私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
  会長コラムへようこそ。

 先月のコラムでは、旧制唐津中学校の校歌の歌詞“光、力、望の男の子(下村湖人作詞 )”をとりあげた。歌詞の作意をたどっていくうちに、20数年前、昭和57年の夏、下村湖人先生のお孫さん御一家と、東の浜にて、バーベキューを囲み歓談した夕を思い起こしていた。
 
下村湖人を偲ぶ
下村湖人先生のお孫さん御一家とバーベキュー
 
(一)唐津、東の浜辺のバーベキュー  昭和57年8月8日の夕
 当時、唐津観光協会の専務だった諸井道真君に誘われるまま、竹尾彦己鶴城同窓会長(旧唐津中学29期)、進藤三郎進藤病院長(同28期)等の方々の席にはべらせて頂いた。
 下村湖人のお孫さんとはいえ、妙齢のご婦人と御主人の井川宏様とお嬢さん。井川様が海上自衛隊佐世保地方隊にご勤務になられたので、御来唐の由、また、下村湖人先生の御長女、明石晴代様が先に出版されていた「『次郎物語』に賭けた父・下村湖人」を書き改められるべく、資料を集めたいとのご意向で、下村湖人先生の教え子、竹尾、進藤両氏と懇談しようという趣旨の団らんの場であった。
 そのとき、竹尾彦己さんは、
 「関東大震災で被災した英語教師が生死不明で戻ってこられなかったので、下村校長が自ら講義して頂いた。とても厳しく、質問に答えられないと、『立っておれ―』とこわかったですよ。しかし、とても温かかったですよ」
 といった思い出話をされた。
 
 何しろ、私どもの年代にとっては、下村湖人といえば、偉大、高潔な幻の師。先輩の昔話に耳を傾け、飾り気のない御夫婦との歓談も楽しく、最後に“宇宙のみいのーち・・・・・・”と謳歌し、印象に残る夏の夕であった。
 そのとき井川様が、
 「母が書きあげましたら、お送りしましょう」と言われ、そのお言葉を律儀に守っていただき、5年後の昭和62年になり、著者 明石晴代の御署名入りの「『次郎物語』と父下村湖人」を御恵贈頂いた。
 思いがけず、手にした下村湖人の回想記を一気に読みふけった。感動のさめやらぬ頃、唐津新聞からの依頼で拙文の書評が、昭和62年2月3日の新聞に掲載された。その書評が、著者 明石晴代さんの手許に届いたのでしょうか、間もなく、
 「・・・ご親切な書評をお書き頂き、誠にありがとうございました。・・・唐津中学出身者の方に、お手紙、お電話を頂いております。(また)娘一家が五年前に大変お世話になりました」
 との麗筆、丁重なお手紙を頂いた。それから今日まで「『次郎物語』に賭けた父・下村湖人」、「『次郎物語』と父下村湖人」の二冊は私の書棚にたたずんでいた。
(二)「雨校長」の人間愛
 今、再び、「『次郎物語』と父下村湖人」を繙いている。その中から、やはり、唐津中学校長の就任時のことを記した「潮騒の聞こえる家」を開いている。
 その一節に、
 「唐津で父に与えられた住まいは、唐津中学校(現早稲田佐賀中学校・高等学校)から、七、八分の距離にあり、・・・・・・私たちの家の隣りは新築されたばかりの豪壮な高取家の邸宅がそそり立ち、・・・・・・」
 とあるから、現在の九州電力の静養所舞鶴荘と北城内児童公園の間の家で過ごされたであろう。
唐津在住時の住居入口
 北城内児童公園 九州電力 舞鶴荘 
 下村校長が出席される屋外の催し物では、不思議に雨が降ったので、「雨校長」といわれた。後に福岡の香椎高校で校長を務められた川越氏が唐津中学に奉職されており、湖人が校長として赴任されたときのエピソードを次の様に書き残されている。
 
 唐津中学では、大正12年、校長排斥のストライキが起きて、着任されたのが下村校長であった。就任式も平凡ではなかった。まだストライキの興奮さめやらず、一部の学生の煽動もあり、最初から不穏な空気に満たされていた。床板を踏みならし、ヤジ、笑い声、叱声、口笛・・・・・・
 騒ぎが一段落するのを待って、下村校長は、その一瞬を見逃さず、とてつもない大声で
 “騒がしい”と一喝!
 たちまち、場内はシーンと静まりかえる。
 何事もなかったかのように、下村校長は、静かに語りはじめられる。
 「青年は常に希望を失わず、自由に個性を伸ばし、将来の国家社会にとって存在価値のある人格を完成すべく・・・・・・」と就任の挨拶をされた。
 
 また、たびたび、職員会議の話題になる乱暴な生徒があった。ある日、その生徒が、故意に校舎のガラスを割った。放課後、下村校長はその生徒と二人だけになるのを待って、「構わないから、この棒で思い切り、ガラスを割れるだけ割ってみよ」と申しわたす。・・・・・・その生徒はニタリと笑って、割りはじめる。
 しばし、すさまじい音が校舎に反響する。ガラスの破片が飛び散る。阿修羅の如く割り続ける生徒の後姿を見つめていた下村校長は、人を困らせてばかりいたかつての自分自身のいじけた姿をまざまざと見せつけらる思いで目頭を熱くした。ふと振り返った生徒は下村校長をみて、突然「ウウッ」と涙にむせび、その場にうずくまってしまった。
 うす暗くなった教室に、磯の香が迫ってくる。この日以来、彼の名前が職員会議の問題になったことはなかった。
 
 当時、齢三十九、不惑を前後して、実家内田家、下村家両家の悩みを胸に秘し、あるときは豪放磊落に、あるときは温かく、その全精力を青少年教育に傾注する。下村湖人として、また唐津中学校として、最も充実した時代であったのではなかろうか。
 校歌も制定され、下村校長の構想に基づく深紅を地に、両翼をひろげて飛ぶ鶴を染め抜いた校旗を、生徒会長に授与した頃、下村湖人が畏敬する田沢義鋪(よしはる)の推薦により、下村校長に台湾の台中第一中学校への転任の動きがおこる。
(三)唐津から台湾へ
 「松浦の哲人を引きとめよ。郷土文化振興のため、偉大なる哲人を去らしめてはならぬ」との留任運動も空しく、「自ら教育者として異民族教育のため挺身するので立たしめてください」との下村湖人の意志は固く、数々の業績を残し、“宇宙のみ命・・・・・・”の校歌の大合唱に送られ、新天地に向われた。
 
 台中第一中学校は、9割が台湾人の子弟であり、下村湖人は、校長として、苦労しながらも難しい学校経営に専念され、昭和4年2月には台北高等学校(旧制7年制)に教頭として転任、11月からは校長へと抜擢される。
 運命とは皮肉なものである。
 翌、昭和5年の第2学期の9月10日、第2時限の授業の終了後、突如として生徒代表が、2名の生徒の処遇その他、4項目を要求し、ストライキに突入した。
 この問題は、一般の予想を裏切り、警察の介入を呼び、台湾総督府まで巻き込んで、複雑となっていく。
 漸くストライキも解決し、6ヶ月。台湾総督府の新しい文教局長から、総督府入りを打診されるや、直ちに辞表を提出する。47歳の夏、下村湖人20年にわたる学校教育者としての生活は終りを告げる。
(四)「次郎物語」とその後
 失意の末に帰京した下村湖人は、再び、尊敬する田沢義鋪氏の勧めもあり、青年の指導にあたることになる。その頃、田沢は、すでに社会教育に尽くした功績を認められ、貴族院議員に勅選されており、下村湖人は、最も信頼できる協力者として活躍する。
 そして、その一方、湖人が暖めていた、自伝風の小説「次郎物語」を昭和11年から執筆、雑誌青年に連載し、あるいは自らの歌集「冬青葉」を出版する等、文学的な活動にも取り組む。
 しかしながら、時は、残念ながら戦争への道をたどり、意に反して、その活動は制約され、東京空襲下では、疎開を拒否した防空壕内での生活の中、次郎物語の続編の出版と青少年の人間性を尊重した活動が続く。
 戦後は「現代訳論語」、田沢義鋪の伝記「この人を見よ」を完成後、病床にあり、昭和30年、71歳で没す。
(五)下村湖人が唐津に残したもの。
 私どもの郷土唐津での下村湖人の生活は、唐津中学の教頭、校長を通じ、34歳から41歳までの7年間であった。
 今、明治・大正・昭和の3代にわたり、高邁な人格と、あくまでも青少年を尊重する教育信念を貫かれた生涯の中にあって、私どもの故郷、唐津に残された業績は、
 
 旧制唐津中学校には

    「宇宙のみ生命、大日輪の・・・光、力、希望の男の子・・・」

 唐津東高校には
    「天日かがやき大地は匂ひ・・・光、力、希望の学徒・・・」
 
 という校歌である。歌い継がれて、およそ90年余。さらに永久に歌い継がれていくことだろう。
 さらに、岸川龍氏(唐津中学50回卒)の研究によれば唐津市の小、中学校の校歌の中には、光、力、望等の語句が数多くみられるとのことを考えると、下村湖人が唐津地区教育界に残された業績の裾野の広さに驚かされる。
 そして、光、力、望の中に秘められた、理想を追い求める人間愛こそ、IT社会の現在に欠けているものではなかろうか。
参考文献
「『次郎物語』と父下村湖人」 明石晴代 著 勁草出版サービスセンター
「『次郎物語』に賭けた父・下村湖人」 明石晴代 著 読売新聞社
鶴城 創立90周年誌 唐津東高等学校
鶴城 創立100周年誌 唐津東高等学校