会長コラム
 
会長コラムへようこそ。

コラムを始めて4ヶ月目に入りました。
読んで頂いた皆様は、会長の“顔”どのように想像されているでしょうか。
まぁ こんな“顔”です。
よろしく。
 
顔
30年前に、日本漫画家協会の先生に描いてもらった「似顔絵」です。
今は、少し白髪が増えてしわも増えています。
 
 毎朝、顔を洗う。
 今は総入歯になってしまったので、義歯を洗浄し装着した後、あらためて鏡に映る顔をしげしげと眺める。
 その顔とつき合って、はや70年を超えてしまった。勿論、紅顔の美少年の時代とは比べようもない。眉は少し垂れ気味、皺は歳月とともに、深く刻みこまれてきたが、それなりに、まあまあの部類だと自らを慰めている。
 
 鏡を見ながら、ふと考える。
 今は、鏡によって自分の顔をまじまじと眺め、他人も、これと同じ顔を見ているんだな、と納得する。
 しかし、古代人にとって、ものを映す鏡は、まさに不可思議、神秘的であり、咒術的(=呪術的)であっただろう。だからこそ、数多くの古墳から出土する金属製の鏡は、祭祀用に使われ、また、神話に出てくる鏡は、劍、玉、とともに三種の神器のひとつ八咫鏡となり、擬神化され、伊勢神宮の御神体となっている。
 鏡のこういった超越的な属性から解放されたのは、奈良時代正倉院に残っている貴族の調度品、唐鏡が入ってきてからであるという。これがさらに、平安時代になって、はじめて和鏡として上流社会に普及して人間の道具となっていく。そして、庶民が自由に使えるのは江戸時代になってからである。
 となると、平安前期の美女、小野小町は果たして自らの美しい容姿を、自らの眼で確認していたのだろうか。
 
 その顔だが、リンカーンは
「40になったら、男は事自分の顔に責任をもて」と言っている。
まだある。ヘレナ・ルビンシュタインは
「30才までは、神様がくれた顔」
日本でも
「男の顔は履歴書」と言った人がある。
「女の顔は請求書」と言った人があった。失礼千万ですよね。
 
 責任をもった顔、
 自分でかせいだ顔、
 履歴が書かれた顔、
いわば、年輪の刻み込まれた顔とでも言うべきだろうか。眞摯にわが人生を生き抜いてきた人の顔、その道一筋に人生を捧げてきた人の顔、写真家 土門 拳が、一流の人物を写した顔は人を惹きつける。美醜を超えた何かがある。あるときは喜び、あるときは悲しみ、あるいは人の裏切りにも堪え、ぐっとかみしめた生活の累積だからなのだろう。
 そう思いながら、自らの顔をあらためて見直してみたが、まだまだ貫録不足だ、勉強せねばと反省する。
 
 そう言えば、会社にも、企業にも顔がある。
 わが宮島醤油の顔には、創設以来120年、長い風雪に堪えてきた、重味はあるだろうか。創立以来、再度の大火、昭和初期の大恐慌の辛酸、第2次世界大戦を乗り切った苦労、激甚の競争の中で必死になっている顔であるはずだ。
 会社を訪れた人には、宮島醤油はどんな顔に映っているだろうか。
 勿論、美男ではあるまい。お世辞にもスマートとはいえまい。シワもありホクロも、シミも点々としている、カスリ傷もあるだろう。
 
 今や、日本は第2次大戦の敗戦のショックから半世紀、21世紀に入って、日本経済はデフレ波に流され、這いあがれない。
 醤油、味噌の業界は低迷し、加工食品業界も価格破壊の中で、きびしい競争裡にある。
 宮島の顔も、いつも穏やかであってはいけない。
 歯を食いしばり、眼をカッと見開き、全力を傾注し、この荒波を乗り越えねばならない秋である。
 そうすれば、宮島の顔にも、もうひとつ重味が加わることだろう。