私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
  会長コラムへようこそ。

 7月、蒸し暑い梅雨から夏へ。
 2010年7月11日(日)は、第22回参議院選挙投票日、その日は、野球賭博に揺れ動く、大相撲、名古屋場所の初日である。選挙開票のテレビに釘付けされていると、深夜にはワールドカップサッカーへとあわただしい一日だった。
 もの心ついた頃、気がついたら根っからの大相撲ファンだから、ひと言、申し上げたくなった。
 
大相撲に想う
 
(一)大相撲と国技館
 「相撲は国技だ」と言われると、つい、そうだそうだ、と肯きたくなる。それほど、相撲は日本人にとって身近なものになっていた。
 相撲を国技だと思い込んでいるが、そう決めてしまったのはそれほど古いことではない。
 明治42年(1909)に、相撲常設館が建設された。その名称を「国技館」と称したことにはじまる。明治37、38年、日露戦争の頃、大相撲は常陸山、梅ヶ谷が同時に横綱を張り、相撲人気は日露戦争の熱気とともに燃え上がる。
 明治維新後の経済の発展とともに、江戸時代の娯楽として、相撲とともに盛んであった「芸」の世界は、すでに、歌舞伎座、明治座と堂々たる上演館をもっていた。それに比べて、相撲は、場所ごとに小屋掛け、晴天のみの興行ではおくれをとるとの危機感から相撲協会、愛好者の人々の間に常設館設置運動が起こる。大相撲の取締役たちは相撲びいきの国会議員を動かし、明治39年、第22回議会に協力と国庫補助を申請する。その趣旨いわく、
 「角力は、勇武剛健の気象精神を涵養(かんよう)し、・・・古来王朝、これを節会(せちえ)の一(ひとつ)に加えており、国民的遊戯として、保護奨励すべく、・・・大角力常設館の設立に対し、相当の援助を与えられむ」と。
 しかし、衆議院では、3万円の国庫補助は可決されたものの、貴族院では、いろいろの事情があったのか、審議未了のままとなった。
 そうであればと、相撲協会は自らの力で設立に立ち上がる。資金面、場所等々、苦心の末、設計は、東京駅を建てた辰野金吾(東京大学教授、唐津出身)、建設施工は石川島重工業が請負、総工費30万円。
 屋根は穹?(きゅうりゅう)円?形状で、内径200尺、高さ80尺、32本の弓状鉄骨が中央上部で合掌する、いわゆる鉄傘。当時としては、まことに雄大、豪華な競技場が誕生する。
 いみじくも、「国技館」と命名される。
 その名付け親は、あるいは板垣退助ともいい、あるいは相撲評論家 三木愛花、江見水蔭ともいわれるが、相撲愛好家たちの、この殿堂に寄せられた熱意が自然にまとまり、この命名に至ったのだろうか。
 爾来、100年、「相撲は日本の国技」は、徐々に浸透し、昭和10年代に入り無敵の横綱、双葉山時代を迎え、軍国主義の高揚と重なり合い、定着していく。
(二)大相撲興隆と組織面の強化
 かくして、新国技館は明治42年6月2日、閑院宮ほか、三宮殿下を迎え、盛大な開館式を行い、大相撲は、プロスポーツとしての自覚と礎が築かれていく。
 常設館の興行は、年2場所、番付には「晴雨にかかわらず興行」できる喜びとともに、行事の装束は従来の裃から直垂(ひたたれ)、烏帽子と豪華になる。また、関取以上の場所入りは、羽織袴の厳守、幕内力士を東西に分けての対抗戦(現在は廃止)、幕内優勝力士(個人)の表彰、優勝額の掲示、一定の場所に売店を設ける。投纏頭(はな)の禁止、等々がはじまっている。
 一方、力士にとっても、その品位向上が叫ばれる。
 明治維新が、「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」のであれば、力士のチョンマゲ頭、褌一本の裸踊りは、野蛮の見本のようなはずである。しかし、相撲取りは別格とチョンマゲが許される。明治17年には、浜離宮で明治天皇の天覧相撲さえ開催する。こんな努力が実を結んだのか、日清、日露の戦後、国力が伸張するとともに、相撲はいよいよ盛んになる。
 しかし、一方、徳川時代、各藩のお抱え力士だった力士たちはその保護を失い、心なき贔屓客の幇間的芸人へと堕落する傾向が見られる。
 この風潮を憂えた大横綱、常陸山は、常に厳しい稽古とともに「力士は人間として紳士らしく振舞え、部屋での生活も、礼節をわきまえ、一般の人へも折り目正しく・・・」と諭していた。
 これをうけて、相撲協会は「大相撲組合規定18条」を作成する。その目的とするところは、興行収支の合理化(経費、人件費の節減)をはかる。金銭貸借を明確にする(ちょっと、いくら貸してください・・・を廃止)。等々、組織として管理面を強化する。
 また、力士たちの品位向上のため、細かいことを決めている。例えば、巡業中の汽車、船に乗っているときは静かにしろ。巡業地に乗り込む時は、関取以上は羽織を着用のこと。第16条には、「大角力の規約に遵?し賭博を為したるものは、見当り次第、組合を除名す」とある。等々。
 さらに、条を追加し、「前角力、本中角力及び同格の行司のために養成所を設置する」等、積極的な施策への意欲も盛られている。
(三)財団法人大日本相撲協会の誕生
 梅・常陸の出現、国技館の設立による黄金時代、以後、相撲界は、禍福さまざまな試練を経た後、大正13年には、明治神宮の外苑に総合競技場の設立を機に、相撲協会は明治神宮への奉納相撲を実施、翌14年の第2回から、全日本力士選手権と称し、トーナメント方式により技を競った。
 大正14年4月29日、当時の攝政宮(昭和天皇)の24歳の誕生日に大相撲を招待された。その御下賜金で幕内最優勝力士への賜盃を謹作した。これが、名古屋場所では白鵬に授与されなかった「天皇盃」である。
 これと関連して、相撲協会は、大正14年9月30日、文部省に対し、財団法人設立を申請、同年12月28日、許可されている。
 基本財産は、国技館の建造物、公益法人として、その主な目的は、
 1.相撲専修学校の設立
 2.学生とその他に対し、相撲を中心とする体育の指導
 3.力士の養成
 4.相撲道に関する出版物の刊行及び参考室の設備
 5.国技館の維持
 名称は、「財団法人大日本相撲協会」とする。(昭和33年に『大』の文字削除)
 以上、明治になってからの相撲の近代化のひとコマを垣間見て、その後、百年余の間、今なお、問題は解決してないようである。
(四)大相撲の歴史とその将来に想う
 この度の“相撲協会”の事件をマスコミの伝えるところを聞きながら、あらためて手もとにある蔵書を繙きながら“相撲とは何か”を考えていた。
 まず、相撲は第一に歴史的に見て、力くらべ、格闘技である。
 しかし、一方、相撲協会が代表するように、競技ルールによって特定された格闘技でもある。そのルールは最も単純で、わかりやすい、「裸体で徒手空拳で闘うこと、足の裏以外が土に着くか、土俵の外に出ることで勝負がつくこと」と「禁じ手」くらい。もの心ついた幼児にも勝ち負けはすぐに判定できるスポーツではある。
 わたしたち日本人にとって、相撲は古代からさまざまな形で伝えられた歴史、文化的要素を蓄えて、今日に至っている。
 例えば、四本柱は廃止されたが、玄武(くろ)、青龍(あお)、朱雀(あか)、白虎(しろ)の房は、東西南北、四方をつかさどる神を意味する。また、力士が入退場する通路を“花道”と称するのは、奈良から平安王朝時代の「相撲節(すまいのせち)」で、力士たちは髪に東方は葵の花、西方は夕顔の花を挿して登場、儀式を終わり、勝者は相手方の花を抜いて退場していた」ことによるという。
 その他、力水、力紙、浄めの塩、締め込、化粧廻し、拍子木等々・・・・・・いろいろな所作、道具には、相撲節から、武士時代は戦闘の際の訓練へ、さらに神社仏閣への勧進相撲、徳川時代になっての興行化した相撲の名残りがあろ。格闘技を彩る、相撲を「装飾する文化装置」、これが不思議に調和するのは「相撲情緒」が日本人の心に通じるものがあるからだろう。
 
 徳川時代、江戸を中心として興行化していくと、自らの藩の「お抱え」力士、職業としての専門職の力士を有し、競争するようになる。そして、その力士たちが、現役を引退すると、年寄りとして、相撲興行の世話、いわゆる、取り仕切る組織ができる。これを相撲会所と称したものが、現在の日本相撲協会(年寄、部屋制度を含めた)のルーツといわれている。
 明治維新以降、昭和に至るまで、この制度や力士の待遇等について数回に至り紛争が起こっている。(昭和7年、天龍の春秋園事件を御存知の方もあるでしょう)。
 しかし、今日に至るまで、いわゆる故実の良さが主張され、いわゆる閉鎖社会と称される「負(マイナス)」の部分が解決されずにいたことが、今日の野球賭博、暴力団との関係の潜在的な原因であろうか。
 さて、どんな改革案が生まれるのか。組織改革とともに、一人の相撲ファンとしてお願いするのは、協会関係者の人々が、一市民としての「良識」はもって対処して頂きたいと切に願っている。
 日本相撲協会という大きな世帯になれば、いろいろの誘惑があったであろう。しかし、それに惑わされず、これを排除できる雰囲気が欠如したのではなかろうか。
 
 名古屋場所は、白鵬の3場所連続の全勝優勝で締めくくることができた。白鵬の優勝インタビュー、「苦しい場所だった。心、身、一如で頑張った」の言や良し。
 来場所から、さらに立派な土俵を見せて頂きたい。
 
相撲取 ならぶや 秋のから錦  嵐雪
参考文献
「明治時代の大相撲」 加藤陸世 著 国民体育協会 昭和17年
「相撲百年」 相馬基 著 時事通信社
「相撲の歴史」 新田一郎 著 山川出版社
「相撲変幻」 宮本徳一蔵 著 ベースボールマガジン社
「相撲今むかし」 和歌森太郎 著 河出書房新社