私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

新年になり、太宰府天満宮へ。
そこでは、昔懐かしい猿廻しに出くわしました。
人と猿のつながり、今年生誕360年祭を迎える芭蕉も、猿にまつわる句を詠んでいます。
その句に導かれながらの拙文ですが・・・
 
 新しい年を迎える。
 新年の行事を終え、1月10日からの三連休の最後の日。今年は、可愛い孫2人が大学・高校とダブル受験となる。妻と二人、どちらともなく誘いあい久しぶりに、太宰府は天満宮へ。快晴だが、風は冷たい。太宰府駅頭に降り立つと、思わずオーバーの襟を立てる。改札口を出ると、チョコンと座った猿と若い猿廻しのコンビに出会う。まだ実演とはいかず、お客様待ちだった。
 まずは、孫たちの「学業成就」、「合格祈願」と、本殿に向い二礼二拍手一礼し、お札を頂く。
 広い境内を見渡すと、ここにも猿廻しの人だかりが見えた。
 今年は申(さる)年、そしてお正月だからと歩きながら考える。そうだ、芭蕉の句集に『猿蓑(みの)』があった。
 その冠頭の句。
 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也
 解説はこういう。
 「伊勢から郷里の伊賀へ。折から風流な初しぐれの中を蓑を着て山中を歩いていくと、道ばたに猿がいる。猿も、小蓑があればこの初しぐれに興ずることができただろうに」
 これは、初しぐれに濡れている猿に同情したものではなく、一緒にこの風情を楽しもうよ、と問いかけているのだという。猿と共生・共楽しよう という気持ちのようだ。
 猿にまつわって、もう一句。
 猿を聞く人 捨子に秋の風いかに(野ざらし紀行)
 「古来から中国の詩に、猿の鳴き声を聞くと断腸の想いがするというが、猿の声を聞く人よ、捨て子に吹く秋風のひびきをどう聞くのか。」捨子の声は猿よりも悲しい。
  当時は貧民あまたあり、生活苦のため、産んだ子を・・・・・これを“間引き”といった。芭蕉は、その身の上に萬感の悲しみをもちながら、俳諧師として、どうにもならぬもどかしさと、切迫した気持ちを読んだのだろうか。
 芭蕉の句を、もう一句。
 年々や猿に着せたる猿の面(薦獅子集)
 「これは新年の句、猿まわしが年々猿に面をかぶせて正月の門々を歩き回り、お祝いをする。猿まわしが賑やかに明るく新年の街角をまわる中に、ある侘しさとペーソスをただよふ」
 猿廻しとは、猿曳き、猿舞ともいう。
猿廻しの図
「風俗画報」第58号
明治26年9月刊より
 訓練した猿を肩に乗せて村や町を訪れ、家々の門で猿に芸をさせて、いくらかのお金を頂いて歩く芸能者である。彼らは人の集まる広場や辻で芸をすることが多く、門付け芸、大道芸といわれるものの一つである。また、正月に訪れ、新年をお祝いしてくれる馴染み深い芸能で、多くの人を楽しませてくれた。
 勿論、徳川時代からあったようだが、明治時代後半から大正にかけてが最も盛んで、とくに山口県光市浅江高州には大勢の猿廻しがあり、これらの人々が東京に集って、全国津々浦々を巡行していた。
 しかし、昭和5年を境として、次第に衰え、昭和30年に入ってからほとんど姿を消してしまっている。何か辛い事情もあったのだろうか。
 私たちは、仕込まれた猿の演芸を見て、面白げに、何気なく笑っているが、その芸は人と猿の激しい相剋の中から生まれてくるという。
 猿は群れ生活をする動物である。
 群れが群れとして存在するには、一定の秩序が必要である。その群れのボスになるためにはニホンザルの雄は、血みどろの斗争を得て、ボスザルの地位を獲得する。
 「猿を仕込むときには、サルになれ、しかもボスザルになれ」という猿廻しの金言があるという。仕込む側と仕込まれる側との力関係が確立してこそ、芸が成立する。猿廻しはボスザルとなって猿を訓練せねば、猿は芸を習得できない。
 「人間でもサルでも、たたきあげ、きたえあげねばホンモノにはなれん。そのホンモノを生み出すためには、人間の教育にもサルの仕込みにも、限りないやさしさと、きびしさが要求される。そしてその根底には、かならず相手への信頼が必要なのだ」
 猿廻し復活に情熱を注いだ村崎さんという人はこう語ったという。
 太宰府天満宮で出会ったお猿さんから、今の日本の社会の中で最も欠けているもの、教育・職業における緊張感を教えられたようだ。
 日本はあまりにも平和で、満たされすぎているのだろうか。
 
 
 参考文献
  鑑賞日本古典文学28巻 芭蕉 / 井本良一 編(角川書店)
  歳時記句歌 / 山本 編(新潮文庫)
  十二支の民俗誌 / 佐藤健一郎・田村善次郎 著(八坂書房)