私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 「宮城まり子」 歌手、女優・・・・・・、そして、ねむの木学園園長。日本経済新聞3月の「私の履歴書」につづき、6月のNHK新日曜美術館では「誕生ねむの木こども美術館」が放映されていた。その活躍ぶりに触れると、私には50年前の“まり子ちゃん”のイメージが蘇ってくる。
ねむの木学園に想う
50年前の宮城まり子歌謡ショウ
 「宮城まり子がくるバイ、フランキー堺といっしょに・・・、見にいこうや」
 バレーボールの友人に誘われて、飯塚の嘉穂劇場に足を運んだのは、昭和31〜32年頃だったろうか。
 昭和28年、貝島炭鉱株式会社に入社、福岡県鞍手郡宮田町(現在の宮若市)の大之浦鉱業所に勤務になって、3〜4年、漸く仕事にも馴れた頃だった。一日の仕事を終え、JRを乗り継ぎ劇場へと急ぐ。
“紅い夕日がガードを染めて・・・・・・”
「ガード下の靴みがき」が大ヒット、人気絶頂の宮城まり子とあって、古い劇場は超満員、二階席でも立ち見だった。
 可愛い彼女の歌と踊りに酔っていた頃、突如、停電。舞台は真暗。一瞬シーンと静まりかえる。今からどうなるのだろうと思った数分後には、ローソクか懐中電灯だろうか、舞台はほのかに明るくなった。
「皆さーん!私といっしょに歌いましょう。お話しましょう・・・・・・」
 宮城まり子の、あの小さな体から・・・・・とは思えない、大きな張りのある声。マイクを通さぬ元気な生の歌声が、うす暗い劇場いっぱいに響く。全くプログラムにない、観客と一体になっての歌謡ショーに様変わりして、一挙に盛りあがる。
 50年前のこと、どんな歌だったか、彼女がどんなおしゃべりをしたのかは、今となっては全く思い出せない。しかし、停電した舞台のかすかな光の中、お客さんに、楽しみ、喜んでもらいたいと必死に歌い語った彼女のひたむきさに、快い感動を覚えながら、劇場を後にしていた。
「私の履歴書」
 爾来、折にふれて宮城まり子の歌手、俳優、ミュージカルでの活躍、重い心身障害者への限りない愛は「ねむの木学園」を生む。
 さる3月の日本経済新聞、「私の履歴書」は、宮城まり子、生い立ちから今日までのひたむきな人生を語っておられる。
 小学校6年のとき、絵は感じたままを描きなさいと教えてくれた優しい母を失い、戦前、戦中、戦後の苦しい生活を経て、父親のすすめで浅草演劇場で歌の世界に入り、その後菊田一夫の知遇を得て日劇へ。
 昭和30年、自らが選んだ「ガード下の靴みがき」が大ヒット・・・・・・。
 その3年後「婦人公論」の「まり子の社会見学」の取材で「重い心身障害者」を知る。
 飯塚での歌謡ショウは、この頃だったのだろうか。
 つづいて、昭和35年、脳性麻痺のこどもをテーマとしたミュージカル「何もしないで出世する方法」を宝塚劇場で演じる。
 このとき、病気のため思い通りに手足が動かない子供を演じることになったが、人の悲しい形を演じての笑いは芸ではないと疑問を抱く。悩みに悩んだ末、もし、観客席に、そんなこどもがいたら・・・・・・と考えると、体が動かなくなった。
 主催者、脚本、監督さんの意思に反し、脳性麻痺の少女ではなく、健康な子供として歌い、踊る。
 ミュージカル終了。カーテンコールで出演者全員が挨拶をしたとき、脳性麻痺の子がお父さんに抱かれ「この子はまり子さんのファンです」とまり子さんの足を握って離さない。
 「あの子は私に一生の仕事を決断させてくれたのです」と結んであった。
 私の履歴書、宮城まり子(16)を読みながら思わず目頭が熱くなった。
 以来「応援団なし、一人で。舞台化粧のまま厚生省へ」、歌とステージのあい間を縫って、「ねむの木学園」設立へ東奔西走。昭和43年「社会福祉会法人ねむの木福祉会」設立が認可され、第一期工事も竣工する。
 ねむの木学園は創立以来40年の歴史を刻んでいる。
 
 
 宮城まり子さんの優しい心、こどもたちの純粋さが融合したすばらしい世界は、巧まずして素晴らしい色と形を生み、私たちを惹きつけ、人間の尊さを教えてくれる。
 「学校を出て、履歴書を書いて、面接してお勤めでしょ。私、また新しい会社に入社したつもり」とおっしゃるまり子さん。大病を克服され、元気いっぱい、今後も恵まれぬこどもたちを守ってくださることでしょう。
 九州の一隅から応援しています。
参考文献
「わたしの履歴書」 宮城まり子 日本経済新聞平成19年3月1日〜3月31日
ねむの木学園ホームページ
「またあしたから」 宮城まり子 日本放送出版協会
「まり子の目、子どもの目」 宮城まり子 図書印刷株式会社
「ともだちねむの木そして私 1〜3」 宮城まり子 集英社
「ねむの木まり子こどもたち」 宮城まり子 海竜社
「ねむの木のこどもたち」 宮城まり子 ごま書房