衞はよりリスクの小さな事業へと重心を移して行く。亡き祖母らの忠告にやっと耳を傾けたとも言える。明治１２年（１８７９年）、宮島商店神戸支店を閉鎖し、同１３年（１８８０年）には三名社を退社した。大阪支店もほぼ同時期に閉鎖したようである。</p>
<p>遠隔地海運の事業を縮小するいっぽう、傳兵衞は地元に商機を求めた。唐津炭田は内陸部にあるので、石炭を唐津港まで届けるには、松浦川に添って運ぶ。松浦川は水深が浅いので大型船は使えず、川舟を使うしかなかった。そこで傳兵衞は「川下し（かわくだし）」と呼ばれる輸送業に乗り出すことにした。松浦川の河口には海軍の貯炭場があったが、ここも水深が浅いので大型船が接岸できず、沖合いに停泊する大型帆船や汽船に貯炭場から石炭を運んで積み込む。ここでも川舟が使われた。</p>
<p>明治１３年（１８８０年）、傳兵衞は川下し事業に乗り出した。翌年には唐津城祉の対岸にある満島に石炭販売店を開いて、炭鉱主から大口顧客への販売仲介を始めた。明治１５年（１８８２年）の記録を見ると、海軍に御用炭を納めたが、中に品質の劣る中等炭があるので、それを横浜の浅野総一郎に月一千トンほど販売したとある。同１６年（１８８３年）には佐渡金山への販売が記録されている。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_05.jpg" alt="" width="600" height="360" class="kyoka-img size-full wp-image-9672" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_05.jpg 600w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_05-300x180.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">松浦川の川舟<br />
（写真提供：唐津市）
</div>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_06.jpg" alt="" width="600" height="453" class="kyoka-img size-full wp-image-9673" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_06.jpg 600w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_06-300x227.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">松浦川河口に停泊する大型帆船。<br />
これに小舟で石炭を積み込む。<br />
（写真提供：唐津市）</div>
</div>
</div>
<p>唐津近郊の芳ノ谷に傳兵衞は炭鉱を所有していたが、明治２０年（１８８７年）、この鉱区全部を売却して、その見返りに川下し舟３０隻を購入した。翌２１年（１８８８年）には造船所を設立し、川舟の自社生産を始めた。明治２３年（１８９０年）、唐津港が国の特別輸出港に指定されると、海外からの汽船の来訪が増えたので、唐津城二の丸御殿跡の真下に宮島商店石炭部を設置した。明治年間を通じて、川下しを中心とした石炭輸送と販売の事業は順調に成功をおさめた。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_07.jpg" alt="" width="600" height="401" class="kyoka-img size-full wp-image-9674" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_07.jpg 600w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_07-300x201.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_07-272x182.jpg 272w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20 mar-bot20">傳兵衞が石炭部を置いた松浦川河口の土地。唐津城二の丸御殿の真下にある。現在は家屋も解体されている。</div>
<hr />
<h3>（１０）炭鉱経営</h3>
<p>文政・天保年間に祖父六世傳兵衞が北波多村岸山に炭鉱を開いて以来、宮島の炭鉱経営は失敗続きで、「石炭（いし）は出んべえ」と人々にからかわれた。じっさい宮島家にとって炭鉱経営は、なかなかうまく行かないが捨てきれない夢であった。</p>
<p>傳兵衞自身が炭鉱経営に乗り出した最初の経験は、明治７年（１８７４年）、相知（おうち）梶山狐谷の炭鉱であった。しかし２年後には売却している。次いで明治１９年（１８８６年）、北波多村岸山地蔵谷（地元ではドウメキとも呼ばれる）にあった旧幕府所有鉱区と旧小笠原藩営鉱区の一部の採掘権を得て、採鉱に着手した。この鉱区は当時、海軍省が管轄していたので、傳兵衞は海軍唐津石炭用所に対して「試掘願書」なるものを提出している。地蔵谷の見取り図を添えたこの文書は今も宮島商事本社に保管されており、唐津炭田の歴史を語る貴重な史料となっている。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<p class="mar-top30">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_08.jpg" alt="" width="600" height="455" class="kyoka-img size-full wp-image-9675" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_08.jpg 600w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_08-300x228.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20 mar-bot20">明治１９年７月、傳兵衞が唐津海軍石炭用所に提出した「試掘願書」</div>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_09.jpg" alt="" width="600" height="480" class="kyoka-img size-full wp-image-9676" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_09.jpg 600w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_09-300x240.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">「試掘願書」に添付された見取り図</div>
</div>
</div>
<p>地蔵谷はしかし、翌明治２０年（１８８７年）に<a href="https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka17">竹内綱・明太郎父子</a>と<a href="https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka15">高取伊好</a>らの経営する芳ノ谷炭鉱に売却された。次いで明治２５年（１８９２年）、北波多村八代町に新鉱を開いたが、これもほどなく売却した。一連の経過を見ると、良い鉱脈に当たる幸運を求めて鉱区を買って掘ってみるが、うまくいかないと見るや、あっさり売却する、ということを繰り返している。高取伊好や<a href="https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka11">吉原政道</a>のような専門家が綿密な調査研究に基づいて行う事業とは異なり、運任せに近い炭鉱事業だったようだ。</p>
<p>失敗続きの炭鉱経営のなかで、傳兵衞自身が最も有望と見立て、心血を注いだのは、岸岳（きしだけ）鉱区であった。明治２８年（１８９５年）、北波多村稗田村にある１０万坪の鉱区を入手して経営を始めた。その後も買収を続け、明治３３年（１９００年）には一帯４３万坪の鉱区を所有した。祖父が炭鉱経営に乗り出した場所ゆえ、格別の思いもあったのだろう。ところがここも明治３４年（１９０１年）、炭鉱家古賀精二郎らに売却した。実は傳兵衞の見立ては当っており、売却後にこの鉱区では３尺、５尺という厚さの豊かな鉱脈が見つかった。後に三菱財閥が経営に乗り出し、三菱岸岳炭鉱として繁栄した。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_10.jpg" alt="" width="600" height="457" class="kyoka-img size-full wp-image-9677" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_10.jpg 600w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k32_10-300x229.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">操業中の岸岳炭鉱の写真</div>
<p>このように有望な岸岳炭鉱を傳兵衞はなぜ手放したのだろうか。「自伝」によれば、古賀精二郎ら３名への売却価格は４万円で、これを年内に全額受領し、それで九州鉄道の株を買って大株主となった。また、岸岳炭鉱で産出される石炭の川下し輸送について、その独占権を得た。結局、傳兵衞は炭鉱経営そのものよりは、輸送業と問屋業に本質的な興味があって、本業回帰を志したのだろう。また、本業の石炭輸送についても、川下しから鉄道輸送へと時代は動いており、それにしっかり対応するしたたかさも見せている。</p>
<p>岸岳炭鉱に限らず、明治後期より、唐津炭田には三菱、三井、貝島ら財閥が積極的に資本を投下した。こうしたなかで傳兵衞のような地元資本家の活躍が難しくなったのも事実である。傳兵衞は炭鉱経営からしだいに身を引いてゆく。それは、大麻丸遭難事件以来心がけていた、「より堅実な事業へ」という方針の実践でもあった。<br />
　</p>
<p class="text-center">（次号に続く）</p>
<hr />
<div class="row mar-top50">
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			</item>
		<item>
		<title>「去華就実」と郷土の先覚者たち　第31回　宮島傳兵衞　（一）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[ad110ji76j]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 01 Jul 2004 00:00:26 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[知る・楽しむ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>「去華就実」と郷土の先覚者たち 第31回　宮島傳兵衞　（一） 七世宮島傳兵衞（みやじまでんべえ）は宮島醤油の創業者である。幕末から明治初期にかけて、海運業を基礎に多彩な事業を展開したが、遠州灘沖での石炭輸送船の遭難という [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<div class="center-block pad-top50 mar-right-15 mar-left-15">
<div class="container">
<div class="kyoka">
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-2 col-md-8 mar-bot30">
<h1>「去華就実」と郷土の先覚者たち</h1>
<h2 class="text-center">第31回　宮島傳兵衞　（一）</h2>
<hr />
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-8">
<p class="mar-top30">七世宮島傳兵衞（みやじまでんべえ）は宮島醤油の創業者である。幕末から明治初期にかけて、海運業を基礎に多彩な事業を展開したが、遠州灘沖での石炭輸送船の遭難という悲劇をきっかけに、より永続的な事業への転進を決意し、明治１５年（１８８２年）、唐津の地に醤油と味噌の醸造所を作った。傳兵衞の波乱に満ちた生涯を記すことで、この連載「去華就実と郷土の先覚者たち」を閉じることにしたい。		</p>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-4">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_01.jpg" alt="" width="400" height="490" class="kyoka-img size-full wp-image-9659" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_01.jpg 400w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_01-245x300.jpg 245w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">七世宮島傳兵衞</div>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（１）宮島家のルーツ</h3>
<p>徳川後期以前の宮島家について明瞭な史料は残っていないが、伝えられるところによれば、安土桃山時代にその足跡がある。豊臣秀吉が朝鮮半島に侵攻するにあたって、全国の大名を肥前の名護屋（なごや）に集結させた。文禄・慶長の役（ぶんろく・けいちょうのえき、１５９２－１５９８年）と呼ばれる。秀吉の側近の中でも、四国伊予・今治の藩主であった福島正則は勇猛な武将として知られているが、その舟手役人に宮島という男がいた。福島軍の海上物資輸送をしていたという。１５９８年、秀吉が死去したので朝鮮侵攻は打ち切られ、大名たちは各々の領地に帰ったが、この男は名護屋に残り、次いで長崎県の志佐（しさ）という漁村に移って船乗りとしての生活を送ったとされる。言い伝えに過ぎないが、さほど荒唐無稽な話ではないと感じられる。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-2 col-md-8">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_02.jpg" alt="" width="800" height="600" class="kyoka-img size-full wp-image-9660" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_02.jpg 800w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_02-300x225.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_02-768x576.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_02-624x468.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20">現在の名護屋城址</div>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（２）六世傳兵衞（清左衛門）と喜兵衛</h3>
<p>宮島家の祖先はその後、唐津の水主町（かこまち）に移った。この頃から史実がはっきりしてくる。唐津藩の藩主が水野家であった時代、新町に近藤という浪人がいて、そこの男の子が宮島家に養子に来て、六世傳兵衞を名乗った。七世傳兵衞の祖父である。当時の宮島家は、水主町で「富田屋（とんだや）」という、魚屋を兼ねた小さな食堂を営んでいた。寿司などをふるまっていたという。</p>
<p>六世傳兵衞は魚屋の仕事に満足せず、唐津近郊の北波多村岸山に炭鉱を開業した。ところが良い鉱脈に恵まれず、出てくるのはガラクタばかりで、散々財産を注ぎ込んだあげくに撤退した。この失敗を唐津の町の人々が面白がり、戯れ唄にしたものが伝えられている。</p>
<blockquote><p><strong>「富田屋（とんだや）がとんだところに炭鉱（やま）をして<br />
味噌なし、米なし、醤油なし<br />
正月親方、盆頭領<br />
仕繰り繁昌、石炭（いし）は出んべえ」</strong></p></blockquote>
<p>六世傳兵衞は自身の炭鉱事業には失敗したが、唐津炭の仲買いをめぐる紛争の解決に奔走した。天保１０年（１８３９年）、水主町の問屋が炭鉱主たちに反抗して川舟の運行を停止するという、一種のストライキを起こした。このとき六世傳兵衞が搬送を買って出て炭鉱の危機を救った。唐津市歴史民俗資料館には、この時の六世傳兵衞の活躍ぶりが紹介されている。六世傳兵衞はのちに清左衛門を名乗った。</p>
<p>現在の宮島醤油本社がある船宮町一帯は、かつて新堀（しんぼり）と呼ばれていた。唐津藩の大規模土木工事によって松浦川の河口が大きく西へと変えられて唐津城の外堀を兼ねる形とされ、城下には掘や運河が整備された。この運河から河口を経て玄界灘へと繋がる水運の拠点が新堀である。今の「船宮町」という名は、ここに唐津藩の御船奉行所があったことからきている。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-7 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k13_05.jpg" alt="" width="600" height="403" class="kyoka-img size-full wp-image-9336" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k13_05.jpg 600w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k13_05-300x202.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" />
</div>
<div class="col-xs-5 col-md-6">
<div class="kyoka-cap mar-top30">明治４０年代の松浦川河口（写真提供：唐津市）。
</div>
</div>
</div>
<div class="row">
<div class="col-xs-7 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_05.jpg" alt="" width="800" height="535" class="kyoka-img size-full wp-image-9663" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_05.jpg 800w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_05-300x201.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_05-768x514.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_05-624x417.jpg 624w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_05-272x182.jpg 272w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" />
</div>
<div class="col-xs-5 col-md-6">
<div class="kyoka-cap mar-top30">現在の松浦川河口。<br />
松浦橋は右側（東側）に移された。</div>
</div>
</div>
<div class="row">
<div class="col-xs-7 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_06.jpg" alt="" width="800" height="535" class="kyoka-img size-full wp-image-9664" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_06.jpg 800w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_06-300x201.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_06-768x514.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_06-624x417.jpg 624w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_06-272x182.jpg 272w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" />
</div>
<div class="col-xs-5 col-md-6">
<div class="kyoka-cap mar-top30 mar-bot20">現在も残る新堀の運河。<br />
海の潮汐によって水位が上下する。両岸は宮島醤油本社工場の一角。</div>
</div>
</div>
<p>この新堀に住む内山喜兵衛（うちやまきへえ）という人が宮島家の当主として迎えられた。喜兵衛は夢想家であった。当時、玄界灘の小川島などでは捕鯨が盛んだった。喜兵衛は捕鯨に熱中して３年間も家に帰らず、家族を顧みなかったので、六世傳兵衞の怒りに触れて離縁されてしまった。家の当主が勘当されるという、異例のことであった。喜兵衛はやむなく江戸に出て生糸の仲買商をして生計を立て、第一銀行の生糸検査係、印刷局御用係などの職に就いたが、米穀相場に手を出して再び大失敗した。失意のうちに唐津に帰り、息子の世話になって「淡路屋」という紺屋（染物屋）を営んで余生を送った。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_07.jpg" alt="" width="800" height="480" class="kyoka-img size-full wp-image-9665" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_07.jpg 800w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_07-300x180.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_07-768x461.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_07-624x374.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">加部島の「風の見える丘公園」<br />
から小川島を望む。</div>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k31_08.jpg" alt="" width="800" height="561" class="kyoka-img size-full wp-image-9666" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">今も小川島に残る鯨見所</div>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（３）七世傳兵衞の生い立ち</h3>
<p>七世宮島傳兵衞は、嘉永元年（１８４８年）、唐津水主町において、父喜兵衛、母ツルの長男として生まれた。幼名を治三郎といった。数え年９歳になった安政３年（１８５６年）、新堀にあった高浜茂平の寺子屋に通い始めたが、１２歳で退学した。学歴はこれがすべてである。父喜兵衛はもともと家にはいない人だったし、治三郎が８歳の時、正式に離縁されたから、富田屋では当主不在のまま女手を頼りに魚屋を営んだ。やり繰りは苦しく、幼い治三郎も寺子屋に通うどころではなく、天秤棒を担いで魚を売り歩いた。佐賀まで魚を売りに行った帰り道、代金を落として泣きながら帰ったことがあったと後年語っている。</p>
<p>治三郎が数え年１３歳になった万延元年（１８６０年）、祖父六世傳兵衞は孫に名を譲って隠居した。治三郎は七世傳兵衞を名乗り、一家の当主となった。祖父は清左衛門と改名したが、４年後に死去した。傳兵衞（以後、七世傳兵衞を指す）はいよいよ一家の大黒柱となった。母ツル、叔母ヨシなど宮島家の女性たちは気丈で、若き傳兵衞をよく支えた。慶応元年（１８６５年）、傳兵衞は自ら起こす最初の事業として、小川島捕鯨組の仲買人となった。翌慶応２年（１８６６年）、１９歳の時、新町三浦屋の福井ギンと結婚した。</p>
<hr />
<h3>（４）２０歳の大冒険</h3>
<p>船乗りの先祖を持ち、捕鯨家の父を持つ傳兵衞としては、魚屋稼業から海運業へと雄飛するのが夢であった。２０歳の傳兵衞が石炭売買と海運に乗り出した顛末は、「自伝」に克明に記されている。</p>
<p>当時、富田屋は唐津地方の炭鉱を相手に商売をしていた。魚を売るだけでなく、鉱夫向けの簡易宿泊所もやっていた。慶応３年（１８６７年）は石炭不況で、「鉱業人の宿料その他種々」（「自伝」より）の支払いが滞り、傳兵衞はやむなく代金の代わりに石炭を安く買い受けることとなった。翌明治元年（１８６８年）６月、帆船を借用してこの石炭を積み込み、傳兵衞自身も乗船して兵庫に向けて出帆した。兵庫（神戸）・大阪の商人相手に、初めての石炭販売を試みて苦労し、３０日間以上も粘った結果、８月中旬になってやっと売りさばくことができた。</p>
<p>唐津での石炭の仕入れ値が1万斤あたり１７円、売り値が２７円、粗利益１０円から輸送料７円を引いた結果、３円の営業利益が残った。これで和船を大阪で買い求め、「住福丸」と命名した。念願の船を手にしたはよいが、これで費用が尽きてしまい、唐津に帰る金がない。困っていると、古舘嘉助という翁が唐津から大阪に来ていた。この人の紹介で「唐津蔵屋敷紙方役所」という藩の出先機関に借金を願い出ることができた。これで水夫らを雇い入れ、１０月下旬に大阪を出帆した。京都にいた田口平介、呼子の西念寺和尚らが便乗した。ところが航海士を雇う金がなかったのだろう。舵の取り方ひとつ知らない傳兵衞が船頭なので悪戦苦闘の旅となり、１１月上旬、やっとの思いで唐津に帰った。航海にも石炭販売にも素人であった傳兵衞が大胆にも乗り出した半年間の冒険であり、大仕事であった。</p>
<p>折しも明治維新の年、２０歳の傳兵衞が行ったこの冒険は、傳兵衞の海運家、石炭商としての出発点となっただけでなく、唐津炭が初めて関西に出荷された出来事でもあった。</p>
<hr />
<h3>（５）家族の反対と海運業の危険</h3>
<p>傳兵衞が住福丸に乗って帰国すると親族会議が開かれた。祖母トヨ、母ツル、叔母ヨシなどは傳兵衞の行為に猛反対した。宮島家のこんにちの困窮を招いた原因は、父喜兵衛が捕鯨と航海に熱中して長期に家を空けたことにある。働き者の傳兵衞が成人し、やっと安堵しようという矢先、その傳兵衞が父に倣って再び捕鯨に手を染めているだけでなく、自ら船を持って海運業に乗り出そうとしている。これでは再び一家の崩壊を招くというのである。実にもっともな心配である。</p>
<p>しかし、愛船住福丸を手にした傳兵衞は、母らの制止を振り切って、海運の道を突き進んだ。長旅後の休息もろくにとらず、１１月下旬から１２月下旬にかけて石炭を積んで長崎を往復し、翌明治２年（１８６９年）には、石炭を下荷に、唐津蔵屋敷紙方役所の御用紙を上荷として、再び神戸・大阪を往復した。</p>
<p>明治４年（１８７１年）、傳兵衞は和船をもう一隻購入し、「富運丸」と名づけた。母ら家族の心配は募ったが、それに追い討ちをかける事件が起こった。富運丸が海賊に襲われたのである。瀬戸内海を航海中、讃岐の国多度津港沖で、漁船２隻に乗った海賊に襲われ、金５両２歩、米７６俵、羽織２枚、旅差刀１刀などを奪われた。翌朝多度津港に入港して警察に届けると、戊辰戦争後、あちこちで海賊が出ているという。<br />
　</p>
<p class="text-center">（次号に続く）</p>
<hr />
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			</item>
		<item>
		<title>「去華就実」と郷土の先覚者たち　第30回　黒田チカ　（下）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[ad110ji76j]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 01 Jun 2004 00:00:49 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[知る・楽しむ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>「去華就実」と郷土の先覚者たち 第30回　黒田チカ　（下） （５）真島利行との出逢い 東北大学理学部に化学科を創設するにあたって、これを指揮したのは真島利行（まじまりこう）である。真島は明治７年（１８７４年）、京都の舞鶴 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<div class="center-block pad-top50 mar-right-15 mar-left-15">
<div class="container">
<div class="kyoka">
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-2 col-md-8 mar-bot30">
<h1>「去華就実」と郷土の先覚者たち</h1>
<h2 class="text-center">第30回　黒田チカ　（下）</h2>
<hr />
<h3>（５）真島利行との出逢い</h3>
<p>東北大学理学部に化学科を創設するにあたって、これを指揮したのは真島利行（まじまりこう）である。真島は明治７年（１８７４年）、京都の舞鶴に生まれ、東京帝国大学化学科で桜井錠二、池田菊苗、E. ダイバース（Edward Divers）らの指導を受けて有機化学の研究者となった。ドイツ、スイス、イギリスに留学して、当時開発されたばかりのオゾン酸化法や、白金触媒による水素添加法などを習得して帰国した。欧州仕込みの経歴ながら、真島は一貫して日本独自の化学研究を志し、ウルシやトリカブトに含まれる色素、毒素、薬効成分などの研究を進めた。</p>
<p>真島は研究教育組織の指導者としても重んじられ、東北大学理学部化学科の設立を指揮したのを皮切りに、北海道大学と大阪大学の理学部発足にも関わり、両学部の学部長を務めた。大阪大学では総長職にも就いた。理化学研究所でも多くの後進を育て、昭和２５年（１９５０年）に文化勲章を受章した。日本における有機化学の育ての親と言われる。</p>
<p>黒田チカが入学した大正２年（１９１３年）頃の東北大学は、創立間もない若い帝国大学で、多くの熱心な教授陣が揃っていた。なかでも化学の真島利行と物理の本多光太郎の働きぶりは有名だった。この二人だけは元日でも研究室にいるとの評判だった。本多はMK鋼の発見などで知られる日本の金属学・磁性学の開拓者である。研究のために摂氏マイナス２００度という低温が必要で、そのために大学内で空気を液化する装置を運転した。またガラス工作の技術者を育成し、学内で各種の魔法瓶を製作した。こうした研究環境を実現していたのは当時、国内では東北大学だけであり、真島ら周辺の研究者もその恩恵をこうむった。</p>
<p>黒田は真島の指導を受けることになるが、真島は研究室では終始無言で一心に研究に没頭するので、黒田は戸惑うことがあった。ある日、真島と実験台を共有して向かい合って実験していると、しきりにクシャミが出て止まらない。見ると真島が熱心に結晶を集めている。溶液中に沈殿したものを水流ポンプで減圧して集めるのだが、ポンプの先から飛んでくる水しぶきがクシャミの原因に違いないと考えて尋ねると、トリカブトの根から猛毒アコニチン（Aconitine）を取り出しているのだという。黒田はあきれて逃げ出した。こういう無頓着さも真島にはあったようだ。</p>
<hr />
<h3>（６）紫根研究・女性初の大学教授・女性初の学会講演</h3>
<p>理学部３年生となった大正５年（１９１６年）、真島から研究テーマについて希望を聞かれた黒田は、天然色素を研究したいと答えた。当時、色素の研究分野においては、アニリン、コールタールなどから染料を作る、いわゆる合成色素・合成染料の研究が主流で、天然物の研究は盛んではなかった。黒田は後年「私は何となく天然物色素の研究に魅力を感じました」と語っている。真島はそれに共感し、紫根（しこん。ムラサキソウの根）の研究を勧めた。紫は洋の東西を問わず高貴な色として珍重されているが、色素の正体が分からないので工業生産できない。日本、英国などで行われた研究は、当時、暗礁に乗り上げていた。</p>
<p>真島は、黒田の熱意に感じるものがあったのだろう。この話し合いから一週間も経たぬうちに、他の研究者がこれまで取り出せなかった結晶を紫根から取り出してみせた。二人はこの結晶をシコニン（Shikonin）と命名した。これで前途が開けたので、黒田のテーマはシコニンの構造研究と決まった。</p>
<p>X線回折、クロマトグラフィー、質量分析、磁気共鳴といった、現代の構造化学における常套手段が全くなかった時代である。シコニンを様々な試薬と反応させて様子を観察し、生成物を既知物質と比較することで反応様式を知る。こうした知見を集積させることでシコニンの正体を探るという、謎解きの連鎖のような研究である。時間と労力がかかる。卒業する時期になったが、そのまま副手として東北大学に残って研究に専念し、大正７年（１９１８年）の秋までにはシコニンの構造について結論を得た。この業績によって、黒田は東京女子高等師範学校（今のお茶の水女子大学）に、わが国初の女性教授として招かれた。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-6 col-md-6">
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</div>
<div class="col-xs-6 col-md-6">
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</div>
</div>
<div class="kyoka-cap mar-top-20 mar-bot20">シコニンの分子構造。黒田は初め、Ｉ（左図）を発表したが、のちの研究で旋光性があることが確かめられ、キノンの隣に左旋性の不斉炭素を持つＩＩ（右図）に訂正された。</div>
<p>大正７年（１９１８年）１１月、日本化学会は黒田に対して、紫根研究の成果を学会において講演するよう求めた。女性がこのような席で講演することは、もちろん我が国では例のないことなので、マスコミが注目し大騒ぎとなった。当日は一般の見物客も殺到し、雑踏の中で上着を盗まれる者が出るなどの有様であった。黒田に研究者への道を勧めた長井長義（日本薬学会会頭）も会場にいたが、講演を聴いて感激の余り、その場で、黒田を日本薬学会の終身会員に推薦することを宣言した。長井は日本薬学会においても同様の講演するよう求めたが、黒田は化学会における騒動を体験して「もうたくさんだ」と感じていたから、恩師からの再三の要請を断った。</p>
<hr />
<h3>（７）オックスフォード留学</h3>
<p>大正１０年（１９２１年）の初め、黒田に文部省から留学の命が下った。長井長義、桜井錠二らの推薦を得て、留学先は英国オックスフォード大学のパーキン教授（W. H. Perkin）のもとと決まった。当時の新聞記事は次のように紹介している。</p>
<p>「日本に３人しかいない女理学士の一人、黒田チカ女史は、恐ろしくはにかみながら少し上気して『別にお話することもありませんが』とひどく無愛想に言ってうつむいてしまう。『３月の１８日、横浜出帆の佐渡丸で出発します』機嫌を直した女史はようやく途切れ途切れに話し始める。『・・・どうも初めての留学なので心配でなりません』」</p>
<p>この記者は黒田を内気なはにかみ屋と見ているが、実は案外楽天的で、外国でも物怖じしない度胸を持っていた。船旅を楽しみ、有機化学の大家のもとでインドール誘導体の研究を任され、英国生活を満喫した。夏休みにスイス旅行をした時には、インターラーケンの小学校に招かれて、地理の時間に日本について英語で授業をした。２年間の英国生活について、「ホームシックになる暇もありませんでした」と回想している。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-8">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_05.jpg" alt="" width="600" height="385" class="kyoka-img size-full wp-image-9652" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_05.jpg 600w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_05-300x193.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20">黒田が下宿していた<br />
オックスフォードの家<br />
（写真提供：黒田家）</div>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-4">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_06.jpg" alt="" width="365" height="589" class="kyoka-img size-full wp-image-9653" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_06.jpg 365w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_06-186x300.jpg 186w" sizes="auto, (max-width: 365px) 100vw, 365px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20">オックスフォード時代。<br />
何かの催しのさい特別に装った着物姿であろう。<br />
黒田はこの留学を機に初めて洋服を着用し、以後は主として洋服での生活を送った。<br />
（写真提供：黒田家）</div>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（８）紅の博士誕生</h3>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-4">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_07.jpg" alt="" width="500" height="600" class="kyoka-img size-full wp-image-9654" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_07.jpg 500w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_07-250x300.jpg 250w" sizes="auto, (max-width: 500px) 100vw, 500px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">帰国後間もなく、<br />
理研の実験室における<br />
黒田チカ<br />
（写真提供：佐星醤油）</div>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-8">
<p class="mar-top30">大正１２年（１９２３年）８月、米国経由で帰国した黒田は、佐賀の実家に挨拶に帰った。このとき関東大震災が起こった。黒田自身が被災しなかったのは幸運だったが、東京に戻ると女高師の建物は瓦解して研究できる状態ではない。いっぽう、駒込に建設されて間もない理化学研究所（理研）は震災に耐えて無事だった。理化学研究所は高峰譲吉、渋沢栄一、桜井錠二らの運動によって大正６年（１９１７年）に設立された、わが国初の先端科学研究機関である。真島利行も理研に研究室を持っていたので、黒田には「教育は湯島の女高師で、研究は駒込の理研で」という、忙しいが恵まれた環境が用意された。</p>
</div>
</div>
<p>黒田は「紅」を理研での研究テーマに選んだ。紅花（ベニバナ。キク科の植物）の花から採られる色素で、洋の東西を問わず、古くから珍重され親しまれてきた赤い色素である。クレオパトラが愛用したとも伝えられる。紫紺の場合と同様、結晶が得られないので世界中で研究が中断していた。黒田は試行錯誤の末、カーサミン（Carthamin）という色素の結晶を手にした。それが配糖体（グリコシド。糖と糖以外の部分が結合したもの）であることを突き止め、一歩一歩、その分子構造に迫って行った。一途に研究に打ち込んだ日々を「当時の理研の雰囲気、時間を超越し、物と親しんだ時代を偲ぶ」「実に天国のような雰囲気」と回想している。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<p class="mar-top30">分子構造がいよいよ決定できるという、最終段階まで来た。その日の緊張した様子を、黒田は書き記している。「いよいよこの勝負を決する瞬間を恐れ心配して、手伝ってくださっていた松隈ときよさんが早く帰られたほどだったこと、幸いこれが成功を示したので、喜びの余り仙台の真島先生へ打電したことなど、その間のわくわくするような心理状態をお分かりいただけることでしょう。」</p>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_08.jpg" alt="" width="608" height="345" class="kyoka-img size-full wp-image-9655" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_08.jpg 608w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_08-300x170.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 608px) 100vw, 608px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">カーサミンの分子構造<br />
（Ｇはグルコース）</div>
</div>
</div>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<p class="mar-top30">日本の理研において紅花の色素カーサミンの構造が決定したという報告は、昭和５年（１９３０年）、英国化学会誌「Journal of The Chemical Society」に掲載された。黒田の執筆になるこの論文は「The Constitution of Carthamin. Part I and Part II」と題され、２部構成で１２ページからなる。この業績によって、黒田チカは化学分野において日本女性初の理学博士となった。国内における研究発表は、長井長義に対するかつての不義理を償うために、日本薬学会において行われた。日本化学会は昭和１１年（１９３６年）、有機化学分野で優れた業績を挙げた個人に対して贈る「真島利行賞」を制定するにあたり、その第一回受賞者に黒田チカを選んだ。</p>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_09.jpg" alt="" width="800" height="1368" class="kyoka-img size-full wp-image-9656" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_09.jpg 800w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_09-175x300.jpg 175w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_09-768x1313.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_09-599x1024.jpg 599w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_09-624x1067.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20">Journal of The Chemical Society　１９３０年号に掲載された黒田チカの論文冒頭<br />
“The Constitution of Carthamin. Part I and Part II” by (Miss) Chika Kuroda.</div>
</div>
</div>
<p>　</p>
<hr />
<h3>（９）たまねぎ皮から高血圧治療薬</h3>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<p class="mar-top30">
紅の研究が一段落したころ、ある生徒から「玉葱（たまねぎ）の皮で染め物をすると、薄茶色のきれいな色になりますが、何故でしょう」と質問されたのがきっかけで、たまねぎの皮に含まれる有効成分の研究に着手した。日中戦争が始まり、戦時下で研究費や物資が欠乏してきたので、安価で入手可能な材料を探していたこともあった。この研究は第二次世界大戦をはさんで戦後まで続けられ、昭和２８年（１９５３年）、たまねぎの皮に約２％含まれるケルセチン（Quercetin）が高血圧の治療に有効であることを示すという、大きな成果に結実した。黒田自身が錠剤づくりまで行い、昭和３０年（１９５５年）には高血圧治療薬「ケルチンC」として発売された。</p>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-offset-1 col-md-4">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_10.jpg" alt="" width="800" height="1548" class="kyoka-img size-full wp-image-9657" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_10.jpg 800w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_10-155x300.jpg 155w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_10-768x1486.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_10-529x1024.jpg 529w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_10-624x1207.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20">ケルセチンの薬効発見を報じた新聞<br />
1956（昭和31）年11月18日<br />
日本経済新聞（夕刊）<br />
（写真提供：黒田家）</div>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（１０）リコーの始まり</h3>
<p>余談をひとつ紹介しよう。理研の指導者であった桜井錠二、大河内正敏らは、先端研究を推進しながら、科学の成果を社会に還元することに熱心であった。「理化学興業株式会社」という製造販売会社を設立して、理研で発明されたものを商品化した。桜井錠二の息子である桜井季雄が発明した感光紙（コピー紙）もそのひとつだった。黒田チカの実兄が佐賀の醸造元吉村家に養子に行っていた関係で、吉村商会が「理研陽画感光紙」の九州地区総代理店となった。吉村商会には市村清という商売上手な人物がいて、非常な勢いで感光紙の販売を伸ばした。市村はその功績により昭和８年（１９３３年）理化学興業株式会社の感光紙部長に抜てきされた。昭和１１年（１９３６年）にはこの部門を理研感光紙（株）として独立させ、同１３年（１９３８年）には理研光学工業（株）とした。これがこんにちの（株）リコーの出発点である。<br />
　</p>
<hr />
<h3>（１１）黒田チカの人柄と生涯</h3>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-5">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_11.jpg" alt="" width="600" height="896" class="kyoka-img size-full wp-image-9658" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_11.jpg 600w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k30_11-201x300.jpg 201w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">黒田チカの眠る黒田家の墓<br />
（佐賀市伊勢町の大運寺）</div>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-7">
<p class="mar-top30">第二次世界大戦の後、新しい学制によってお茶の水女子大学が発足すると、黒田チカは理学部化学科の教授となり、昭和２７年（１９５２年）に定年退官した後も名誉教授として後進の指導にあたった。昭和３４年（１９５９年）には「天然色素の有機化学的研究」によって紫綬褒章を、次いで勲三等宝冠章を受けた。昭和４３年（１９６８年）福岡で死去した。８４歳という長寿であった。佐賀市伊勢町の大運寺にお墓がある。毎年１１月８日の命日には、佐賀大学の関係者などによる墓参が行われている。</p>
<p>黒田チカは、我が国の女性が科学の世界に進出するにあたって、その先陣を切った人である。文字通りの先駆者だが、肩肘張ったところがなく、素直で善意に満ちた性格だったので、誰からも愛された。佐賀大学理工学部教授の堀勇治さんは「人に不快を示されたことがない。あらゆることを人の善意から出たものと解され、人の意見を受け入れ、黙々と自分の教育と研究に専念された」と述べている。</p>
</div>
</div>
<p>黒田の成功の陰には、平田敏雄、長井長義、真島利行、桜井錠二、W. H. パーキンなど、当時の指導的科学者たちの、物心両面にわたる援助があった。このことについて、お茶の水女子大学名誉教授の前田侯子さんは「これは黒田の優れた才能と温和で寛容な人柄によるものであろう」と述べている。</p>
<p>研究に対する姿勢については、黒田自身の言葉がそれを余すところなく語っている。</p>
<blockquote><p><strong>「実に物質といえども、取り扱う人々の熱心さに対して本態を露出して、純正の本態すなわち結晶となる場合がある。かくの如き経験は実に多く、物質も、愛すべき頼もしき友には感謝により答えたいのである」</strong></p></blockquote>
<blockquote><p><strong>「天然のものは正直ですから、こちらが真（まこと）を以って一生懸命で向かったら、必ず門を開きます。どんなに難しいことも悲観せず、困難に遭えば遭うだけ張り合いがあると考え、ますます勇気と真心とで向かうのが最善の道であることは、科学に限らず、すべてに通じるものと思います」</strong></p></blockquote>
<p>このような人物が日本の女性科学者の出発点にいたことは、幸いなことである。没後３０年の機会に、日本化学会は平成１１年（１９９９年）、化学会館において「日本初の女性化学者―黒田チカ博士」と題した資料展示会を開き、理化学研究所も記念行事を行った。お茶の水女子大学理学部では、黒田チカと、生物学における最初の女性博士である保井コノを記念して「保井・黒田奨学基金」を制定し、優秀な若手女性研究者に対して、今も毎年、奨学金を与えている。<br />
　</p>
<hr />
<h3>参考文献：</h3>
<ul>
<li>Chika Kuroda “The Constitution of Carthamin. Part I and Part II”　Journal of The Chemical Society, 1930, pages 752-765 and pages 765-767.</li>
<li>黒田チカ著　「化学の道に生きて」「婦人之友」　１９５７年３月号、４月号に連載</li>
<li>黒田チカ著　「化学に親しむ　悦びと感謝　I－V」 「化学教育」第１３巻第２号（１９６５年）から第１４巻第４号（１９６６年）にかけて５回連載</li>
<li>黒田チカ著　「半世紀前の東北大学時代をしのびて」 「化学」第２２巻第４号（１９６７年）３５４－３５５頁</li>
<li>前田侯子著　「黒田チカ先生の生涯と研究」 「お茶の水女子大学女性文化資料館報」第７号（１９８６年）</li>
<li>堀　勇治著　「化学会館化学史資料展示第１７回　日本初の女性化学者　黒田チカ博士」 「化学と工業」第５２巻第８号（１９９９年）１００２－１００５頁。</li>
</ul>
<hr />
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		<title>「去華就実」と郷土の先覚者たち　第29回　黒田チカ　（上）</title>
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		<pubDate>Sat, 01 May 2004 00:00:14 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[知る・楽しむ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>「去華就実」と郷土の先覚者たち 第29回　黒田チカ　（上） 黒田チカは我が国初の女性化学者と言われる。帝国大学に入学した最初の女性であり、化学の分野で顕著な業績を残した。特に紫根、紅花、ウニなどの持つ天然色素の研究に従事 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<div class="center-block pad-top50 mar-right-15 mar-left-15">
<div class="container">
<div class="kyoka">
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-2 col-md-8 mar-bot30">
<h1>「去華就実」と郷土の先覚者たち</h1>
<h2 class="text-center">第29回　黒田チカ　（上）</h2>
<hr />
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-8">
<p class="mar-top30">黒田チカは我が国初の女性化学者と言われる。帝国大学に入学した最初の女性であり、化学の分野で顕著な業績を残した。特に紫根、紅花、ウニなどの持つ天然色素の研究に従事し、それらを単独の物質として取り出し、その分子構造を決定した。またその一部を工業的に生産する道をも開いた。化学分野で女性初の理学博士となり、数々の学術賞を受賞した。教育者としては、東京女子高等師範学校（今のお茶の水女子大学）において、初の女性教授となった。科学者としての純粋で真摯な生き方は人々の尊敬を集め、明治、大正、昭和の三代にわたり、自然科学を志す女性たちの目標であった。</p>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-4">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k29_01.jpg" alt="" width="300" height="414" class="kyoka-img size-full wp-image-9643" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20">黒田チカ<br />
（写真提供：黒田家）</div>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（１）生い立ち</h3>
<p>黒田チカは明治１７年（１８８４年）佐賀県佐賀郡松原町（現在の佐賀市松原）に生まれた。父親の黒田平八は佐賀藩諫早邑の藩士であり、母トクとの間に生まれた三女であった。女性に学問をつけることは一般的でなかった時代だが、父平八は非常に進歩的な考えを持っており、男女を問わず子どもたちに十分な勉学の機会を与えた。チカも恵まれた環境の中で勧興小学校から佐賀師範学校女子部へと進み、１７歳の時に卒業した。学校の規則に従って一年間、佐賀郡川副高等小学校の教師を務めた。次いで明治３５年（１９０２年）東京に出て、当時の女性としての最高学府である女子高等師範学校（お茶の水女子大学の前身）理科に進学した。</p>
<hr />
<h3>（２）女子高等師範学校</h3>
<p>黒田はもともと文科にも興味があったので、女子高等師範（女高師）を受験するにあたって、どの分野を選ぶか迷った。文科の学問は独学でもできそうだが、理科の実験は学校でなければできないと考えて、理科を選んだ。在学中、平田敏雄教授の指導を受けるうち、しだいに化学の楽しさに夢中になった。特に酒石酸（しゅせきさん）の光学異性体などに見られる立体化学の現象に惹かれた。光学異性体とは、右手と左手のように、互いに鏡に映った映像の形をした一対を言う。このような一対が、分子の世界にもあるのである。また、染料や顔料の化学、染色の原理などにも興味を持った。明治３９年（１９０６年）に卒業した。</p>
<p>女高師での勉学を通じて、黒田は化学に対する情熱を持ち始めていた。しかし当時の女子にとっては、この先へと学歴を積む道は閉ざされていたので、理科教師として福井県立女子師範学校に就職した。福井に行ってみると優秀な教師と生徒たちが揃っていて、そこでの教師生活は活気に満ちたものだった。しかし一年後、母校から呼び出しがかかった。当時、女高師では、女性研究者を育てる試みが始まっており、黒田より３年先輩にあたる理科第一期卒業生の中から、保井コノ（生物学）が第一回研究科生に選ばれて研鑚を始めていた。その２年後、黒田が第二回研究科生として推薦されたのである。黒田は福井での教師生活にも未練があったが、周囲の勧めもあり、明治４０年（１９０７年）、官費研究科生として母校に戻った。</p>
<p>教授の平田敏雄は、黒田に講義の下準備や実験の助手をさせるいっぽう、化学諸分野の教科書を選んで与えた。リヒターの無機化学、ホーンマンの有機化学、ターカーの理論化学、ミューターの分析化学、サットンの定量分析学など、すべて英語の教科書であった。黒田一人のために講義が行われる訳ではないので、独学で学んだ。明治４２年（１９０９年）、昭憲皇后（明治天皇の妃）が女高師を訪問された際、黒田は理科４年生の実験を実演した。こうして２年間の研究科課程を修了し、明治４２年（１９０９年）、東京女子高等師範学校の助教授となった。黒田チカ２５歳の時であった。</p>
<hr />
<h3>（３）長井長義との出逢い</h3>
<p>黒田チカは東京女高師の助教授時代、長井長義（ながいながよし）という人物に出逢う。このことが黒田の人生を大きく動かすこととなる。</p>
<p>長井長義は弘化２年（１８４５年）、阿波の国（徳島県）に生まれた。藩医を務める父長井琳章の家に生まれた秀才だったので、父から漢方医学を学ぶいっぽう、慶応２年（１８６６年）、西洋医学を学ぶために長崎に遊学した。精得館（長崎大学医学部の前身）という医学校でオランダ人教師から医学、物理学、化学などを学んだ。化学実験に魅了されたことがきっかけとなって、長崎在住の写真家上野彦馬の下で写真技術を学んだ。銀の酸化還元反応を制御する技術をここで身につけた。</p>
<p>その後、東京医学校（東京大学医学部の前身）に進み、明治３年（１８７０年）、第１回欧州派遣留学生に選ばれてプロイセン（ドイツ）に渡った。ベルリン大学に入学し、そこで有機化学の大家、ホフマン教授に出逢う。ホフマン（August Wilhelm von Hofmann）はベンゼンやアニリンの発見者であり、ホフマン転位と呼ばれるアミン合成法を確立したことでも知られる。英国ロイヤルカレッジの初代化学教授であり、のちベルリン大学に移ってドイツ化学会を創立した。長井はここにおいて、ついに医学から有機化学への転進を決意する。</p>
<p>明治初期の官費留学生は１－２年間の欧州滞在の後、帰国して帝国大学教授など要職に就くのが常だったが、長井はホフマンにすっかり気に入られ、結局１３年間、ベルリン大学助手として勤務し、欧州において有機化学の第一線研究者となった。明治１７年（１８８４年）、ドイツ人の妻テレーゼを伴って帰国し、帝国大学薬科大学教授となった。明治２０年（１８８７年）には日本薬学会を設立して会頭となり、以後４２年間、会頭職にあった。日本での研究としては、古くから漢方薬として使われてきた「麻黄（マオウ）」からエフェドリン（Ephedrine）を単離抽出して分子構造を決定し、合成法をも確立したことが特筆される。これによってぜんそくなど呼吸器系疾患の治療が格段に進歩した。これらの業績は日本の天然物有機化学と薬学の出発点とされている。</p>
<p>長井は日本女子大学や双葉学園の設立に関わるなど、女子教育にも熱心であった。東京女高師の中川謙二郎校長の熱心な勧誘によって大正元年（１９１２年）、東京女高師に講師として招聘され、黒田がその実験助手を務めることとなった。国際的に著名な学者のもとで働く機会を得た黒田は、「噂に承ったご風采に親しみと光栄を感じた」、「有機化学の大家に接する喜びがあった」と、若い女性らしい興奮を記している。</p>
<p>長井が黒田に課した実験は、有機化学反応のための試薬作成であった。特に純度の高いシアン化カリウム（青酸カリ）が要求され、そのためには実験室で黄血塩（フェロシアン化カリウム）に希硫酸を注いで新鮮なシアン化水素ガス（青酸ガス）を発生させることも含まれる。このような猛毒を扱う危険な実験を若い女性に任せることに、黒田は非常に驚いた。聞けば長井自身、ドイツで誤ってシアン化水素を吸って気を失い、周囲の人の手で一命をとり留めたことがあるという。</p>
<p>その体験をもとに、長井は黒田に対して実験にあたる者の厳しい心構えと技術を伝授した。黒田は決死の覚悟で課題に立ち向かい、一人前の実験化学者としての技量を次第に高めて行った。後年、黒田は当時を振り返って「周到な注意を要すべき、尊き経験を得さしめんがため、先生がわざわざ真剣な態度にて厳しき実験を課せられたかと思うと、しみじみ印象し、忘れ難い有り難い思い出である」と記している。<br />
　</p>
<hr />
<h3>（４）初の帝国大学女子学生</h3>
<p>明治１９年（１８８６年）に東京帝国大学（最初は単に帝国大学と呼ばれた）、明治３０年（１８９７年）に京都帝国大学が設立されたのに続いて、明治４０年（１９０７年）第３の帝国大学として、仙台の地に東北帝国大学が設立された。しかし、これらの帝国大学への入学資格は旧制高等学校卒業生に限るとされ、その高等学校は男子校だったので、帝国大学は自動的に男子のみの大学であった。明治４５年になって、政府はようやく、帝国大学入学試験の受験資格を高等工業学校、高等師範学校の卒業生等にまで拡げた。これらの学校からの受験者は「傍系」と呼ばれた。そこで女子高等師範学校の卒業生にも受験資格があるかどうかが問題になった。文部省は女子に入学を許可する考えは持っていなかった。</p>
<p>大正２年（１９１３年）、東北帝国大学の沢柳政太郎総長は、女子の入学を受け容れる用意があることを表明した。これを知った長井長義は、黒田チカら数名の女性に、東北帝大への願書提出を勧めた。このことが発覚し、新聞等でも取り上げられて話題となった。文部省は東北帝大総長に対して詰問状を送った。これは今も東北大学に保存されている。それによると「元来女子を帝国大学に入学せしむることは前例の無きことにて、すこぶる重大なる事件に有り」とある。東北大学側は文部省に出頭して事情を説明した。詳細なやり取りは明らかでないが、女子の願書を受け付ける旨、改めて説明したものと思われる。</p>
<p>世間注視のもとで東北帝大を受験することについて、黒田本人は自信がなかった。化学実験に対する黒田の真摯な態度を理解していた長井は「化学は物質を対象としているから、物質に親しまねばならない。その点であなたは大学入試の資格がある。」と励ました。</p>
<p>入学試験は予定通り実施され、東京女高師出身の黒田チカ（化学科）と牧田ラク（数学科）、日本女子師範学校出身の丹下ムメ（化学科）の３人が合格した。特に難関と言われた化学科への入試を突破した者は１１人であり、うち２人が女性という快挙であった。こうして東北大学理学部は、我が国の帝国大学で初めて女子学生を受け容れた学部として、永く記憶されることとなった。３人にとっては、世間の注目を一身に浴びながらの大学生活となり、苦労も多かったろうが、大正５年（１９１６年）そろって卒業し、初の帝国大学女性理学士となった。</p>
<p class="text-center">（次号に続く）</p>
<hr />
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			</item>
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		<title>「去華就実」と郷土の先覚者たち　第28回　志田林三郎　（下）</title>
		<link>https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka28?utm_source=rss&#038;utm_medium=rss&#038;utm_campaign=kyoka28</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ad110ji76j]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 01 Apr 2004 00:00:23 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[知る・楽しむ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>「去華就実」と郷土の先覚者たち 第28回　志田林三郎　（下） 志田林三郎 （写真提供：多久市郷土資料館） 志田林三郎は明治２５年（１８９２年）３６歳の若さで亡くなったが、その３年半前の明治２１年（１８８８年）念願であった [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<div class="center-block pad-top50 mar-right-15 mar-left-15">
<div class="container">
<div class="kyoka">
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-2 col-md-8 mar-bot30">
<h1>「去華就実」と郷土の先覚者たち</h1>
<h2 class="text-center">第28回　志田林三郎　（下）</h2>
<hr />
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-5">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k26_01.jpg" alt="" width="500" height="670" class="kyoka-img size-full wp-image-9623" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k26_01.jpg 500w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k26_01-224x300.jpg 224w" sizes="auto, (max-width: 500px) 100vw, 500px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20">志田林三郎<br />
（写真提供：多久市郷土資料館）</div>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-7">
<p class="mar-top30">志田林三郎は明治２５年（１８９２年）３６歳の若さで亡くなったが、その３年半前の明治２１年（１８８８年）念願であった電気学会を設立し、第一回通常会において自ら記念演説を行っている。若き指導者が、学問、技術、国の電気事業の整備、学会の運営、電気の未来、科学者技術者が解決すべき課題等を伸び伸びと語っている様は、読む者に爽快感を与える。しかし１００年以上も前の文章なので、現代の若い世代が読みとおすには困難があるようだ。そこで、演説の全文を現代日本語訳の形でご紹介することにした。そのさい、構成が分かり易いように見出しを付した。</p>
</div>
</div>
<hr />
<h3>電気学会設立にあたっての志田林三郎の記念演説</h3>
<p>　</p>
<p class="text-right mar-bot30">明治21年（1888年）6月25日<br />
電気学会第一回通常会において<br />
幹事　工学博士　志田林三郎<br />
現代語訳：平成16年（2004年）3月<br />
宮島清一</p>
<p>今夕の集会は本会設立後最初の通常会なので、会長の演説のみにて閉会すべきところ、私も何か簡単な演説をするようにと会長より命ぜられたので、また時間も十分にあるので、学会設立という最も喜ばしい機会にあたって、少しお話したい。さて本会設立の必要性と目的の大略は会長が既に述べられたので、私はその目的を達成するための針路、つまり本会を将来において発展させる方法について、若干の意見を述べたい。</p>
<hr />
<h3>（１）電気学会の組織</h3>
<p>どんな会でも、最初の設立に際して特に注意すべきはその組織形態である。本会創立委員の諸君はその点を深く理解し、本会規則の制定にあたって周到に力を尽した。それはどういう点かといえば、本会の将来における振興を図るには、まず世間有力者の賛助を請わねばならない。社会に名望ある人々を推薦して名誉員とし、また通信事業の管理者及び電気工業あるいはそれに密接に関係する工業の経営者、また、物件や金銭を寄付するなどして本会の趣旨に賛同する人々を賛成員とする規程を設けた。また本会の基幹実務にあたる者は電気学あるいはそれと密接に関係ある学術や工業に関して広い見識と経験をもつ者でなければならない。そのため、通常員の資格を高く設定し、また役員は概ね通常員の中から選ぶことに定めた。いっぽう会員は種々の専門家より成り立ち、かつその数は多くなければならない。そこで電気に関する各種技術を専門とする者で、通常員の資格を持つには至らないものの、それを目指す志ある者を准員として広く入会を許可することにした。</p>
<p>本会設立以来今日までの経験によれば、本会組織に関する創立委員の尽力が実り、会員数は既に８４０名に達し、名誉員、賛成員らからの寄付金は２００円に達した。これらは望外の好結果である。しかしながら、本会将来の振否盛衰は会員諸君が会務を処する方針如何によるから、私自身が今後どのあたりに意を注ぐかを、以下に論究したい。<br />
　</p>
<hr />
<h3>（２）電気学会の事業</h3>
<p>そもそも学術工芸の進歩の速さというものは、理論と実験の調和如何による（工学会誌６６－６７巻に講演者が著した論文「工業の進歩は理論と実験との親和に因る」を参照）。従って本会は電気学術家と電気工芸家の媒介者となり、両者相互の知識交換を円滑で容易にするよう努めることが最も肝要である。つまり、学術家会員が自ら新しい学理を発明発見し、あるいは他人の発明発見を知った場合、事の大小を問わず直ちに演説あるいは通信してこれを本会に報道し、本会は直ちにこれを本会雑誌に掲載し、実地家たちがその学理を実地に利用する便を図らねばならない。いっぽう実地家は常にその実験事項について珍しいものは細大漏らさず速やかに演説もしくは通信し、本会はこれを本会雑誌に記載する。こうして会員たちがこれを実地の事業に応用し、あるいは学理研究することを促すこと、これこそが本会の要務である。 　</p>
<p>会員の中で電気の学理に明るい人や電気工学技芸の実験に精しい人々を選び、相応の報謝を与えて学術工芸の講義を委託し、その内容を詳しく本会雑誌に掲載し、一般会員の便に供することも望ましい。</p>
<p>内外の新聞雑誌に掲載された電気学術工業や技芸の記事で会員の参考になるものは、事の軽重によらず会員が抄録抜粋して、本会雑誌の抜粋の部に掲載することもまた、多少なりとも本会の利益を増進するものである。</p>
<p>本会雑誌には問答の部を設け、理論家はその学理が実地経験に合うかどうかを実験家に問い、実地者はその実験が学術理論に合うかどうかを学術家に質問するなど、会員たちが事の大小を問わず自在に疑問を提出して自由に応答する場を設けることもまた、知識交換の一助となるであろう。なかでも地方会員にとってはたいそう便利なことであろう。</p>
<p>学術研究を奨励することもまた非常に肝要である。電気学に関する発明発見は特に貴重である。本会規則において、電気に関する重要な発明発見者には金員または褒状を贈り、名誉を称え、あるいはその研究に対して補助金を支払うよう定めたのは、このためである。それだけでなく、その発明発見者の名誉を広く世界に知らしめるよう、本会が政府あるいは外国の学会に対して働きかけねばならない。また、当人が専売特許を得ようとする場合は、それが達成されるよう本会は支援せねばならない。</p>
<p>電気学術または工芸の重要問題については、本会において会員の中から特定の人々を選んで委員とし、必要な費用を本会が負担して研究に従事してもらう。そして委員による研究結果報告を本会雑誌や海外雑誌に寄稿して、その仕事ぶりを公開する。これは学術研究を奨励する一方法であり、本会にとって大いに利益となることである。</p>
<p>その他、細事について種々所見があるが、一々挙げることはやめよう。しかし、本会研究の範囲に属する事柄の大綱を指し示すことは非常に重要なので、私はここに電気学の沿革を述べ、その将来を推察し、本会が特に注意して探求すべき科目事項について所見を述べたいと思う。</p>
<hr />
<h3>（３）電気学の沿革</h3>
<p>電気学を古く遡れば、およそ２４６０年前、シャーレスによる摩擦電気の発見がある。それ以来、物体に導体と不導体の区別があることの発見や蓄電瓶の発明等もあったが、静電気は実用に適さなかったので、近来に至るまで著しい進歩が見られなかった。１８００年、イタリアのガルバニとボルタが電気の流れることを発見したことは、電気学上、無比の発見と言うべきである。これに続く重要な進歩は、その原因がいろいろなので、今ここに一々説明することは控えるが、電気学の進歩における各段階を画した最も偉大な業績については、ここに略記しておきたい。</p>
<p>デンマーク人エールステッドが電気と磁気との関係を見出し、これは電信技術の基礎となった。フランス人アンペールは電流と電流との相互作用を見出した。これは近年最も有用な機器である起電力計や電流計に応用されている。ドイツ人オームは起電力と抵抗との関係を定める原則を見出した。これは電信学士や電気学家にとって一日も欠かすことのできない基本となった。ファラデーの見出した誘導電気現象は、こんにちの動力発電機及び電話機の淵源となった。英国のトムソンによる電気の波動に関する数理的研究は、海陸の別なく、数千里を隔てた地との電気通信を自在に行う道を拓いた。</p>
<hr />
<h3>（４）電気学の沿革</h3>
<p>電信技術について述べる。ソンメリングが１８０９年に初めて電信技術を発明した時には、３５本の電線を用いても、その信号は甚だ不十分なものであった。しかし１８３７年、英国においてクークとホウィットンが磁針電信機を発明し、米国ではモールスが現字電信機（文字信号を送る電信機）を発明したことによって、電信技術が初めて実用化され、かつ電線はわずか２本で足りることになった。同じ頃ドイツでスタンヘイルが地球を電線の１本に代用できることを発見した。これによって１本の電線で十分に通信ができることとなった。</p>
<p>その後の電信技術は、１本の電線で同時に送受信する音信の数を増す方向においても、また送信速度を増す方向においても、着々と進歩している。同じ電線を使って一時に多数の音信を送受する方向での沿革をみると、ジントル、フリッヒン、スターン等の学才と労力とによって二重電信機が発明され、一本の電線を使って両端から同時に送信する道が拓かれた。続いてエジソン、スミス等のよって四重電信機が発明され、１本の電線を使って両端から同時に各々２音信を伝送する方法が実現した。また、メイヨー、ボードット、グレイ等は多重電信機を発明した。１本の電線を使って両端から同時に多数の音信を伝送する方法である。これはまだ広く用いられてはいないが、沿革中に記述しておくべき方法と思われる。デラニーの多重電信機は最近の発明だが、その方法はメイヨーらのものに比べて大いに優れているので、既に広く実用化されている。今では通常機器の送信速度で以って、１本の電線を使って同時に６音信を送受信できるようになった。</p>
<p>送信速度について見ると、ヒュースの発明した活字電信機では送信速度がおよそ毎分６０－７０語（欧語）であり、通常器械の２３倍に及んだ。しかし高速電信機の分野で近年著しい進歩をもたらしたものは、ホウィットンの発明した自働機である。１８７７－７８年頃においては、機械各部の構造がまだ精巧でなかったために、送信速度は毎分およそ７０－８０語であったが、今では毎分２００－３００語の速度で実地に通信が行われている。実に驚くべき進歩である。</p>
<p>電話機はベルの発明から僅か１０年余だが、学術が日に日に進歩する時節にあって、近来非常に進歩している。ヒュースの顕微音響機やエジソンの炭素送話機などは、電話機の著しい進歩を生み出す原因となった。ベルの発明当時は僅か数１００間の距離を隔てて通話するのも困難だったが、今では数１００里の距離を隔てて通話できるだけでなく、音声が明瞭で全く困難を感じないほどのレベルに達した。ベルギー人リッセルベルギーは電信と電話を同じ電線を使って伝送する方法を発明した。これは有益な方法で、特に我が国のように高速電信機を使っていない国において最も便利な方法である。</p>
<hr />
<h3>（５）その他の電気技術の進歩</h3>
<p>電灯技術は、シーメンスとホウィットンが動力発電機を発明して以来、着々と進歩し、アーク灯、白熱灯共にその需要が広がっている。なかでもアーク灯は市街、停車場、製作所等に用いる場合、白熱灯に比べて少し利益があることが実験的に証明された。白熱灯は８９年前、即ち発明から１２年後の時点では１燭力１時間あたりの価格は５－７厘であった。その後、シーメンス、グラム、エジソン、ホプキンソン等の貢献によって発電機の能力が非常に高まり、スワン、エジソン、シーメンス等の努力で白熱電灯の製造方法に多少の改良が加えられ、またエジソン、フォルブス等の学理と実験による研究によって、電気の配分法が一変されたことにより、今日では１燭力１時間の価格は２－３毛にまで下がった。こうして電灯の需要は高まり、今やガス灯を圧倒する勢いである。これは決して偶然のことではない。</p>
<p>エネルギー伝送技術も近年では電車、電気船等に利用されて大いに好結果を生んだ。電車は１８７９年、ベルリンにおいてシーメンスが初めてこれを試験してからまだ１０年しか経っていないのに、既に数１０箇所において電気鉄道が営業されている。また電気の作用によってエネルギーを遠隔地に伝送する方法もまた、実地試験で好結果を得た例が少なくない。なかでもフランス人デプレが行ったパリとクリルの２箇所間エネルギー伝送試験（その距離１５里）は最も著しいものである。クリルにおいて汽機（蒸気機関）によって動力発電機を運転し、そこで発生した１１６馬力の電気エネルギーを電線によって送り、パリに据えつけた発動機（電気モーター）を動かしたところ、伝わった電気エネルギーは５２馬力であった。生じた損失は４５％にとどまった。望外の好結果である。</p>
<p>航空技術の発明は数１００年前に遡ると言われるが、種々の困難があって近年に至るまで著しい進歩がなかった。しかし、蓄電器の発明は航空技術を一変させた。１８８４年、フランスのレナーとクリブは電気飛行船を製作して試験した。同氏らは同年８月９日、シャレーにて飛行船に乗り、毎時およそ５里の速度で２３分間、空中を航行した後、再びシャレーに戻った。その有様はまるで汽船が海を航海するようであったという。</p>
<p>その他、電気メッキ、電気プレス、電気地雷、電気水雷、更に電気医術に至るまで、これらの技術が近来ますます進歩していることは疑いようのない事実である。</p>
<hr />
<h3>（６）電気電信の未来予測</h3>
<p>以上、電気学の沿革を考察し、将来を推測するに、電気に関する学術工芸の将来における進歩もまた大いに期待できる。今仮に予期すべきものをいくつか挙げれば、</p>
<table class="kyoka-table mar-top30 mar-bot30">
<tbody>
<tr>
<td>１</td>
<td>1本の電線で毎分数１００語の速度で同時に数通の音声を送受信する時代が来るであろう。</td>
</tr>
<tr>
<td>２</td>
<td>海や川で隔てられた数里の遠隔地間で自在に通信や通話をする時代が来るであろう。</td>
</tr>
<tr>
<td>３</td>
<td>音声伝送の方法がますます進歩し、例えば大阪長崎は言うまでもなく、上海香港のように数１００里離れた場所で演じられる歌や音楽を、東京において居ながらにして楽しむ日が来るであろう。</td>
</tr>
<tr>
<td>４</td>
<td>エネルギー伝送技術も益々巧みになり、例えば大きくは米国ナイアガラの水力をニューヨークに伝送し、電灯に変えて全市街を不夜城とすること、小さくは我が国日光山華厳の滝のエネルギーを東京に伝送して東京市街に電灯を灯し、あるいは馬車人力車等を運転するといった奇観を目にすることも遠い日のことではないであろう。</td>
</tr>
<tr>
<td>５</td>
<td>陸に電気鉄道、海に電気船舶を使うことが増え、黒煙白煙を吐かない鉄度列車や水路船舶を見る日が来るであろう。</td>
</tr>
<tr>
<td>６</td>
<td>電気飛行船の改良により航空技術が高度化する結果、飛行船に乗って空中を散策し、山紫水明の地を訪ねたり、名所旧跡を探索したりする日も来るであろう。</td>
</tr>
<tr>
<td>７</td>
<td>更に一歩を進めて学問的な思索を巡らせば、物理学者たちは、光もまた電気、磁気、熱と同様にエネルギーであり、ただその種類が異なるだけだと深く信じている。従って、電気や磁気の作用によって光を遠隔地に輸送し、遠隔地にいる人と自在に互いの顔を見る方法が発明されることも、あながち夢ではないであろう。</td>
</tr>
<tr>
<td>８</td>
<td>電話機の原理によれば、どんな音声でもその音調性質はすべて電気の波動に変えることができる。またトムソンの毛管自記機の原理に照らせば、電気の波動を自記（自動記録）することも可能なはずだから、音声を自記（録音）して、演説談話その他いかなる音声でも機械仕掛けによってこれを記録する方法が発明されるであろう。</td>
</tr>
<tr>
<td>９</td>
<td>地電気、地磁気、空間電気は互いに密接に関係しているだけでなく、地震、太陽黒点、極光（オーロラ）、及び地球上の気象等にも関係するものなので（地震学会雑誌第９巻に掲載された演者の論文「地電気の説」を参照）、地電気、空間電気の変動等を観測することによって地震を予知したり、穀物の豊作凶作を予知したりする方法が発明されることを期待するのも無謀なことではない。
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<hr />
<h3>（７）当面の技術課題</h3>
<p>以上で電気学の現在及び将来の概況を見たが、それをもとに深く考えれば、本会のように電気の学術と工業技術を進歩させることを任務とする組織にとって、今後研究すべきことを察知することは難しくない。以下にその大略を挙げて諸君の参考に供したい。</p>
<table class="kyoka-table mar-top30 mar-bot30">
<tbody>
<tr>
<td>１</td>
<td>最近、電気学者たちの注目を集めている特別の現象として、自己誘導（Self-Induction）と相互誘導（Mutual-Induction）がある。その性質と効果を試験して、それが電信機、電話機、動力発電機の動作にどんな影響を及ぼすかを研究すること。</td>
</tr>
<tr>
<td>２</td>
<td>磁気力の変動し易さ（励磁、消磁の効率）は、鉄や鋼鉄の堅さ柔らかさ、緻密さ粗さとどんな関係にあるかを研究し、これによって各種電気機器の改良を図ること。</td>
</tr>
<tr>
<td>３</td>
<td>静電誘導（Electrostatic Induction）と電磁誘導（Electromagnetic Induction）の現象を観測して、電話における妨害を停止または軽減する方法を定めること。</td>
</tr>
<tr>
<td>４</td>
<td>電気分極（Electric Polarization）現象を研究して、蓄電器の改良に役立てること。</td>
</tr>
<tr>
<td>５</td>
<td>電気分極を用いることによって、河川や海で隔てられた遠隔地との間で電線を用いずに電信電話の通信を行う方法を研究すること。</td>
</tr>
<tr>
<td>６</td>
<td>炭素送信機における抵抗の変動が圧力によるのか、接点数の増減によるのか、もしくは分子レベルの微視的な働きによるのかを試験観測し、電話機の動作原理を詳しく研究すること。</td>
</tr>
<tr>
<td>７</td>
<td>硫酸銅溶液や硫酸亜鉛溶液の濃度が電流の強弱動静にどのような効果があるかを試験し、電気メッキ、電気精錬の技術を改良すること。</td>
</tr>
<tr>
<td>８</td>
<td>電気を流すことによって電線に発生する熱量と、電気の強弱とがどういう関係にあるかを試験し、電灯技術における危険を予防する方法を確立すること。</td>
</tr>
<tr>
<td>９</td>
<td>今後、電灯、電気メッキ、電気精錬等において最も必要となる各種電気計器の原理と構造を研究し、実地において最も便利で精確な良機を作ること。
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>以上の諸項目は、実地電気学術上、目下緊急の事項である。</p>
<hr />
<h3>（８）解明すべき学問的課題</h3>
<p>純正電気磁気学の分野で最も重要な課題として、以下のものが挙げられる。</p>
<table class="kyoka-table mar-top30 mar-bot30">
<tbody>
<tr>
<td>１</td>
<td>熱が物体の電気及び磁気上の諸性質をどう変動させるかを研究し、熱と電気、磁気との関係を明瞭にすること。</td>
</tr>
<tr>
<td>２</td>
<td>光がセレニウムなど電気導体の抵抗をどう変動させるかを研究し、スミス、アダムスらの発見した光と電気との関係を明らかにすること。</td>
</tr>
<tr>
<td>３</td>
<td>磁気力が光の性質をどう変化させるかを探索し、ファラデー、ケルらの発見した光と磁気との関係を明らかにすること。</td>
</tr>
<tr>
<td>４</td>
<td>張力、圧力など機械的な力が物体の電気的磁気的諸性質をどう変化させるかを研究し、力と電気、磁気との関係を明らかにすること。</td>
</tr>
<tr>
<td>５</td>
<td>地電気、地磁気、及び空間電気の出没変動が、太陽や月の運動、極光（オーロラ）の出没、大気圧力の配分、気象の変動等にどう関係するかを観測し、宇宙諸現象間の関係を研究すること。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<hr />
<h3>（９）インフラ整備の問題</h3>
<p>純粋な電信技術上の緊要問題として、以下の問題がある。</p>
<table class="kyoka-table mar-top30 mar-bot30">
<tbody>
<tr>
<td>１</td>
<td>我が国で使用する各種電気機器の得失はどうか。通信が頻繁に行われる電信線に使用する場合、高速電信機と多重電信機のどちらがよいのか。</td>
</tr>
<tr>
<td>２</td>
<td>電信局において電報送受信のために電話機を使用するのは良いことなのかどうか。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>電話技術においては、以下のような肝要問題がある。</p>
<table class="kyoka-table mar-top30 mar-bot30">
<tbody>
<tr>
<td>１</td>
<td>電話線を建設するには、単線にすべきか複線にすべきか、また空中線と地下線のどちらがよいか。</td>
</tr>
<tr>
<td>２</td>
<td>電話交換法を制定するにあたって、どういう法律がよいのか。</td>
</tr>
<tr>
<td>３</td>
<td>同じ電線を使って電信と電話を送受信する方法はどういう場合に利益があるのか。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>電灯技術上の重要問題は以下のものである。</p>
<table class="kyoka-table mar-top30 mar-bot30">
<tbody>
<tr>
<td>１</td>
<td>電気灯はガス灯に比べてどんな場合に利益、不利益があるのか。</td>
</tr>
<tr>
<td>２</td>
<td>市街や室内に電灯を設置するさい、どのような電気配分法を用いるのが最も有利か。変圧器（Transformer）を使用すべきかどうか。</td>
</tr>
<tr>
<td>３</td>
<td>変圧器を使う場合、二次発電機（Secondary Generator）と蓄電器とではどちらが有利か。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>エネルギー電送技術上の緊要研究課題は以下のものである。</p>
<table class="kyoka-table mar-top30 mar-bot30">
<tbody>
<tr>
<td>１</td>
<td>電線によってエネルギーを遠隔地に電送し、これを実用に供するには、電線から直接に引いて使うべきか、いったん蓄電器に移した後に実地に利用すべきか、その利害得失はどうか。</td>
</tr>
<tr>
<td>２</td>
<td>発電機と発動機とは、その構造がどんな点で共通で、どんな点で異なるべきか。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>以上に説明したことをもとに考えれば、本会会務の範囲は非常に広大である。会員諸君が学理研究に基づき、あるいは実験結果に照らして研究すべき課題は決して少なくない。会員諸君の熱心な協力によって、将来、本会がその目的を達成し、この電気学会が我が国の世運を高め、人々の生活を幸福にするうえで不可欠の存在となることを熱望するものである。</p>
<hr />
<div class="row mar-top50">
<div class="col-xs-4 col-md-4">
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</div>
<div class="col-xs-4 col-md-4">
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</div>
<div class="col-xs-4 col-md-4">
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</div>
</div>
</div>
</div>
</div>
</div>
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			</item>
		<item>
		<title>「去華就実」と郷土の先覚者たち　第27回　志田林三郎　（中）</title>
		<link>https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka27?utm_source=rss&#038;utm_medium=rss&#038;utm_campaign=kyoka27</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[ad110ji76j]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 01 Mar 2004 00:00:34 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[知る・楽しむ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>「去華就実」と郷土の先覚者たち 第27回　志田林三郎　（中） （４）ケルビン卿 およそ物理学を学んだ人で、ケルビン卿の名を知らぬ人はないであろう。１８２４年、北アイルランドのベルファストに生まれ、本名をウィリアム・トムソ [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<div class="center-block pad-top50 mar-right-15 mar-left-15">
<div class="container">
<div class="kyoka">
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-2 col-md-8 mar-bot30">
<h1>「去華就実」と郷土の先覚者たち</h1>
<h2 class="text-center">第27回　志田林三郎　（中）</h2>
<hr />
<h3>（４）ケルビン卿</h3>
<p>およそ物理学を学んだ人で、ケルビン卿の名を知らぬ人はないであろう。１８２４年、北アイルランドのベルファストに生まれ、本名をウィリアム・トムソン（William Thomson）という。１０歳でグラスゴー大学に入学し、２２歳で物理学科の教授となった。グラスゴー大学の構内に住み、人生の大部分をそこで過ごした。</p>
<p>学術上の功績により、英国王室から一代貴族（Knight）の称号を贈られた。この大学の一帯は古くからケルビンの森（Kelvin Grove）と呼ばれていたので、晩年は「ケルビン卿（Lord Kelvin）」の愛称で呼ばれた。地元の人々の誇りだったのだろう。現代の物理学者のあいだでも、トムソンと呼ばれたり、ケルビンと呼ばれたりする。</p>
<p>ケルビンは１９世紀における物理学全般を指導した巨人だが、その最も顕著な業績は熱力学におけるものであろう。ケルビンは「エネルギー」という概念を確立し、ヘルムホルツらと共に「エネルギー不滅の原理（熱力学第一法則）」を確立した。</p>
<p>また蒸気機関に関する考察から、熱エネルギーには、有効に仕事に転化できる部分と出来ない部分があることを示し、「トムソンの原理」あるいは熱力学第二法則と呼ばれる一般原理を確立した。こうした思索をもとに、ケルビンは最低温の極限である「絶対零度」の存在を示し、絶対温度（ケルビン温度）概念を提唱した。こうした学説は今日では科学者の常識となっており、また一般の人々の思想にまで大きな影響を与えた。因みに、志田はエネルギーを「勢力」と翻訳して使っている。</p>
<p>ケルビンは、星の発する光の源泉は星の収縮によって解放される重力エネルギーだとする理論（ケルビン・ヘルムホルツ収縮）を示し、また、流速の異なる流体界面に発生する乱流の理論（ケルビン・ヘルムホルツ不安定性）、粘弾性のケルビン模型などを提唱した。数理物理学にも大きな貢献をした。実験分野では、導体の小さな抵抗の精密測定法（ケルビン・ダブルブリッジ）、電流の精密測定法（ケルビンの電子天秤）、気体の膨張に伴う温度変化の測定とその理論（ジュール・トムソン効果）など、これも枚挙に暇が無い。</p>
<p>このようにケルビンは文字通り古典物理学全体の指導者であったが、更に付け加えるべきことは、電気・電信分野の実務家としての業績である。英国の電信電話インフラの整備を指導し、大西洋海底ケーブルという一大国際事業を指揮した。自らの卓越した学識を産業振興に積極的に活用するというのは、エアトン、志田ら門下生にも受け継がれた資質であった。</p>
<hr />
<h3>（５）ケルビンと志田林三郎</h3>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-8">
<p class="mar-top30">明治１３年（１８８０年）、２４歳の志田林三郎は、グラスゴー大学にケルビン卿を訪ねた。志田は数学と物理学のコースで学ぶと共に、電気の実験研究に従事した。</p>
<p>勉学の面では、物理初級クラス１位、数学クラス上級試験２位、物理上級クラス数学試験１位など、素晴らしい成績を挙げた。それだけでなく、独自の実験研究テーマとして与えられた「帯磁率（たいじりつ）の研究」に対して、大学全体で毎年１人だけに与えられる最優秀論文賞である「クリーランド金賞」メダルを授与された。「帯磁率」とは、物質に対して外部から磁場を加えた時に、その物質が磁性を帯びる度合いをいう。</p>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-4">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_04.jpg" alt="" width="500" height="528" class="kyoka-img size-full wp-image-9635" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_04.jpg 500w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_04-284x300.jpg 284w" sizes="auto, (max-width: 500px) 100vw, 500px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">志田林三郎が受賞した<br />
クリーランド金賞<br />
（多久市郷土資料館所蔵）</div>
</div>
</div>
<p>志田は短い英国滞在中に、しかも学生の身ながら、自らの実験研究の成果を英国協会（British Association）で講演し、自記電流計の研究成果をフィロソフィカル・マガジン（Philosophical Magazine）に発表した。また、同雑誌に掲載された英国人研究者の論文に対して反論を投稿している。こうした振舞いは、志田がケルビン卿のもとで、すでに学生の域を越え、研究者としての活躍を始めていたことを示している。ケルビンは志田を殊のほか愛し、「私が出会った数ある教え子の中で最高の学生である」と称えた（デービット・ウィルソンの著したケルビン伝に記されている）。</p>
<p>志田は１年間のグラスゴー大学での生活の後、グラスゴー市中央郵便局で半年間の研修を受けた。工部大学校を卒業後、官費留学をした学生の多くが、こうした実務経験を積んでいる。志田はそれから、パリ万国博覧会などを視察して帰国した。</p>
<hr />
<h3>（６）工部大学校教授としての電気学研究</h3>
<p>明治１６年（１８８３年）、志田は英国留学から帰国し、工部大学校電気工学科の初代日本人教授に就任した。２７歳であった。明治１９年（１８８６年）には帝国大学（現在の東京大学）が発足し、志田はその教授となった。明治２１年（１８８８年）、志田は我が国第一号の工学博士号を授与された。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-5">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_05.jpg" alt="" width="400" height="552" class="kyoka-img size-full wp-image-9636" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_05.jpg 400w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_05-217x300.jpg 217w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">帰国して活躍中の<br />
志田林三郎<br />
（写真提供：多久市郷土資料館）</div>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-7">
<p class="mar-top30">この頃の志田の研究は、基本的にケルビン卿の与えたテーマを踏襲している。地磁気測定器の開発、液体の電気抵抗の測定などである。明治２２年（１８８９年）には電気学会誌に「液体の電気抵抗は温度と共に変動あるを表す試験及びその成績」を発表し、いっぽう地震学会雑誌には「地電気の説」を発表している。　明治２０年（１８８７年）には、工学会誌に「工業の進歩は理論と実験との親和に因る」という総説論文を書いている。純粋学問と工業との関わりを、専門の物理学、電気学だけでなく、幅広い分野において論じている。</p>
<p>巨大橋建設における構造力学の役割、火薬、染料、医薬、ソーダ工業などにおける化学の威力、蒸気機関と熱力学など、その博識ぶりはさすがである。</p>
</div>
</div>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-1 col-md-10">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_06.jpg" alt="" width="600" height="455" class="kyoka-img size-full wp-image-9637" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_06.jpg 600w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_06-300x228.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20">志田林三郎の論文<br />
「工業の進歩は理論と実験との親和に因る」工学会での演説をもとにした総説論文である。</div>
</div>
</div>
<hr />
<h3>（７）水を使った遠隔地無線通信実験</h3>
<p>志田が師ケルビンの枠をはみ出して、独自の境地を開拓しようとした実験がある。水の性質を利用した、世界初の遠隔地無線通信の実験である。当時すでに、欧米では電信電話が実用化されており、電線によって電気信号を遠隔地へと運べることは明らかであった。いっぽうケルビンとマックスウェルは、電気の振動が波動となり、それが空間を伝って遠隔地へと伝わる筈だという説を唱えていた（電磁場説）。これとは別に、蓄電池などの研究から、水に電圧を加えると「分極（Polarization）」つまり電荷の偏りが生じることが知られつつあった。志田自身、液体の電気抵抗の研究をしていたので、実験の過程で水の電気分極現象に遭遇していた可能性もある。こうした背景の中で志田は、河川や海を媒介として、水の電気分極が遠隔地へと伝播するのではないかと考えたのである。</p>
<p>この実験は明治１８年（１８８５年）、隅田川の河口において行われた。実験の結果を知りたいところだが、どうも明らかでない。今日の立場で考えると、指向性の強いアンテナ技術もなく、また分極した水分子自身の熱運動や水流など、電気信号を散逸させる要素が多すぎるから、この実験が成功した可能性は低いだろう。しかし実験から３年後、電気学会設立にあたって志田が行った演説の中で、当面する技術課題のひとつに「電気分極を用いることによって、河川や海で隔てられた遠隔地との間で電線を用いずに電信電話の通信を行う方法」を挙げていることから、まだこの方法を諦めていなかったことが分かる。</p>
<p>電気の振動が空間に電磁場を生むという、ケルビン、マックスウェルの学説が実証されたのは、ドイツ人ヘルツが１８８８年に行った実験であり、志田の実験から３年後のことであった。これを実用化すべく、イタリア人マルコーニが、１０メートルの距離にあるベルを無線で鳴らすことに成功したのは１８９５年のことで、これが世界における無線通信の始まりとされている。志田の実験から１０年後のことであった。志田の実験は、技術としての発展可能性において、ヘルツ、マルコーニの実験に比べて劣っているが、先行したことは事実である。こうした先見性、水の電気分極を使うという独創性、しかも河川や海を実験手段に使うという着想の壮大さにおいて、注目に値するものである。</p>
<hr />
<h3>（８）通信官僚としての仕事</h3>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<p class="mar-top30">志田は欧州留学から帰国後、工部大学校教授に就任するよりも早く、工部省准奏任御用掛として電信局に勤めた。次いで工部権少技長となって新国家の電信業務を指揮する立場となった。帝国大学教授と通信官僚を兼務しての多忙な日々が始まった。明治２０年（１８８７年）には逓信省工務局次長、２２年（１８８９年）には局長となり、東京電信学校の校長も務めた。従来から存在した碍子試験場を拡張して電気研究所とし、後の通産省工業技術院電子技術総合研究所の礎を築いた。</p>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-6">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_07.jpg" alt="" width="500" height="500" class="kyoka-img size-full wp-image-9638" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_07.jpg 500w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_07-150x150.jpg 150w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_07-300x300.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 500px) 100vw, 500px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">志田林三郎自筆の建議書<br />
「駅逓電信両局合併の利益並駅逓院新組織」<br />
（多久市郷土資料館所蔵）</div>
</div>
</div>
<p>行政面での志田の仕事として、通信事業の経営形態の問題がある。当時、明治政府内部に、通信事業を民営とするか官営とするかの対立があった。多数派であった民営論を退けて官営路線を敷くにあたって、志田の主張が通ったと言われている。</p>
<hr />
<h3>（９）電気学会の設立と記念演説</h3>
<p>学術と実業、官と学とを結んで、我が国の電気科学と電気事業を発展させるために、志田は電気学会の設立を構想した。時期尚早との反対意見が工学会などから寄せられたが、我が国の将来を展望した時、この時期の電気学会設立は必要との信念を曲げなかった。明治２１年（１８８８年）５月、時の逓信大臣榎本武揚を会長に据え、自らは幹事となって、電気学会の設立を宣言した。</p>
<p>明治２１年（１８８８年）６月２５日、京橋西紺屋町の地学協会会館において、電気学会第一回通常会が開かれ、志田は学会設立を記念する演説を行った。この演説は伝説となった。その内容の高さが驚くべきものだったからである。</p>
<p>志田は新しい学会の組織と運営のあり方を述べ、次いで電気の科学と技術に関する歴史と現状を概括する。学術面におけるアンペール、ファラデー、ケルビン、マックスウェル、エールステッド等の業績、技術面におけるエジソン、ベル、シーメンス、モールス等の貢献を正しく評価するくだりは洞察に富み、今の学生が読んでもたいへん勉強になる。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_08.jpg" alt="" width="700" height="459" class="kyoka-img size-full wp-image-9639" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_08.jpg 700w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_08-300x197.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_08-624x409.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 700px) 100vw, 700px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">電気学会設立にあたっての<br />
志田林三郎の記念演説</div>
<p>こうした進歩の行く先に、志田は電気の未来を語り、そこに到るために克服すべき課題を順次示す。なかでも圧巻は、将来実現するであろう技術として、次の９項目を予言したことである。</p>
<table class="kyoka-table mar-top30 mar-bot30">
<tbody>
<tr>
<td>１</td>
<td>高速度での音声多重通信</td>
</tr>
<tr>
<td>２</td>
<td>遠隔地との通信通話</td>
</tr>
<tr>
<td>３</td>
<td>海外で演じられる歌や音楽を同時受信して楽しめること（海外からのラジオ実況放送）</td>
</tr>
<tr>
<td>４</td>
<td>山間部の水力発電で得たエネルギーを長距離送電して、大都市で活用すること</td>
</tr>
<tr>
<td>５</td>
<td>黒煙白煙を吐かない電気列車や電気船舶が普及するであろうこと</td>
</tr>
<tr>
<td>６</td>
<td>電気飛行船に乗って空中を散策できること</td>
</tr>
<tr>
<td>７</td>
<td>光を電気磁気信号に変えることによって、映像情報を遠隔地に伝送し、遠くにいる人と自在に互いの顔を見ることができること（テレビジョン）</td>
</tr>
<tr>
<td>８</td>
<td>音声を電気信号に変えることによって機械に記録（録音）し、後で自由に再生できること（録音再生装置、テープレコーダー）</td>
</tr>
<tr>
<td>９</td>
<td>太陽黒点、オーロラ、気象などの観測を通じて、地電気、地磁気、空間電気の関係が明らかになり、地震予知、気象予報、豊作凶作の予測などが可能となること（宇宙地球電磁気学の提唱）</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>どれも驚くべき内容だが、なかでもテレビジョンの予言は驚嘆に値する。高柳健次郎が浜松の地でテレビジョンの原型となる画像伝送実験に成功したのが１９２６年（大正１５年）、米国のツヴォルイキンが撮像管（アイコノスコープ）を発明してテレビジョン実用化の幕を開けたのが１９３３年（昭和８年）だから、志田は実に４０年も前にそれらを予言していたことになる。また、最後に挙げた宇宙地球電磁気学は、未だ実現していない大きな人類的課題である。</p>
<p>幸い、この演説は全文が活字として残されている。１００年以上も前のものだが、こういう優れた演説を現代人が古典として読むことができるのは、本当に幸いなことである。</p>
<hr />
<h3>（１０）志田の最後</h3>
<p>明治２３年（１８９０年）、逓信省に政変が起こる。志田を登用し、官学両面にわたる活躍を支えてきた榎本武揚逓信大臣と前島密（まえじまひそか）逓信次官が共に辞職し、代わって後藤象次郎（<a href="https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka15">連載第１５回参照</a>）が逓信大臣に就任した。志田には「非職」の命が下り、逓信省を追われた。志田の部下たちは抗議のストライキを計画したが事前に発覚して失敗した。翌年、志田は帝国大学教授も辞職し、完全に失業した。一連の動きの背後に何があるのか分からないが、政府内部の権力闘争だと言われている。</p>
<p>明治２４年（１８９１年）１月、国会議事堂で火事が発生した。原因は電灯とされ、電気学会幹事である志田の責任が厳しく問われた。志田は電気事業に対する誤解や警戒心を解くために東奔西走した。当時、電灯は急速に普及し始めていたが、国会だけでなく各地で停電や事故が発生した。電気技術者が決定的に不足しており、時には志田が自ら修理現場の指揮を執ることもあった。</p>
<p>同年５月、ロシアから来日中のニコライ皇太子が、滋賀県の大津で日本人警察官に襲われて負傷し、国際問題となった（大津事件）。電気学会はこれを重視し、志田が代表して神戸にニコライ皇太子を見舞った。８月には再び関西に出張した。この頃から、志田の体力は急速に低下した。翌明治２５年（１８９２年）１月、志田林三郎は死去した。まだ３６歳の若さであった。このことを伝え聞いたケルビン卿は驚き、激しく悲しんだという。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-7">
<p class="mar-top30">志田は何故急に健康を害し、死にまで至ったのだろうか。死因は肺の病気とされているが、釈然としない。志田の生涯を研究されている信太克規さん（佐賀大学理工学部教授）は、心身ともに疲れ果てての過労死だろうと書いておられる。痛ましいことである。</p>
<p>学者として、官僚として、電気事業家として、志田はどの分野でも優秀な働き手だった。おそらくどれかひとつの職域に集中していれば、もっと長生きして、もっと多くの業績を残したことだろう。</p>
</div>
<div class="col-xs-12 col-md-5">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_09.jpg" alt="" width="390" height="500" class="kyoka-img size-full wp-image-9640" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_09.jpg 390w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_09-234x300.jpg 234w" sizes="auto, (max-width: 390px) 100vw, 390px" /></p>
<div class="kyoka-cap text-center mar-top-20 mar-bot20">志田林三郎の墓<br />
（佐賀県多久市の宝蔵寺）</div>
</div>
</div>
<p>秀才の誉れ高い若者が、ケルビン卿という、自身より遥かにスケールの大きなスーパーマンに出遭って憧れ、社会全体が活気に満ちていた明治の日本で、猛烈に働いて散ってしまった。英国留学から帰国後、僅か９年間の活動だった。</p>
<hr />
<h3>（１１）志田林三郎賞</h3>
<p>平成５年（１９９３年）、志田林三郎の没後１００年を記念して、郵政省（現在の総務省）は「志田林三郎賞」を創設した。先端的、独創的な研究によって情報通信の発展に貢献した個人が選ばれ、情報通信月間事業のひとつとして、毎年６月１日の「電波の日」に表彰されることになった。こんにちの高度情報化社会の礎を築いた志田林三郎が、こうして人々の記憶に留められるのは嬉しいことである。</p>
<p>なお、志田林三郎に関する資料の一部は、多久市郷土資料館で見学できる。この連載にあたって、同館館長の尾形善郎さんには便宜を図っていただいた。ここに記して感謝いたします。</p>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-offset-1 col-md-10">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_10.jpg" alt="" width="849" height="500" class="kyoka-img size-full wp-image-9641" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_10.jpg 849w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_10-300x177.jpg 300w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_10-768x452.jpg 768w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_10-624x367.jpg 624w" sizes="auto, (max-width: 849px) 100vw, 849px" /></p>
<div class="kyoka-cap mar-top-20">志田林三郎の工部大学校卒業論文「Essay on Progress of Electricity and Telegraphy」（「電気と通信の進歩に関する考察」）英文で書かれている。<br />
（多久市郷土資料館所蔵）</div>
</div>
</div>
<div class="row">
<div class="col-xs-12 col-md-8">
</div>
</div>
<div class="row">
<div class="col-xs-6 col-md-4">
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_11.jpg" alt="" width="352" height="600" class="kyoka-img size-full wp-image-9642" srcset="https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_11.jpg 352w, https://www.miyajima-soy.co.jp/wp-content/uploads/kyoka/k27_11-176x300.jpg 176w" sizes="auto, (max-width: 352px) 100vw, 352px" />
</div>
<div class="col-xs-6 col-md-8">
<div class="kyoka-cap mar-top30 mar-bot20">志田林三郎の漢詩<br />
「思母心方切不知到故山　猶如有意一笑迎我意」<br />
「帰郷之作」と題されている。<br />
「母を思う心は切なく、いつの間にか故郷の山に来てしまった。山にも意思があるかのように、笑顔で私の気持ちを迎えてくれる」<br />
（多久市郷土資料館所蔵）</div>
</div>
</div>
<p>次回は、電気学会設立にあたっての志田林三郎の記念演説全文を紹介しようと思う。<br />
　</p>
<p class="text-center">（次号に続く）</p>
<hr />
<h3>参考文献：</h3>
<ul>
<li>信太克規著　「先見の人　志田林三郎の生涯」（１９９３年　ニューメディア）</li>
<li>志田林三郎著　「工業の進歩は理論と実験との親和に因る」　工学会誌第６６巻３５５－３６５頁　第６７巻４２５－４５０頁（１８８７年、工学会）</li>
<li>志田林三郎著　「演説」　電気学会雑誌第１号９－２７頁　（１９８８年、電気学会）</li>
<li>志田林三郎著「液体の電気抵抗は温度と共に変動あるを表す試験及びその成績」　電気学会雑誌第７号　（１８８９年、電気学会）</li>
<li>旧工部大学校史料編纂会編纂・発行　「旧工部大学校史料」　（１９３１年、虎ノ門会）</li>
</ul>
<hr />
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</div>
</div>
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</div>The post <a href="https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka27">「去華就実」と郷土の先覚者たち　第27回　志田林三郎　（中）</a> first appeared on <a href="https://www.miyajima-soy.co.jp">宮島醤油</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
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