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 古来、「日本第一醸造祖神」として仰がれ、今も全国の醸造家より幅広い信仰を集めている『松尾大社』。先日、20数年ぶりに参拝してきました。
 今月は、「醸造の神 松尾(まつのを)大社」へご案内しましょう。
 
多くの参拝者を迎える鳥居 奉納された四斗樽

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京都市西京区嵐山宮町3
 醤油・味噌を業(なりわい)としている者として、醸造の神様 松尾大社に詣でてから20余年が経っただろうか。
 去る7月の中旬、琵琶湖畔の大津への出張が幸いに思ったより早く用件をすませることができたので、京都に戻り、再び松尾大社を訪ねる機会を得た。
 梅雨、つかの間の晴天に恵まれ、車を駆って洛西は嵐山に向かう。しばらく保津川の清流を溯れば、朱塗りの大鳥居が迎えてくれる。鳥居をくぐると参道。両側には甘酒を売っている茶店が参拝者を待ち受けていた。日本第一醸造神としるされている立石から100mも進めば、うっ蒼たる新緑に包まれた山門に至る。山門からすぐ境内、その左側には醸造の神様らしく、奉納された薦(こも)かむりの四斗樽が無慮(むりょ:おおよその意)百箇ほど積みあげられている。社務所に立寄り、重要文化財に指定されている社殿に向う。室町初期の作とのこと、重厚な雰囲気につつまれながら、醤油味噌を業としている我が社の繁栄を祈って頭を垂れる。
社殿及び庭園位置図
四斗樽の前で記念撮影
 案内板に促されて社殿の裏にまわると、大社の御神体とも云うべき松尾山である。緑滴る山は深い。その山腹から白線一条「霊亀の滝」が流れ、その裾に神泉「亀の井」と称する湧水がある。古くから霊泉として有名で健康長寿に卓効ありと云われ、また、「酒の元水」として醸造家が持ち帰り用水に混和する風習があるとのこと。京都盆地の西部は、水の清らかなこと、豊富なこと、それが酒作り・醸造に連なるのかなと思いつつ、口を漱ぐと清らかな水の冷たさが快い。
「亀の井」にて。
地元の方も水を
汲みに来ていました。
あらためて、松尾大社の由来をたずねる。
洛西鎮護惣氏神、日本第一醸造神、松尾大社の祭神は、次の二神である。
 大山咋神(おおやまぐいのかみ)
 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
 山咋のクイは杭の意、「山から流れる清水」の意味。
 この神は、山の上部に鎮座し、山及び山麓を支配する大主(おおぬし)神とされる。
 市杵島姫命は、古事記に「天照大神が須佐之男と誓約された時、狭霧の中で生まれ給うた」と伝えられ、古くから海上守護の霊徳を仰がれた神である。
 これら松尾大社の二神は、奈良時代になってはじめて祀られたのではなく、太古の昔から、この地の住民が松尾山の山霊を頂上に近い磐坐(いわくら:神の御座所。自然の巨石を指す場合が多い)に祀って、生活守護の守護神として崇めたことからはじまっているという。
 いわゆる山岳信仰がそのはじまりだろうか。
 ところが5〜6世紀になり、日本の古代国家が成立した頃、日本と朝鮮半島の任那・百済・新羅・高句麗との間には、あるときは緊張関係、あるときは友好的に軍事、政治、文化、技術、宗教等にわたり国際交流が盛んな時代である。
 この頃、秦の始皇帝の子孫(最近の研究では新羅の豪族)と称する「秦」氏の集団が朝廷の招きによって来住、帰化する。
 この秦氏の首長が松尾山の神を氏神と仰ぎつつ、新しい技術と文化によって水量豊かな保津川流域の土地開発に従事する。
 秦氏一族は、保津峡を開削・整備したり、桂川に堤防を築いたり、今の嵐山・渡月橋の付近に大きな堰(井)を設け、その下流も所々に水をせき止め、そこから水路を走らせ、いわゆる治水、荒野だった地を農耕地としたという。
 その水路が一の井・二の井と称して、今なお松尾大社の桜門の下、庭園の中を流れている。かくして農耕地が誕生、農業の発達、関係する産業のひとつとしての絹織物(ハタと関係がある)、お酒の生産へと広がっていく。
 とくにお酒は、松尾山から湧く神水を宮水とすると良質のお酒が醸造できると信じられ、室町末期以降、松尾神社が日本一醸造神と崇められていく。
霊亀の滝
 ちなみに、秦一族は日本の古代歴史の上に数多く登場する。
 秦一族は応神王朝の時代、東漢という氏族とともに日本に渡来してきたと云われている。これらの帰化人の中には、陶器・絹織物・馬具等々の職人たち ― 高等技術者が含まれていた。
日本書紀を繙くと、まず
1.雄略天皇15年(西暦490年頃)の条に次のような記事がある。
 「秦氏が率いていた民が、各地の豪族に分散し、豪族の思いのままに駆使され、秦氏の管理が行き届いていなかった。このことを憂慮されていた天皇は、秦の民を集めて、秦造酒(はたのみやつこのさけ)の管理下におかれた。そこで秦酒公は彼等を率いて、租税のためにつくられた絹を献上して朝廷に沢山積みあげた。これにより、うつまさ(うず高く積んだ様子)という姓を賜った。」と、天皇、朝廷の信頼をうける。
 現代風に云えば、絹織物その他ベンチャービジネスを立ち上げ、高額納税者として表彰、というところでしょうか。
2.推古天皇11年(西暦603年)11月、皇太子(聖徳太子)が「私の尊い仏像をお祀りする者はいないか」といわれた。そのとき、秦造(はたのみやつこ)河勝が「私がお祀りしましょう」と申出て、蜂岡寺(今の広隆寺)を造り、そこにお祀りした。秦河勝は、いよいよ聖徳太子の籠愛をうけていく。これが、国宝指定第1号と言われる弥勒菩薩(みろくぼさつ)半伽像で、今もなお、様々な謎をその微笑の中に秘め、参拝者を魅了している。
弥勒菩薩半伽像
3.推古天皇18年(西暦610年)新羅・任那の使者が都に到着する。翌9日、天皇に拝礼する。そのとき、新羅の使者の案内を、秦造河勝・土部連菟に命じられている。当時としては、重要な外交のポストだったであろう。
 今なら、さしずめイギリスのブレア首相の案内役とでも云えよう。
4.皇極天皇3年(西暦644年)7月、東国の富士川のほとりに大生部多(おおふべのおおし)という者があり、蚕(かいこ)に似た虫を常世の神(とこよのかみ:不老不死の仙境から人間世界に現れ、長寿・富・幸福をもたらすと考えられていた)と称して、この虫を祀ると「金持ちになり、若返る」と人民を欺いた。このため朝廷は、秦河勝を派遣してこの騒ぎを平定させた。
 秦一族の力が、地方にまで及んでいたことが推測できる。
 このように、日本書紀を拾い読んでいくと、おのづから秦一族が渡来、日本への帰化し、その間ひとつのグループとして先進技術を駆使しながら日本の国土開発に携わり、経済力をつけ、大和朝廷以降は政治的にも力をつけ、朝廷の財務面においても大きなウエイトを占め活躍した様子がうかがえる。その秦一族・地元住民の経済的・精神的基盤として、松尾山の山霊への信仰から地元の守護神、醸造の神様へと由って来るところも容易に推測できる。
醸造の神、松尾大社
 古くから、11月の上卯の日に酒を造りはじめることに因んで、わが社でも11月に“醸造安全祈願祭”を醤油・味噌の仕込みの現場で、おごそかにお祭をしている。 私たちにとっては、親しみ深い、大事な神社なのである。
神社内にある蓬莱の庭
 何事も科学的に究明される時代になってきた。しかし、酒・醤油・味噌等、古来 日本人の味をつくる醸造には、その大部分は明らかになっているものの、まだまだ不明な点も多く、神秘的ですらある。私たちは、科学万能の時代とはいえ、“日本の心”も忘れてはならない。
 醤油・味噌をはじめいろいろな食品・調味料も、原料・仕込から製品まで、心を込めてつくり、皆様方のお口に入るまで大切に取り扱っていきたいものである。 「相生(あいおい)の松」
醸造の神様だけでなく
恋愛の神様もいます。
次の資料を参考にしました。
「松尾大社」案内
「日本書紀」 宇治谷猛 著/講談社文庫 
「日本の歴史」第3巻 井上光貞 著/ 小学館
「日本の歴史」第2巻 直木孝次郎 著/ 中央公論社
松尾大社ホームページ http://www.matsunoo.or.jp/