私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)

会長コラムへようこそ。

桜花、爛漫。
4月は、学業を終え、就職。
わが社にも、新入社員15名が入社する。
初々しい彼等の笑顔には、喜びとともにちょっぴり不安ものぞく。55年前、昭和28年4月、貝島炭鉱株式会社(註)へ入社したときの、ときめきが蘇ってくる。
私の新入社員時代
貝島炭鉱株式会社 昭和28年の新入社員
 「蛍の光に送られて卒業の喜びを胸にして筑前宮田駅を下車し、いよいよ自らも社会人として生活する希望と、・・・未知の世界への深い不安が入り乱れる」
 
 実習を終わって、人事課に提出した感想文の冒頭に、こう記していた。入社後、3ヶ月にわたり実習した日誌と記録を読み返しながら記憶をたどってみる。
 
(一)4月1日、入社式
 貝島太市社長訓示
  健康、精神の保全 誠心誠意で勤務を 不平不満の排除 家族を大切に
 
 創業者の嗣子は、威風堂々、眼光炯々、羽織袴を着用、25名の新入社員を睥睨(へいげい)しながらの訓辞であった。思わず緊張する。
貝島炭鉱株式会社の社章
(二)坑内実習
 4月3日~20日まで、技術関係の実習。生まれて初めて、地下数百メートルの坑内に入った。服装を整え、ヘッドランプを着け、操作を習う。思わず気が引きしまる。人車に乗り、下る。しばらく坑道を歩いた後、切羽(採炭の現場)に着く。騒音が耳をつんざく。とびかう炭塵、高温多湿。採掘された石炭がコンベアの溝を激しく流れる。炭塵にまみれた鉱員さんの顔に流れる汗が光る。
 55年前、垣間見た、石炭採掘現場の重圧感は今なお生々しい。
 
 あるとき、係員の方と腰をおろして休む。
 「ヘッドランプを消してごらん」との問いに、実習生3人、スイッチを切る。途端に“暗黒の世界”だ。
 現代人は、「全く光のない空間、時間」は経験しない。真の闇、一瞬、思わず、すくむ。
 
 一日中、採炭実習に汗を流す。
 「学生時代(旧制中学4年)、戦時下の工場動員中の苦痛がよみがえる。戦時中の強制労働、無批判に働いた当時とは本質的に異なったものを感じる」と感想を綴っている。
 今ふりかえってみると、まさに貴重な体験をさせてもらったと感謝こそすれ、不満はない。地下での重労働、ただよう現場の緊張感は今なお、思い出す。
 
4月6日の実習日誌 日誌の表紙
(三)事務部門実習
 4月20日から事務部門にはいる。
 いずれ、総務、経理、労務関係に配属されることになるので、真剣に勉強する。
 
【1】経理部門
 4月21日から5月23日まで約1ヶ月。経理全般にわたる財務諸表、税務会計、原価計算、固定資産、賃金給与・・・等々を学ぶ。
 基本的な諸項目の概念理解から、炭鉱特有の計算方法まで丁寧な解説は今なお脳裡にある。とくに興味深かったのは、「固定資産の坑道における減価償却方法及び申告方法」だった。
生産高比例法
坑道の完成金額
  = t当り減価償却額
    =
取得金額-残存金額
その坑道から採掘予定の出炭量
(経済的可採炭量)
t当りの減価償却額×当期の出炭数量 = 当期の減価償却総額
なるほどと納得した。
 
 引当金についての知識、特に退職給与引当金の算出方法。年度末に全員が自己都合退職した場合を計算。前年度との差を引当てる考え方も今なお記憶に残っている。
 おかげさまで、その後の私の仕事の基礎知識として大いに役立ったことに感謝している。
 
【2】賃金給与関係
 賃金制度は、炭鉱における作業内容が煩雑多岐、その上に、筋肉労働を主とする技術、加うるに、労働組合との熾烈な交渉の産物であるだけに、緻密というより、難解だった。
 採炭、仕操(坑道のメンテが主な内容)、掘進(坑道の掘削)の直接夫は、請負給(能率)のウエイトが高い。綿密な作業量の測定から始まり、標準作業量が決まる。この作業量の達成の度合で増減する。
 その外に、技能給(請負給以外の人、0.8~1.2)、職種給と年齢給、勤続給、さらに家族給があり、鉱業所全体の出炭奨励金(団体請負給)が加わる。
 その上、作業環境は地下だけに多種多様、掘りやすい炭層もあれば、難しいところもあり、新しい機械を導入するときは、新しい標準作業量について、作業分析から熟練度等々、その度毎に、労働組合との厳しい団体交渉となる。
 実習で、賃金の説明を受けながら、「坑内における労働が正しく数字に表現できるか」との疑問を抱いていた。
 
【3】労務管理 5月25日から6月10日まで
 炭鉱の経営は極めて、労働集約的であった。しかも、重労働(まさに3K)、その地理的条件(山間地)から、衣食住すべて企業が世話をする。それだけに、従業員の力をいかにうまくまとめていくかに企業存立がかかる。
 現実に、従業員は、いわゆる「炭住」。70~80世帯から多くは100世帯を超える集団生活(区)になっていた。
 それだけに、職員の「区長さん」が配置され、皆さんの日常の世話、督励をすることにより、労働力の維持向上に努めることになる。
 その区長さんに案内され研修する。
 採用から退職までの事務手続き、健康保険、社会保険等々。その基礎を学んだ。
 
 一方、当時の石炭産業は基幹産業として、労働組合活動が活発。それに対立する企業側の基本的な態度、交渉の苦労話等々を聞かせてもらう。
 正式に辞令を頂く。何と、入社後12年間、対労組交渉の担当となるとは、露知らず・・・。
 その他、倉庫関係、総務部門と3ヶ月の実習を終わる。
 時あたかも、昭和28年6月10日、朝鮮動乱が幕を閉じる。実習日誌には「動乱危機は熄んだ。しかし、その後に来るものは何か、全く見当がつかぬ。日本経済にどう影響するか、・・・色々問題はあろうが、平和をリクツなしに喜ぶべきだ」と書きとどめる。
 6月25、26日は、北部九州のいわゆる二八水害(昭和28年)に見舞われ、若松への営業実習は中止、26、27日は臨時休日という体験まで重なる。
(四)実習を終えて
 同時に入社した新入社員は25名、会社の配慮で、全員、清山荘という職員寮で寝食をともにした。
この間に培われた連帯意識は、二八会と称し、今なお親しく、時には文通、時には杯を傾けながら、旧交を温めあっている。苦労をともにしただけに、生涯の友として、その絆を大切にしている。
清山荘
 幸いに、会社解散時に、書類を整理する際、昭和28年入社の25名の作文「実習を終えて」が本人それぞれの手もとに戻っている。
 勤労二課 宮島傳二郎、「実習を終えて」を恥をしのんで、ご披露しましょう。
 
 「・・・入社以来の不安を杞憂に終わらしめてくれたのが実習であり、炭鉱という特殊な社会を、ヤマという親族的な感情と、一歩下って見れたことは・・・、私たちの将来の指針を示唆してくれた。
 
 実習とは別に、辞令を受け、改めて清新な気を持っている。
 我々は働くのだ。人として当然の義務であり、固い厳しいものを感じる。
 
 働きつつ考え、考えつつ働くことを忘れてはなるまい。・・・社会を見、考えることを忘れてはならない。・・・このことが立体的により高い地点に進む。新しい勤労意欲の泉になるのでは・・・」
 
 55年前に書いたレポートを読みかえすと、まさに汗顔の至り。いささか背伸びした“この青二才が・・・”という生意気さがのぞく。
 しかし、入社当時、夢想だにもしなかったエネルギー革命、石炭から石油への転換は、昭和30年頃からはじまり、約20年の間に、石炭産業は衰退の一途をたどることになった。その一部始終を眼のあたりにし、体験したことは、その後の人格形成、職業観、企業観の醸成への貴重な糧となったと自覚している。
 
 あたらしく就職される諸兄姉の皆さん。
 今からの社会の変化は全く不可解、それだけに大きな変革をはらんでいる。その変化にまどわされず、刮目して立ち向かってもらいたい。
(註)貝島炭鉱株式会社
 創業者は貝島太助。直方市の貧農の子として生まれ、8才にして父に伴われ、坑内で働く。慶応3年、23才のときに独立、炭鉱経営に着手するが、出水、崩落、資金難等で、経営不振、不成功に終わる。
 明治18年、宮田町(現在の宮若市宮田)に46,000坪の大之浦鉱区を確保して以来、豊富な石炭埋蔵量と優れた炭質に恵まれ、日本経済の発展を背景に、太助の旺盛な事業意欲とあいまって、いわゆる「筑豊御三家」と称される程の成長をとげる。
 その最盛期には、年間生産172万トン、従業員数1万数千名、家族を含めると4万を超える。
 戦後は、日本経済の復興の基礎エネルギーとして政府の保護を受け、石炭産業も立直るが、その後の石炭から石油へのエネルギー革命の波は、如何ともし難く、貝島炭鉱もまた数次の合理化努力も空しく、昭和51年閉山する。
 因みに、貝島大之浦炭鉱創業以来の出炭累計、7,792万トン、大辻岩屋炭鉱を加えると約1億トンに達する。

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