私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
会長コラムへようこそ。

 肥前、名護屋(現 唐津市鎮西町)には、今を去ること約400年、豊臣秀吉が朝鮮、中国への侵攻を企て、その根拠地となった名護屋城跡、その貴重な史跡が残っている。
 幼い頃から何度か訪れ、戦時中の野外教練では、真夏に名護屋城を往復した辛苦の想い出が浮かぶものの、日本歴史としての漠然とした知識しかない。
 お世話になった(社)唐津法人会女性部会が企画された「鎮西町名護屋、呼子の視察研修会」に誘われるまま、参加させてもらった。
 参加人員は、説明役の唐津市教育委員会文化課、黒田主査を含め20名。うち女性16名と華やかな雰囲気の中に、黒田主査の的確な解りやすい説明に高天肥馬の秋の一日を楽しむことができた。
 
太閤道を歩く
~名護屋、呼子の研修会~
(一)太閤道を歩く
 10月14日、昨夜来の秋雨も晴れ、さわやかな秋空の下、バスは唐津大手口を出発。佐志山へ向う。ひとつふたつ九十九折りの山道の途中で止まり、下車、その道の両側は「太閤道」、道とはいえ、山の斜面を削った感じ、枯葉を踏みしめながら、ここを太閤秀吉は通ったのだろうか、いや、当時は何十万の人が踏み固めた道なのだ。黒田主査の説明に耳を傾ける。
 秀吉の命令一下、全国約160人の大名が名護屋の丘陵地に陣を固める。
 文禄元年(1591)から慶長3年(1598)まで、延べ何十万の人が名護屋の土を踏んだ。最盛期には25万~30万人という。
 唐津から名護屋への陸路、いわゆる太閤道は、唐津大手口、現浄泰寺を出発点(名護屋口)とし、江川町、菜畑を経て、佐志から上場台地へ登る。その坂道がこの太閤道である。今、目の前にしている急傾斜は史料によれば、
「佐志坂峠とて殊の外急なる坂候、それより名護屋まで山中にて候・・・・・・」
とあるから、唐津から名護屋までの最大の難所だったのだ。
(二)太閤一里塚へ
 佐志峠への太閤道の急な坂道にしばし驚嘆し、400年前のこの現地の状況、名護屋へ向った人々の心境や如何に、と歴史を追想する間もなく、再びバスにて、曲がりくねった道をひとまわりすると「太閤一里塚」へ着く。
 太閤秀吉は名護屋城を構築、朝鮮への出兵のために、人、物の移送のための道路の整備を急ぐ。その距離の目安として唐津から一里(4km)ごとに松、檜を植え、塚を築き休憩の場所とした。今なお小さな木立の中に「太閤一里塚」(通称佐志の辻)と道祖神が祭られている。
 ここで私たちもひと休み。
 400年前、秀吉の命令一下、約160の大名、何十万の人が集まり、莫大なエネルギーを消耗したことだろう。私たちは今、バスで歴史探訪をとシャレた一日を送っている。しかし、60数年前の(旧制)中学2年頃だったろうか。野外軍事教練と称して、靴、ゲートル、旧式の鉄砲を担いで、名護屋往復、それも真夏、汗はダラダラ・・・と追憶しながら、平和な今、初秋の陽光ににじむ首の汗を拭った。
(三)薬師如来坐像、東光寺を尋ねる
 「佐志の辻」から、上場台地を北上し、一路、(原子力発電所のある)玄海町は有浦下、東光寺へ。丘陵の緑を背景にした静かな佇まいの古刹である。導かれるままに本堂へ、一礼し、ご本尊に頭を垂れ、合掌礼拝する。
 御住職の説明に耳を傾ける。
 瑞泉山東光寺は、室町時代に永享年間(1429~40)、念持佛薬師如来を本尊とし、鎮西町赤木に創建。その後、天正20年(1592)、頽廃していた赤木の東光寺を仲外正寅和尚が有浦の現在地に再建された。
 「私(現御住職)は、開山以来(約400年)14代、相続して3代目にあたる。この間、お寺は貧しくとも、部落の人々に、信徒・檀家の皆様に守られ、今日に至っている」
 御本尊、薬師如来坐像は、お寺より古く、平安時代、12世紀頃の制作と言われている。御住職は「長い間、毎日、御尊像に手を合わせ、眼をあわせると、光りの変化、拝顔する角度で微妙に表情が変わったように感じられます」と言われる。専門的には、平安末期、定朝(じょうちょう)様、みずみずしい芳醇さに溢れ、眼差しの優しさ、頬のまろやかさは慈愛に満ち、心をなごませてくれる。
 古くは秘佛であったが、大正5年、大修理が行われ、幸いに正面の御尊顔、眼等は損傷少なく、見事に再現され、昭和25年、県内でも数少ない、国の重要文化財に指定されている。
 御住職のとつとつとした口調には、誠実なお人柄が偲ばせれ、心、洗われながら、お寺を辞去する。
(四)旧中尾家住宅
 玄海町から呼子へ、捕鯨業を営み、一世を風靡した中尾家を尋ねる。
 「鯨一本捕れば七浦賑わふ」と謳われた捕鯨により、中尾家は、元禄の頃から、8代、200年、代々、中尾甚六と称し、巨大な富を得た。その中尾家住宅は、明治の初め、酒造会社が譲りうけていたが、平成14年呼子町へ、さらに平成17年に市町村合併により、唐津市の所有となっている。
 しかし、建物の劣化が激しく、その保存と公開のため、建築当初の姿に復元すべく、現在修理工事中で、全容はテントに囲まれ、見ることはできなかった。
 完成は、来年(平成22年)の秋とのこと、歴史ある建築物であるとともに、捕鯨という産業の“息吹き”を感じることができる貴重な存在としてその公開が待たれる。
(五)広沢寺
 波静かな呼子漁港を眺めながら新鮮なお肴に舌鼓をうった後、名護屋大橋を経て、名護屋城へ向う。
 名護屋城をぐるりと廻り、その北東部は「山里丸」と称し、堅苦しいお城の中にあって山里という名の通り、唯一静かな雰囲気、太閤秀吉の私的(プライベイト)な空間だったとのこと。
 バスを降り、大きな石段を十数メートルも登ると、急に視野が広がる。広沢寺である。そこには、秀吉の寵愛を受けた当時の名護屋の当主、越前守の妹、広子―広沢の局のお墓、太閤の遺髪を納めてある石碑、太閤お手植えの蘇鉄(ソテツ)等々、興味深い伝承の数々が秘められている。
 広沢局が、あるときひどい眼病にかかり、苦しんだとき、七山の鳴神山福聚院に籠り祈願したところ、快癒。ここ山里丸に寺を建て、広沢寺とし福聚院の聖観音菩薩の分霊を勧請し、本尊として、信仰。秀吉逝去の後は、出家し、一生秀吉の冥福を祈り、生涯を終えた・・・という美談となる。
(六)諸大名陣屋、松浦鎮信の陣跡
 秀吉の命令一下、日本全国の大名約160が、この名護屋に集結、名護屋城を中心にそれぞれは陣屋を築く。現在、130を越える陣屋跡が推定されている。そのひとつ、名護屋城本丸から西に1キロ、平戸藩の藩主「松浦鎮信の陣跡」を訪れ、解説して頂く。
 石を敷き並べてある入口(虎口)から枯葉を踏みながら、30~40メートルも登ったところで、平地―左右約200メートル、奥行きは30~40メートルもあろうか―になっている。
 陣屋と言われるが、実質的には各大名が自費で築いた小さな城である。小高い丘陵に石垣を作り、溝を掘り、櫓を建て、食糧、生活物資も当初は持参してきたが、長期になると自国から取り寄せたり、商人から調達したと考えられている。
 この松浦藩で、この広さの土地に、約1,500人ぐらいは生活していたのではと推測されているという。
 このような城砦は、それぞれ独立、朝鮮を意識しての攻撃、防御の拠点、本丸の秀吉の護衛といった位置づけなのだろうか、あるいは、約160の大名たちはお互い疑心暗鬼、一旦、事が起これば・・・というリスクも考えていたのだろうか。
 松浦鎮信の陣跡から、更に北へ、バスの中から、「テレビドラマ“天地人”の劇中人物、直江兼続、上杉景勝の陣は、あの丘陵だよ、あの旗が立っているところだ」と説明をうけ、バスは折り返して、名護屋城へ引き返す。
(七)肥前名護屋城と「天下人」秀吉の城
 最後に、標記の平成21年度の「名護屋城博物館 特別企画展」が開催中、今日の歴史探訪のしめくくりとして、博物館の学芸員の方の詳しい説明を受ける。
 今回の企画は、名護屋城にとどまらず、短期間のうちに日本を統一した秀吉が築城した安土城、山崎城、大阪城、聚楽第、御土居、石垣山城、伏見城の歴史をたどり、それぞれの目的にあった構造、歴史的背景等を考えながら、資料、その他が展示してあるとのこと。
 
 あらためて、今日、一日をふりかえる。
 当時の日本は、戦国時代の混乱から、織田信長から豊臣秀吉へと統一され、国力が充実してきたのだろうか。そして、秀吉は朝鮮、中国まで睨んだ無謀な構想の実現を図る。
 このために、名護屋、唐津はその一大拠点として殷賑を極め、われわれに貴重な遺跡を残してくれている。その歴史をたどっていく一方、今の日本の平和の“ありがたさ”をかみしめ将来の日本を考えている。
 
 丁寧に解りやすく説明して頂いた、唐津市教育委員会 黒田主査、このような有意義な研修視察を企画して頂いた社団法人唐津法人会女性部会(部会長 保利純子様)の皆さんに厚くお礼申し上げます。黒田主査の説明、「鎮西町史」、「玄海町史」、「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城(名護屋城博物館発行)」、「太閤道伝説を歩く(牛嶋英俊 著 弦書房)」を参考にさせて頂きました。ありがとうございました。