私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 暑かった今年の夏。
 アテネオリンピックでの日本勢の活躍を見ていると、ふと、バレーボールとの出会いから今日までの思い出が楽しく蘇ってきた。

 今年の夏は、殊のほか暑かった。
 猛暑に加うるに、アテネオリンピックは、メダルラッシュ、柔道、レスリング、水泳・・・、と大いに盛り上がった真夏の夜だった。
 その中でも、やはり自ら白球を追い続けたバレーボールには、思わず熱がはいる。残念ながら、柳本監督率いる日本女子バレーボールは、メグ、カナの若い力も及ばず、惜敗。しかし4年後の北京での活躍を期待しよう。顧みると、私のバレーボール歴も60年になっていた。初めてボールに触れた感覚、ともにプレーした数々の友、そして一昨年の11月、東京オリンピックチーム6人の東洋の魔女と遊んだ思い出が、楽しく蘇ってきた。
一、バレーボールを始めた頃
 昭和20年8月15日終戦。
 当時、唐津中学の4年生、約6ヶ月の学徒動員から帰宅。9月からの2学期が始まった。登校はしたものの、国の教育政策も決まらず、午前中で授業も終わる。
 若い。だから、何かスポーツをしよう・・・。同好の士が集って、バレーボールを始めた。“女学生と試合をされるバイ”との甘言につられて、円陣パスらしいことをしたのが昭和20年の9月頃だろうか?
 当時、ボールなどは1ヶあれば上等。パス、トス、キル(スパイク)を覚え、面白くもなってきた。だが相手がいない。あつかましくも先生方にお願いしたら、快く応じてもらい、放課後試合をしてもらった。蓮尾・古賀・花摘・亀山・徳久・・・の先生方が懐かしい。
 その頃の思い出。女学校(現唐津西高)に行って試合をしたが、ルールも分からず敗けたらしい。現在の唐津シーサイドホテルは、米軍の保養地だった。コネを求めて試合を申し込む。こちらは9人制、むこうは6人制、和気アイアイ遊んだ。相手はポジションはローテーション、不思議だなぁと首を捻った。
 ボールが粗末だからすぐ変形する。家に持ち帰り修繕する。益々変形がひどくなる。それを使うのだからボールが前後左右にフラフラ変化する。この変化に対応するのも大変だった。勿論野外。日に焼けることおびただしい。しかし、それは苦にならない。足が痛い、はだしだから。足の裏にはボロボロマメができた。
 唐津中学から、幸に福岡高等学校(旧制)に入学。バレーボール部に入部したものの、この福岡高校は当時としてはレベルが高く、猛練習に明け暮れた3年間だった。その甲斐あって、昭和23年、旧制高等学校の最後のインターハイで全国優勝の栄に・・・
 爾来、大学、会社、地域、友人たちと、バレーボールを楽しみ、最近は高齢者まで遊べる「ソフトバレーボール」まで、半世紀をこえる歳月が流れていた。
二、東洋の魔女、北京チームとソフトバレーボールを楽しむ
(一)中国でバレーボールをしよう
 「中国で、東洋の魔女6人とバレーをしませんか」
 福岡のソフトバレーボール愛好会、『キャッツ』の佐藤篤ニさんからの電話を受けたのは、一昨年の5月頃だったろうか。
 根っからのバレー狂の血がさわぐ。即座に「行きましょう」と意気込んで承諾の返事をする。その声を聞いていた愚妻は呆れ顔である。
 正式に連絡がきた。ツアーはいささか仰々しかったが、興味を惹く。
日中国交正常化30周年記念
東洋の魔女と行く
第30回日中友好スポーツ交流会
第1回ソフトバレー北京交流会
2002年11月20日(水)〜11月24日(日)
企画: NPO法人日中文化交流振興協会
(二)北京に到着、晩餐会
 11月20日、福岡から上海経由で北京へ。すっかり暮れた首都北京の月は煌々。思ったより暖かい。
 参加者一同の晩餐会。
 集うは、北は山形県の鶴岡、茨城、千葉、山口、福岡、佐賀(唐津)からの20代から古稀を越える男女70余名。東京オリンピックの金メダリスト、河西昌枝率いる東洋の魔女を囲んで、お酒が進むにつれバレーボール談義に盛り上がる。
(三)いよいよ交流試合
 翌11月21日、体育館に案内される。
 中に入ってみると、びっくり仰天。その広いこと。ゆうに、バスケットコートは20面はとれそう。その中に卓球、バドミントン、テニス等のコートがあり、家族連れや友人でそれぞれのスポーツを楽しんでいる。その奥にソフトバレーボール大会の準備が整っていた。
東洋の魔女6人を囲み参加者全員
2列目赤いユニフォーム6人
“東洋の魔女”勢揃い
 「第三十回日中排球交流(第一次軟式排球)大会」の赤色の横断幕が掲げられている。
 久しぶりの「排球」の文字に懐旧の念がうごめく。それに、ソフトバレーボールを「軟式排球」と訳され、成る程と納得する。
 気軽な親睦、友好の交流会だけに、開幕式は簡素。
 迎える中国チームは、北京市代表の女性チームだが、体格、技倆は抜群、それに美女揃い。日本からの参加10チームを加えて、16チーム。4チーム毎の4ブロックに分かれてのトーナメントで交流試合。
170cmの私ですが、この通り・・・
 まずは練習と、魔女6人と乱打でウォーミングアップ。さすが金メダリストと思いきや、ソフトなバレーボールは初心者だけに、少しでも中心を外れてパスをすると、とんでもない方向にハネ返り大爆笑。いささかお年を召されているのか、足が動かず、お見合いでポトリとボールは落ちる。― またも大笑い。底抜けに明るい彼女達だ。しかし、さすがにツボにはまれば思い切りよく強力なスパイクがコートに突き刺さり、大拍手。
 いよいよ試合開始。唐津チームは平均年齢60ウンサイの老男女チームだが、意気軒昂、北京チームと対戦する。相手は30歳ぐらいの女性チーム、身長は180cm以上、ソフトバレーは全く初めてとのことで、開始早々はうまくパスが通らず苦心惨憺。互角の試合運びだったが、敵は慣れるに従い力を発揮してくる。となると、北京チームは余裕綽々。親善交流試合の趣旨を解し、おもしろおかしく力を抜いたりして遊んでくれる。彼女達も、日頃のきびしいバレーとは違い、レクリエーションとして楽しんでくれている様子。
 グループ内では鶴岡チームに勝ち、1勝2敗で2位、4グループの2位チームでの決勝戦では山口チームに3セットで惜敗したが、通算9セットを戦う。中国の首都、北京での快汗を拭いてもらいながら、バレーボールを楽しんだ満足感に酔いしれた。
 翌22日も、東洋の魔女たちを中心に和気藹々の親善試合を楽しむ。
(四)中国の好意、人民大会堂での歓迎会
 国交正常化30周年ということだから、思いがけぬ歓待を受けた。
 「中日友好軟式排球北京交流大会」歓迎宴会は、北京体育大学の招待である。
 中国共産党大会が行われる「人民大会堂」に導かれる。初冬の宵空に聳える人民大会堂を見上げると、数十mの高さに★のマークが夜空に輝いている。何しろ広く、大きい。聞けば、人民大会堂を囲んで、全国の省(福建省、・・・省 等)と特別区毎に、会議、宴会のできるホールが50近くあるという。そのひとつ、澳門庁で歓待を受ける。
 主催者の中国のバレーボール協会、北京体育大学学長室長、国際部、日本語学部の方々が出席。それぞれの歓迎の言葉を受けた後、日本側を代表して、団長の河西昌枝さんが謝辞。
人民大会堂にて
前列左から3人目
中村(河西)昌枝さん
 「1964年、東京オリンピックで優勝した後、中国、周恩来主席から『中国でもバレーボールを普及させたいので是非教えて欲しい』と懇請され、大松監督とともに数回中国を訪れ、練習を公開したり、技術の指導をした。その際にお世話になった友人が、今日病を押して出席されており・・・」と述べられる。ここまで述べられ、当時のことを思い出されたのか、感極まって絶句、嗚咽、一瞬場内は静まりかえる。引き続き、「中国のバレーボールが世界のトップクラスに成長した後も、中国の関係者はその恩義を忘れず、私たちを大切にして頂く・・・」とお礼の辞を述べられる。
 まさにスポーツが育てた国際親善と、感銘を受けつつ素晴らしいディナーを堪能する。
 「これが中国の正式のメニューですよ」と解説されるだけに、淡味だがほんのりと残る旨味は、品格というようなものを感じさせる。
 中国の少女による曲芸、アクロバット的だが上品な演技に、中国の好意を感じつつ、人民大会堂を出ると熱っぽくなった心身に、ひんやりとした北京の夜風が吹きぬけた。
(五)パトカー先導で、万里の長城へ
 北京の晩秋は、高天肥馬の蒼空を期待していたが、北京に着いてからの二日間は、靄っている。黄塵萬丈とまではないが、どうも黄砂が吹いていたようで、太陽がぼんやりと見える。
万里の長城にて
 ところが最終日は快晴。
 中国のご好意で、バス3台はパトカーが先導、料金所もノンストップ。おかげで北京から長城まで40分で到着。中国まで来てドライブを楽しみ、世界遺産、万里の長城の雄大さ、中国五千年の民族間の抗争と発展の歴史を実感する。
(六)釣魚台国賓館
 北京に到着した一夜は、「釣魚台国賓館」に泊まる。国賓級の― アメリカ大統領、政府要人等― 会見、晩餐、会議等に使用される国営のホテルとのこと。広大な中国風の庭園に、約20棟の号楼が散在する。ひとつの号楼が日本のホテル並。天井は高い、部屋は広い、調度品は豪華。従業員は共産党の選び抜かれたエリート、門には衛兵、普通の人は入れない。厳重な身分の審査がある。浮世離れした一夜を送る。夜明けとともに庭園を散策すると、すでに池の面には薄氷が張りつめ、思わず襟を詰める。
(七)6人の魔女の印象
 東京オリンピック優勝、勝利に小躍りしていた6人の映像から受ける印象よりも、ガッチリ、長身。やはり当時では抜群の体格だっただろう。
 性格はみなさん、人懐っこく、周囲をなごませる。
 話しかけても当意即妙の答えが返ってきて楽しい。すでに結婚、「孫が○人いるのよ」と誇らしげ、二次会などにも気軽に参加されていたようだ。
 ただ、現役時代のハードな練習の為だろうか、ほとんど足腰を痛めておられ、痛々しく、往年のプレーは期待できないものの、時に猛打、その片鱗を垣間見ることができた。
 河西昌枝主将のもと、チームワークの良さは微笑ましく、6人揃うと、年齢順だろうか、いつも同じ序列できちんと整列されていたのは印象的だった。
 ひとつだけ、河西主将に不躾な質問を投げかけた。
 「現役時代、大松監督の命令に反抗して爪を伸ばしたままプレーされていましたが、今は・・・」と。
 彼女、苦笑しながら指を出していわく、
 「いやなこと覚えているわね。伸ばしたいのだけど、年をとると、すぐ割れちゃうのよ」と、きさくな性格。さらに、「皆さん要望があれば何処へでも出かけますよ」と今なお、バレーボールの普及に奔走されている。
 かくして4泊5日の旅は終わる。
 バレーボールの虜になって以来60年余、今回の中国の訪問は、旧制高校最後のインターハイに優勝できた喜びとともに、私のバレーボール人生に彩りを添えてくれた。